第七の町セヘプテムタ/04
心臓に走る痛みや胸を掻き毟りたい衝動はもう無い。自分を拘束する枷も無い。背中には柔らかい寝具の感触。至る所から出ていた血は止まっており、そして傷口も無い。牢屋から脱出後、体力が尽きてしまったらしい。そこを誰かに助けられたようだ。此処の校長であるパーヴェではない事は確かで此処に協力を煽ったのは些か失策だったなと心臓の辺りを摩りながら体を起こした。
「遅い目覚めだな。勇者が来なければどうなっていたことか…。お前はどうやら自分に対する運は良いらしい。」
事の発端であり全ての元凶である自分の心臓に住み着く物体がベッドの傍らに立っていた。自分と同じような口調で話す男は一切表情は無く、人間ではない事は確かで異様な雰囲気を醸し出していた。今、此処に人が現れれば一般人でも直ぐに分かってしまうだろう。人間では、ないと。
「…それはどうだか。勇者は馬鹿だと自称しているが切れ者だ。侮れんよ。」
「そのようだな。」と笑う男の背後に廊下の明かりが射し込んだ。黒い実景でも分かるその姿は扉をゆっくりと閉めて、室内に足を踏み入れた。
「…で、何を君は私に問うのかな?」
これは話すしかないなと騎士は苦笑を噛み殺しながら表情は変えずに先陣を切った。だが青年が答える前に男は青年に近づき、青年の腕に電気のような痺れが走った。
「盗み聴きをしている奴が居たようだ。…全くもって不快だ、少しその魔術の繋がりに細工をさせてもらった。」
お前の意思で遮断可能だと言葉を続け、男はそれ以降口を開く事は無かった。青年と騎士の話には介入せず、ただ見守っているだけで男の真意は分からなかった。その様子を面白がっているのか、或いは自分が口を挟むまでも無いのか、面倒なのか。ただ佇んで居るだけだった。
「…最初は嫌な人間だと思っていたが結構大変な目に合ってきたからそんなに性格が歪んだのか。」
「貴方も大概嫌な人間ですよ。隠している様ですが性格も相当、私と同等に歪んでいる。何れ仲間にも気づかれるでしょう。もう既に何名か気づいているかもしれませんね。」
「本当に…嫌な奴だな。此処まで嫌悪感を覚えたのは久し振りだ。」
お互いに悪態を吐いていたが嫌な素振りは見せず、腹を割って話すのは久し振り、いや初めてかもしれないなと青年は思った。騎士は騎士で皮肉含めた表情で笑みを浮かべていた。
「私の事は全て話した。何故一応だが勇者の貴方が此処に留まる必要があるんですか、仲間に色々と迷惑が掛かりますし魔王討伐への妨げになるでしょう。」
この話題は避けられないと考えていたが直接聞いてくるとは思わなかった。先程施された魔術の繋がりを遮断し、青年は話そうと一時的に魔術が切れた感覚を感じた。
「魔導書の最後の項目を解読する手掛かりが見つかった。丁度この地に、此処と繋がりがあるらしい。それに色々と此処で行われている実験について興味がある。」
「実験については私から散々聞いておいてまだ調べるつもりですか。さっさと旅に戻れ…と思いますよ。」
「此処での用事が済んでも他に行くべき場所が残っている。それが済めば戻るさ。」
「…信用なりませんねえ。」と訝しんだ目が細められる。昔に会った勇者が良い例だ。それから色々と選定の儀も歪み始めたと聞く。
「此処で用が済めば、魔王に会いに行く。その後で友人の待つ峠を超えて同行していた王女の国でパーティと合流する手筈だ。」
全てを話したといった堂々とした顔で青年は話したが騎士は硬直したまま動かず、黙りを決め込んでいた男は声が漏れないように手で口を覆って小刻みに肩を震わせていた。
「…会いに行く?倒しに行くの間違えでは?」
「会いに行く。」ともう一度言えば"お前は何を言っているんだ"と言いたいような顔で眉間に皺を寄せた。堪えきれなくなった男は声を上げ、腹を抱えて笑った。
「俺はまだ死にたくはなかったから止む無く勇者になっただけだ。確固たる意志があって勇者になったわけじゃない。魔王にも魔物にも恨みは無い。だが勇者という肩書きを貰ってしまった以上、倒さないといけない面倒な事になっている。魔王と会い、見極める。俺には俺を納得させる方法は一つしかない。だから会いに行く。」
室内に男の笑い声が響く。だが空気は妙に重かった。その中で固まっていた騎士は漸く口を開く。
「…恨んではいない、というのは貴方には通常な思考が無いみたいですね。貴方と同じような苦しみを味わった人間なら魔物を魔王を恨む筈だ。」
自分の過去を何故知っているのかと追求したかったが愚問だろう。
「自分が無力だったからだ。魔物や魔王を恨む必要は無い。」
此処は追求せずに青年は話を進めた。騎士は何かを思い出したように溜息を吐き、「貴方は馬鹿でしたね。」と呆れた表情で言った。そして彼は頭の切れる馬鹿でよくわからない人間だと騎士は認識を改めた。
「それで魔王は何処に居るのかわかっているのか?」
「ああ、カエルムエィスに居る。」
「……カエルムエィスは私が所属するカエルム教会、ノックス騎士団が守護している。カエルムエィスは強固な結界を張っている、魔王が侵入すれば発動する。居るはずがない。」
カエルムエィスと言えばレコの店で購入した宗教の本で出てきたゲーテ教を国教とする国だ。目の前に居る騎士は教会の騎士。その教会がゲーテ教を布教したのかと何となく疑問に思えば、それと共に妙な違和感が感じられた。
「この道中、噂一つ聞かなかった魔王の情報が漸く手に入った。初めて耳にした情報だ、行く他には無いだろ。」
「此処から行くには一ヶ月以上かかる。どうやって行くつもりだ、パーティの人間にはお前は逃げたと思われる。」
「そこは淫魔の転移水晶がある。それで魔王の元に直接飛ぶ。帰りはこれで聞くさ。」
首から下がる伝言水晶を指で摘まんで見せた。一瞬だったが見えた文字に見覚えがあった。見間違えだろう、単なる刺青だと騎士は思い込んだ。
「…お前は自分の立場を分かっているのか?勇者よ、お前が思っている異常に知られているし見られている。…その前に、だ。魔王に会いに行く事は命を棄てるに等しい事だ。魔王が勇者であるお前と話をすると思うのか?その確証はあるのか?
お前に世界の命運が握られている。今は魔王に目立った動きは無いが何れ動き始める。貴方の行動には無理がある。それでも魔王に会いに行くのなら…私が全力で止めよう。」
閉め切られた室内に風が吹いた。蝋燭の火は揺らぎ、一度は耐えたがまた風が吹けば消えた。何故此処まで言うのか青年は分からなかったがあの時と同じ、自分が"勇者"だから言われているのだと妙な感情を覚え、自分は勇者だったと思い出した。腕の紋様が熱を孕む。剣に触れてもおらず魔石からも魔力を取り込んでいない、何もしていないのに腕が紋様が熱い。背筋に汗が伝う。防具と衣服の隙間から鈍く光る紋様が目に入り、青年は短外套の中に腕を隠した。次第に額に汗が浮かぶ。じっとりした汗がこめかみに垂れ落ち、暗闇で良かったと青年は思いながらフードを被った。
「……会いに行かないと気が済まない。勇者という肩書きは持っているが俺は俺だ。俺の事情だってある。この仕事は私情を挟む事も許されないのか?」
平和を齎す代わりに勇者は命と引き換えに名声を得る。だが勇者を目指す人間達は命を落とすなんて思ってもおらず内心笑顔を見せながら選定の儀を迎え、無残にも死んで行った。狭き門である五人の内の一人になれたのだからそれだけで十分名声が得られたのだろう。
平和と言ってもたかが数十年、一時の平和だ。魔王は何度滅んでも何度生き返る。そういうものだ。勇者はただの一時の平和の為の生贄。だが生贄は名声を得て、世界に歴史に名を残す。
「…やはり私には分からない。貴方の事が見えない。私には止める事は出来ないようだね。だが…私は本国に戻らなければならない、途中まで着いて行こう。その間にお前の考えが改められれば良いがな。」
騎士はきっと苦笑しているだろう。小さく窓を開ける金属音が暗闇に響き、ひんやりとした風が青年の外套を僅かに揺らした。紋様はまだ熱を持っており収まりそうになかった。
──
水を浴びせても凍らしても紋様の熱は収まらない。徐々に体温が奪われるような感覚があったが頬に触れると温かった。
意外と此処の町は風が強く、校舎の屋根に登った青年の短外套をはためかせていた。ブラドは今頃淫魔と話をしているのだろうか。面倒な事にならなければ良いなと思いつつ、この熱が収まらない限り眠れそうにない。フィラーリネに聞いても分からないと言うだけだろう。何かないかと空間魔術を使い取り出そうとしたが手が止まる。あの魔法が解除出来ない限り空間魔術は使えない。剣は背負っており問題は無いが食糧などは全部異空間の中だ。今思えば食糧以外の旅での所持品は殆どスリロスに持たせている。確か日記は誰にも見られないように異空間に仕舞っている筈だ。ならば日記も書けない。干し肉も食えない。ああ終わったと青年は片手で目を覆った。
「カーカブ、貴方様は此処に滞在する気なのかしら?」
突然話し掛けられた方向に振り向けば人間の姿をした露出の低い衣服を着た淫魔だった。若干機嫌が悪そうな顔をしていたが青年は問い掛けられた事に答えた。
「この魔法が解ければ此処を離れる。多く見積もって三日程度だ。…それがどうかしたか?」
「それぐらいなら丁度良いわ、私も此処で少し用事が出来たの。…それと貴方様の血を飲ませてくれないかしら…。」
「断る。」と即座に拒否し、青年はたまったもんじゃないと眉間に皺を寄せた。突拍子もない事を仕出かすのは精霊も妖精も魔物も同じなのだろうか。そうに違いない。
「…出来た用事は此処で行われている事に関わる事か?」
「ふふ…私は何を言っているのかよく分かりません。一つ忠告するなら…此処には関わらない事よ。」
口の端を釣り上げて笑う淫魔の言葉の裏には何が隠されているのか。此処では相当悪質で重要な実験が行われている。…関わらないのが得策だろう。少し気になる事だが淫魔の言う通りに関わらない事にしよう。
「ガーディアンの仮の主が部屋を用意したって聞いたわ。早く行きましょう?」
屋根から飛び降りた淫魔を追うように青年も飛び降り、肌を突き刺す冷たさが腕の熱を冷ましてくれる事を願った。