ゴミ溜めに響くサイレン
世界が僕に分け与えたものはあまりに残酷で……。
だけどあのときの僕はその残酷さを、理解してなどいなかったんだ。
――監獄より
序 思い出
「サイ? あなたサイっていうの?」
澄んだエメラルドの瞳が真っ直ぐに見つめ、艶やかな唇でサイの名を呼んだ。
「そうだよ、ユイ。一文字違いなのに、君は唯一のユイなんだね。良い名前だ」
廃工場の片隅に置かれたベッドで、埃っぽい朝日を浴びながら、サイは白衣の腕でユイのブロンドの頭を抱き寄せる。
明るい日の光を浴びて生きられない者たちが集まる見捨てられた街、スラムへ迷い込んできた、間抜けな女。職業はナース。彼女は純朴な目で聞いた。
「サイは……自分の名前が嫌い?」
「僕の名は……僕の名は、サイボーグのサイだ…」
太陽を堂々と浴びて生活するユイが眩しすぎて、サイは目を逸らして言った。卑屈な顔をしていたかもしれない。
「……!!」
やっぱり彼女は驚いた。小さな口を、白く細い両手で覆って、目をぱちくりと開けて。
「あなた……人間じゃないの?」
「人間だよ」
今年二十六になる。筋肉痛にもなれば無精ひげだって生える。三日も寝ずに機械をいじくっていれば、さすがに目がかすんでくる。お腹も空くし、忘れられない思い出だってある。だから、人間的な感情で、この住処を離れられないでいるのだ。
「だったらなぜ……そんな名前を…」
「嫌いなわけじゃないんだ。自分の名前。……サイって名前は、アモンが付けてくれた名前なんだ」
どうして初対面の街の女性をこんなところに引き止めて、一晩泊めたりして、その上こんな昔話なんてしているのだろう。
きっと、寂しいのだ。
けれどサイはそれを自覚したくない。アモンが遺していった、この廃工場(おそらくは衣服を製造していた)に作られた研究所で、ここ二十八管区に住む皆を守りながら生きていくと決めたのだから。
「アモン? 誰?」
やはり彼女は訊いてくる。
「アモンは……僕を拾ってくれた人なんだ」
そしてやはり素直に答えてしまう自分がいる。
アモンは「管区」とは名ばかりの、最早政府自治体にも見放されたスラム、二十八管区に住んでいた。いつもボロの白衣を纏って無精ひげを生やし、裸足で研究台に立ち、何かを作っていた。「狂気の科学者」と徒名される部類の人物かも知れなかった。しかしそう名称付けてしまうには、アモンには何か、違和感があった。無粋に振舞っていても、良い環境で育ち、崇高な教育を受けた者のプライドがどこか漂っているような感じがした。
「たぶん、アモンってのは本名じゃない。あぁ、あそこに、写真があるだろ?」
サイは設計図が散らばったデスクの上を指差した。埃を被った写真立てが、かろうじて存在感を放っている。
「あれ、きっとどこかの大学の卒業式かなんかで撮った、ゼミか学会の集合写真だと思うんだ。上段の右から二番目に、アモンが映ってる。僕には一度も見せたことのない笑顔でね」
ユイはわずかに身じろいで、上半身をサイに摺り寄せてきた。
「アモンは一度も自分のこと話さずに逝っちゃったけど、僕、アモンはもしかしたら、その写真の学会を追放されてしまったんじゃないかって……」
何を言っているのだろう。こんな推測、したって意味が無いのに、それを他人にまで聞かせて、だからどうだというのだろう。
「学会を追放されて、研究が続けられなくなって、でも信念だけはあったから……こんな場所で……」
「アモンっていうのは、」
ユイが口を開く。
「アモンっていうのは、自身への嘲笑? 拾った子にそんな名前まで付けて……あ、ごめんなさい」
「いいよ、気にしないよ。……うん、かもね」
アモン、その意味は、「悪魔」。悪魔が拾って育てた人工物、サイ。
「それで、その人の意思を継いで研究を?」
「違うよ」
サイは即答する。
「アモンは僕に、何を作っているのかさえ、教えてくれなかった。『てめぇにゃ関係ねぇ。ガキはさっさと寝ちまえ』って、恐い顔して頭はたかれて、それでも眠れない夜にはココアを作ってくれた。ココアなんて、貴重品なのにね。…僕は、親代わりのアモンにまだ甘えていたいだけなんだ。ここにいる理由のひとつはそれ」
「理由のひとつ?」
「あぁ」
サイは腰掛けていた固いベッドから立ち上がり、くたびれた冷蔵庫の方へ歩を進めた。
「もうひとつは、交換条件。ここ、ジャンクの宝箱なんだ。不法投棄されたものだけど。それを拝借する代わりに、ここの住人に電気を配信してる。二十八管区は見捨てられたゴミ溜めだ。電気やガスなんて通っちゃいないからね。ほら、冷えてるよ、飲みな」
冷蔵庫から取り出した貴重な缶コーヒーを、ユイに投げて渡す。
「きゃっ。あ、ありがと……でもこれ、何? どこの国の文字なの?」
密輸品だ。タダ同然の安さでスラムから仕入れるのだが、やはりサイにしてみれば高い。
「ブラックコーヒー。街の人には薄いかもしれないけど」
ユイは不思議そうに缶のパッケージを眺めている。
「それ飲んだら帰りなよ。で、もうここには来ちゃだめだ。スラムで生きる知恵のないものがいたずらに出入りしたって、社会から白眼視されるだけだし、最悪、何かの濡れ衣着せられて逮捕か、もしくはコレだ」
サイは指をピストルの形に作って、ユイにむかって引き金を引く真似をした。
ユイは一瞬目を見開く。そして俯き、しばらくの後コーヒーを少し飲んだ。
「……いつも、こんな生活しているの?」
「そうだよ?」
それが普通だ。街に住む彼女らには耐えられない生活に思えるのだろうが、サイは物心ついてからずっと、ここで生活しているのだ。むしろ居心地がいい。
「本当に、もう来ちゃだめ?」
「来ない方がいいよ。君のためだ」
「サイは、サイはどうなの?」
真剣に見つめるエメラルドの瞳。
「サイ自身は、やっぱり、来てほしくない?」
それが、ユイとの出会いだった。
まったく、変な迷子を拾ったばかりに。それも、大きな大人の女の、看護婦だ。
二十八管区の夜はろくなことがないのだ。出歩かない方が無難。そんなの、ゴミ溜めみたいなこの街の、暗黙のルールだったのに。サイは失念していた。あまりに銃声の聞こえない、静かな夜だったから……。
――君、どうしたの?
――あぁ、良かった。やっと人に会えた。
――もしかして君、ここの住人じゃないのか。
――第三管区にマンションがあるんだけど、帰る途中道に迷っちゃって。
――っ! 誰にも尾けられてないな? 早く入れ!
あの夜がフラッシュバックする。
今日作ってきたというサンドイッチを手に微笑むユイに背を向け、サイはデスクの上の設計図を握りしめた。手が震えている。
こんなものがあるから……。
「どうかしたの?」
「い、いや、なんでもないよ」
設計図を隠すように振り返ったサイは、笑顔を取り繕う。
――アンドロイド。
彼が握りしめた設計図には、確かにそう読み取れる文字が記されていた。
一 過去
サイは生まれつきIQが高かった。そしてなまじ機械に対する相性が良すぎたために、アモン亡き後、全てを知ってしまった。
この軍の治める世で、政府が恐れ、禁止しているものを、アモンは作ろうとしていたのだ。
アモンは毒に侵されていた。ただでさえ空気や食べ物の悪い二十八管区の、安全策もままならない廃工場に、有毒な金属や液体を持ち込んで寝る間も惜しんで研究に没頭していたのだ。だから、まだ寿命の半分ほどしか生きていないだろう若さで、彼は逝った。
病床に少年だったサイを呼んで、アモンは言った。「いいか、俺が死んだらこの工場に油撒いて火ぃ付けろ。間違ってもその辺の機械やノートに触れるんじゃねぇぞ。お前にゃ関係ねぇモンだ。お前は何も知らずに俺と俺の研究してるモンを心中させて、街へ出ろ。ボロ切れ着て憐れな格好してりゃあ、誰か拾ってくれるだろうよ」
サイはアモンとの約束を破った。そんなにボロボロになるまでアモンが熱中していたものの正体が知りたくて、彼の死の直後、泣きながら彼のノートを開いた。場合によっては研究の対象を一生憎むつもりでいた。
だが――。
サイは魅せられた。
一目で分かった。それは、アンドロイドの設計図だった。
アンドロイドを作ることは、法に触れる。それどころか、自らの命すら危うい。政府は恐れているのだ、人間よりも強い者の存在を。兵器ですら倒せない、不死身の彼らを。支配者はいつの世でも最強を誇りたがるから。
サイは納得した。アモンが悪魔たる所以を。彼の作ろうとしていたものの素晴らしさを。
支配者になんてなるつもりなどない。強者になるつもりも、権力を振りかざすつもりもサイにはなかった。ただ、無性に生み出したくなった。人間を。人が人を生み出せる。それも、科学と工学の力をもって。その可能性はサイを刺激し、サイの胸を高鳴らせた。
僕はこの手で人を生み出せる。もう恐いものなどない。もう一人じゃない。僕はこの手で……アモンを作ろう。
サイはアモンのノートに記された数字や化学式を次々と修正していった。どうしてアモンはこんな簡単なことも分からなかったのだろう。サイの両手は生き生きと動いた。
二 悪夢
初夏に入ったばかりの、寝苦しい夜だった。ユイが残していった甘いリンゴをほおばりながら、サイは研究台の隅に置かれた小さな箱を弄んでいた。ベッドに入っても逆に目が冴えるから、起きて物思いに耽っているのだ。
手のひらサイズの小さな箱には、たくさんのICチップが詰め込まれている。入れ物は半透明のプラスチック製で、中のはんだが鈍く光っている。ネジで留められた小さなプレートにはこう記してあった。
“ID 001 EMOTION”
「イーエムオー、ティーアイオーエヌ、こころ……」
サイは呟く。
これが心? この固くて軽い、投げれば潰れてしまう、これが心か。大量生産できるな。なんて軽い……。
「くっ……!」
無性に胸が苦しくなって、サイは箱を投げ捨てた。箱はベルトコンベアの枠に当たって散らばった。かしゃん、とおもちゃが壊れるときの音がする。
どうしてあんなものを大事に持ってなどいたのだろう。壊れてしまった箱は、サイが初めて作ったアンドロイドの、感情を司る部品だったものだ。
「僕は……なんて愚かなものを……」
作り出してしまったのだろう。
もう十年も前の話だ。未熟だったのだ。まだ子供だったから、無邪気に父親などを望んでしまった。その過ちはなおもサイの心を占領し、彼を苛み続けている。
サイの白衣を捲り上げた腕に、ねっとりとした夜が絡みつく。どっと疲れた。……。………。
アンドロイドが完成したあの夜、サイは恐ろしく興奮していた。溢れだす感情をどのように表現してよいのか分からず、サイは引きつった笑みを浮かべて、眼前の手術台を見下ろしていた。
一人の男が横たわっている。彼の唯一の知り合いで、彼が最も会いたかった男が、生前と変わらぬ姿で眠っている。
二年かかった。やっと完成した。完璧だった。
サイはひどくやつれた腕を差し伸べて、優しく呼びかけた。
「起きて? アモン」
再びこの名を呼べる日が来るなんて。サイの目には涙さえ浮かんだ。笑みもこぼれる。
「アモン、おはよう」
話しかけるとその男は、パソコンが起動するときのような機械音を立てて双眸を開いた。同じような音を立てて上半身を起こす。実に自然な動きだった。さらに彼はサイに首をめぐらせ、少し微笑んでこう言った。
「おはよう、サイ」
…違う。
サイは凍りついた。
隈のできた目を思いきり見開く。違う、アモンはそんなふうに笑ったりしない。機械の音もしない。人間なら、胸を小さく上下させて呼吸をしながら喉を震わせて声を出すのだ。
これは、生きてなどいない。
唇がわなないた。息ができない。あれほど望んだことだったのに。ちゃんと動いてくれたのに。
サイは目の前のアモンを、怖いと思った。
アモンは手術台から下りると、椅子にかけてあった白衣を纏い、かび臭い本棚から研究書を何冊か引き抜くと、デスクに歩を進めた。水銀灯を付けて設計図を広げる。
「おい、ガキ、手伝え。ぼーっとしてんじゃねぇ。ガラクタのひとつでも拾って来やがれ」
アモンは生前のアモンと変わらぬ口調で言った。
「……るな…」
サイはズボンの裾を握りしめて呟いた。足元を凝視し、歯を喰いしばる。
「あん? 何か言ったか? サイ」
「触るなって言ったんだ!」
言うが早いか、サイはアモンに突進し、アモンをデスクから引き剥がした。
引き剥がそうとした。だが機械の体は重く、おまけに人間をなぎ払おうとしたときの感触とは だいぶ違うそれが、サイの意思を拒んだ。
アモンの体は、固くて冷たかった。
アモンは、機械だ。
「おい、あんだよイキナリ」
機械は怪訝な表情でサイを見る。
これは、サイを育ててくれたアモンではない。サイが作り出した幻想だ。アモンの魂を持った機械なのだ。分かっている。自分が作ったのだ。ああだけど。
「……ば、け、もの……」
現実を否定するかのように、サイはゆっくり顔を横に振り、ゆっくりと後ずさる。
「お前なんか……お前なんかアモンじゃない……ば、化け物! アモンの机から離れろよ! アモンの心を返せ! アモンの声で喋るな! アモンの、アモンの顔で笑うんじゃない! アモンなんかじゃないくせに! お前なんか死ねよバケモノっ!」
サイは気がふれたように喚きちらし、手に取る全ての物を機械に向かって投げた。
「さ、サイ! やめろ! なんだ、何しやがる!」
アモンの姿をした機械は、飛んでくるものを避け、なぎ払い、それでも避けきれずに当たったりしながら怒声を放った。
「アモンの声で喋るなって言ってるだろ!」
ついにサイは鉄製のミシンを投げた。工場に元々あったものだ。
ごいん、という鈍い音の後、みし、と何か固いものが破れる音がした。
「やめろ、サイ。左頬の外装が取れちまったぞ。後で直してくれんだろうな?」
アモンの顔の半分が、コードやはんだがむき出しになってぴしぴしと青白い光を放っていた。
「来るな、来るなよバケモノ!」
サイはチェーンソーを投げた。車のエンジンを投げた。鉄パイプを投げた。アモンの腕が飛ぶ。テレビカメラを投げた。左胸の鉄板がへこむ。タイプライターを投げた。不法投棄されたジャンクの山から拾ってきたありとあらゆるものを投げた。
けたたましい音がする。何かの破片がぶつかってガラスが割れたのか、耳をつんざく騒音がサイを襲う。
ガシャン、ガシャン! 次々と機械が壊れてゆく音がする。サイは無我夢中でアモンを壊した。
もう投げるものがなくなって、肩で息をしながら恐るおそる近寄ると、アモンのデスクの前には、元は何であったか、どれとどれが同一のものであったか分からなくなった、ガラクタの山ができていた。
その山の中から、肌色の機械の腕が、半分壊れて突き出ていた。サイは吐き気がしてそれをぐしゃりと踏みつけた。
「ザイ……ナニジヤガル……ゴンナ、ヂラガジデ……」
もう原型を留めていないアモンが、否、それに搭載していたスピーカーが、なおもアモンの声を再現する。
「アドデヂャンド、ガダズゲ……」
ぐしゃっ!
サイは思い切りジャンクの中に足を突っ込んで、スピーカーを踏み潰した。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかったんだ……僕はもっと、ただアモンと一緒に……。
「うわあぁぁあぁぁぁああぁっ!!」
サイは慟哭した。両手で耳を塞いで、涙に濡れた瞳を固く瞑って。もう何も、何も望まない。何も要らない。
サイの心を悲しみが支配した。
電話が鳴っている。
はっと目を覚ます。
サイは実験台で眠っていた。汗をぐっしょりかいている。
「……あんな、昔の夢……」
気付くと頬が濡れていた。まだ動悸が激しい。
あんなものを眺めてなどいたからだ。サイは思う。
粉々に壊したつもりだった父親似のアンドロイド。感情配信回路だけがきれいに残っていた。
(電話が鳴っている)
決して優しくはなかったが、自分を育ててくれた、最も慕っていた人。彼はサイの中で二度死んだ。一度目に死んだときは、サイに寂しさを与えた。二度目に死んだときは、サイから思い出を奪っていった。そしてその二度目は、サイ自身が、殺したのだ。
アモンは無惨にもバラバラになって沈黙していた。あの忌まわしい死にざまが、サイの網膜に焼き付いて離れない。
アモンが一度目に死んだとき、ちゃんとアモンの言うとおりに工場に火をつけていれば、アモンはサイの心の中で永遠に生きることが出来た。サイが狂気したばかりに、彼の中に棲んでいたアモンさえも、あのとき粉々に砕けてしまったのだ。
アンドロイドは決して作り出してはならないもの。彼はそれを道徳規範として、それを作り出してしまってから気付いた。機械のアモンが言葉を発してようやく、正気に戻ったのだ。愚かだった。
なおも電話は鳴り続けている。
サイはベルの音にようやく気付く。
「こんな夜中に?」
またどこぞの裏組織かもしれない。サイがアンドロイドの設計図とそれを作る技術を持っているという情報を手に入れた組織が、ときどき物騒な飛び道具などを携えてやってきたりするのだ。
もしそうだったらまたいつもの詭弁と大法螺でやりすごそうと、受話器をゆっくり取り上げる。
アンドロイドは生み出してはならない。でも設計図は捨てられないのだ。アモンの形見だから。
「…はい。どちら様?」
警戒しながら声を紡ぐ。
『ごめん、こんな夜中に……悪い予感がしたから……』
サイの予想は外れた。電話の向こうは、ユイだ。
『寝てたでしょう? サイよね? 良かったわ、――、』
受話器からサイの耳へ、音が入ってゆく。愛しい人の声だ。だが彼は違和感を覚えた。
内容が上手く聞き取れない。まだ動揺しているのだろうか、それとも、寝ぼけているだけか。
『―――……気にしないで、サイ――……――』
自分の名だ。彼女が自分の名を呼んでいる。
ことばが、ことばが聞こえる。
違和感? いや、これは嫌悪感だ。
一度電気信号に変えられた愛しい女の声が、サイに優しい言葉を囁く。電話という機械は、とたんに彼女の魂を持つ。彼女でないものから、彼女の声がする。
サイは恐くなって、何も言わないまま、乱暴に受話器を置いた。
とたんに後悔の念が彼を襲う。
あぁ、僕はなんてことをしてしまったんだろう……。
三 違う世界に住むひと
「どうしたの?! サイ、大丈夫なの?!」
幻聴だろうか、ユイの声がする。
「サイ、サイ、どこにいるの? ……こんなに散らかして……!!」
まさか。彼女は思う。
砕けた精密機械の残骸。散らばった書類。オイルにまみれた月光を浴びて、鈍く光るピストル。無数の足跡。
「サイ! サイ! どこなの?!」
かたり。
デスクの方で物音がした。はっとして振り返る。写真立てが倒れていた。
「そこにいるの?」
ユイはコンクリートの床に落ちていたピストルを拾って、そっとデスクへ近づく。
「サイ、いるの……?」
「……ユイ?」
下のほうから、か細い少年のような声がした。机の下を覗き込むと、無精ひげを生やした白衣の青年が、頭を抱えて丸くなっていた。
「ど、どうしたっていうのよ! とりあえず、そこから出てきてくれない?」
ユイは驚きを隠せない。だってそうだろう。突然切られた電話を不審に思って来てみたら、二十六になる男が、机の下で小さくなっていたのだ。ただ事ではないはずだ。
「さ、立って。出てきてちょうだい?」
ユイは手を差し伸べる。
「ユイ? 君は……本当にユイなの?」
小さな、拒絶の声がする。
「何ばかなこと言ってるの。私よ。ね?」
ユイはしゃがんで、サイと目線を同じくした。だが、サイは抑揚なく言う。
「夜中は何があるか分からないから、危険だから来ちゃダメだって言ってるじゃないか。なのに……ユイがいるはずがないんだ。幻想だったら早く消えてくれないか」
僕ハユイマデ作リ出シテシマッタノカ……?
「幻想じゃないわよ」
「……っ」
サイはびくりと怯えて両耳を塞ぐ。
「サイ!」
ユイはたまらなくなって、持っていたピストルを放り捨て、両腕でサイを引きずり出した。腕を引いて立ち上がらせ、平手を打つ。乾いた音がして、サイの目が見開かれる。
「幻想なわけないじゃない! 私はここにいるわ! ちゃんと見てよ! どうしちゃったのよ、サイ……」
ユイの目から、涙が零れる。
彼女は青年を腕に抱き寄せ、ぬくもりを確かめる。
「心配、したんだから……」
サイは柔らかな彼女の腕に抱かれ、人間の感触を思い出す。
「…あぁ……、ユイ…」
女性の柔らかな肉体が、鼓動を伝える。生きている人間に、今、サイは包まれている。
「ユイ、ユイなんだね。ごめん……僕、おかしくなってた……」
ゆっくりと両腕を持ち上げ、そっと彼女の背中を抱く。
「サイ、一体どうしたっていうの?」
薄汚れた月光に照らされ、淀みのないエメラルドが光る。サイはこの瞳に弱かった。
「全部、話すよ。今まで……嘘ついてきたことも、隠してきたことも。どうか、それでも僕を恐れないでほしい」
何を言っているのだろう。本当にどうしたのだろう。言っていいはずないじゃないか。ユイのような街の人が、裏の事情など知っていいはずがない。本当に僕は、どうかしている……。
しかし口は止まらなかった。
「二十八管区は、治安が悪い。スラムですら生きていけない人たちが、ここで生きている。法や軍の目をかいくぐって商売をしている奴らが住んでいる。だから、裏組織の出入りも、多い。これは話したね?」
「ええ、だから夜中は特に近寄るなって……」
サイはユイをベッドにいざない、古くて固いそこに座らせる。自分は向かい合ってパイプ椅子に座った。
「そう、そして、特にこの廃工場が危険な理由がある」
サイは俯き、ため息をつく。鼓動が早い。頭が麻痺しているような感覚を覚える。
「特に? どういう意味?」
怪訝な声。
「…ここには、連中が欲しがっているモノがある」
声が震えた。
「連中?」
「裏組織の奴らさ」
「クスリ?」
「そんな生易しいもんじゃない」
ドラッグならば繁華街の路地裏でだって手に入る。
「じゃあ……何なの?」
本気で心配そうな声で、真摯な眼を向けて訊いてくる。
この無垢な天使がどうか廃工場の悪魔を恐れて逃げたりしないように、だけどその白い翼を汚して巻き込んでしまわぬように……。サイは別れを決意して口を開く。
「アンドロイドの、設計図だ」
ユイの表情が凍りつく。サイはそれを諦めの表情で見遣って、さらに付け足した。
「僕にはそれを作る技術もある」
それは万死に値する。作る意思の有無に関わらず。
「……いま、なんていったの? ……サイは、何を作る技術があるって……」
信じたくないと、表情でユイが訴えかける。
「アンドロイド、機械の人間だ。ユイ、今聞いたことは忘れて、誰にも言ってはいけない。裏組織さえ確かな情報を得てはいない。このことが真実かどうかは、僕しか知らないんだ。だから、ユイ、君は自分が危険にさらされないように、僕のことを忘れて、街で生きなきゃいけない」
サイはユイのブロンドの髪を撫でて微笑む。
「別れよう、ユイ」
元々彼女をここにとどめておくべきではなかったのだ。サイはユイと出会ってはいけなかった。
彼は仕方のないことなんだと眼を閉じる。
夜が明けはじめ、天井近くの換気扇から漏れる群青色の光が寂しげに揺れる。
「どうして……?」
透明な雫が、次々とエメラルドの瞳からこぼれ落ちる。
「どうしてそんな……私とサイは……」
ユイは現実を拒絶する。しようとして、サイに遮られる。別れのキスだった。
サイはそれから、アモンの研究していたもの、十年前に自分が生み出してしまったもの、電話を切ったわけを話した。
「だからさ、ユイ」
サイは立ち上がってユイに背を向ける。
「……いや……私……」
まだ少し混乱しながら、ユイが拒絶の言葉を紡ごうとした。そのとき。
ドーンと重たい鉄の扉を蹴破る音が、明け方の廃工場に響き渡った。
はっとしてサイは出入口を振り返った。黒服で武装した集団が、次々となだれ込んでくる。
先頭の一人が、威嚇射撃を行った。銃声が暗い工場内に響き渡る。サイはユイをかばった。
彼らのリーダーは、良く通る低い声で宣言した。
「我々は政府直属の機動隊である。ここの住人を、アンドロイド禁止法違反および違法光熱使用、不法居住罪で連行する。リューク・ハワード・トルーソン、速やかに我々の前に出ろ」
「アン、ド、ロイド……」
サイは体が冷えてゆくのを感じながら、かろうじてそれだけを呟いた。心臓が壊れそうなほど早く動いている。反対に、頭からは血の気がすぅっと抜けていく。
上空にヘリの飛ぶ音が聞こえた。遠くから、パトカーのサイレンがいくつもいくつも近づいてくる。
ばれていた? いったい、いつから……。だけど僕にはもう、あんなものを作る意思は……。
「サイ、リュークって、誰のこと?」
白衣にしがみついて震えるユイが、小声で呟く。
サイはかぶりを振った。
「反抗するなら我々もそれなりの用意がある!」
カッと、夜明けにしては眩しすぎる光が廃工場を照らし出した。サーチライトの光だった。
「そこか!」
マシンガンを手にした屈強な男たちが、完全防御の姿勢でサイたちに駆け寄る。
「きゃあっ!」
「ユイ! うあっ」
サイとユイは別々に捕らえられ、引き裂かれた。
「お前がリューク・ハワード・トルーソン博士か」
サイは何人もの男に取り押さえられ、コンクリートに顔を押し付けられながら、尋問された。
「ち、が……僕の名は、サ、イ……」
「博士はどこにいる」
「誰のことか、分からな……」
幾人もに押さえ込まれ、体に無理な圧力がかかっているため、節々が熱い。
「抵抗するなと言ったはずだ!」
「ぐはっ」
戦闘部隊用のブーツで腹を蹴られた。
「サイ! きゃっ!」
捕らえられていることを忘れてサイに駆け寄ろうとしたユイが、両腕を強く引かれて引き戻される。
「喋る、な…逃げ……ユ、イ……」
「お前、知っているのか」
機動隊の別の男が、ユイの胸倉を掴む。
ユイは苦しそうに言の葉を吐き出した。
「もしも本当に、アンドロイドの、設計図、なんてものがあるのなら…、多分リュークは、彼だわ、サイ……。セントアナトリアの、大学院、工学部、学会を、人間研究の論文を書いて、追放された、教授の記事を、図書館で、昔……」
「……アモン」
サイは絶望の中で呟いた。アモンはずっと追われていたのか……?
そんなことは、認めたくなかった。
それは推測で終わるはずだった。
体の痛みが、麻痺してゆく。
アモンの仕事中の背中と、機械のアモンが壊れてゆく様が、同時に思い出された。人間とアンドロイドが混同し、記憶が倒錯する。
「あ……あ……」
「どこだ! 言え!」
コンクリートに這いつくばっていた体を、白衣を掴まれ上半身だけ引きずり上げられる。後方には、バリケード部隊が控えている。さらに後ろに、拳銃を携えた警官らが待機している。
「ア、アモンは……死ん……だ」
そのひとことを言うのに、ひどく疲れた。
「死んだ?! 嘘を言うなよ? ならばここの住人は誰なんだ」
「僕、だ……僕が、アモンを、殺、した……」
もう楽になりたかった。
「違う! 違うんでしょ?! サイ、あなたは殺してなんていないでしょう?! ただアンドロイドを壊し…」
「黙れ女!」
パアン!
銃声が響く。威嚇射撃だ。
「止めろ! 彼女は関係ない! 彼女は、第三管区で看護婦をやっている!」
サイはありったけの力を込めて叫ぶ。
「第三管区? 街の者がなぜここにいる」
自分はどうなってもいい。でも、ユイだけは。
「僕が彼女の、患者だから……」
本当は医者を呼ぶ金なんてないのに。下手な嘘だ。
と、そのとき、奥まで踏み込んでいった機動隊の一人が大声を上げる。
「捜査官! アンドロイドの設計図です! この設計図に記されたものと同一の部品も多数見つかりました!」
「あぁ…僕の……」
サイは力なく呟いた。
「何を言ってるの?! サイ! しっかりして!」
「黙れと言っている!」
別の機動隊員がサイの髪を掴んで引っ張りあげた。
「う……」
「立て!」
サイはよろよろと立ち上がる。
捜査官、と呼ばれた男が近寄って、サイの両手に手錠をかけた。
「お前、名は」
「……サイボーグの、サイ…」
「サイボーグ?」
男がサイの手を掴んだまま不審な顔をする。サイは自嘲気味に鼻で笑った。
「ちゃんと人間だから安心しろよ…」
そうだ、人間なんだ。だから心が、こんなに痛い。
「サイ、お前を先ほどの罪状とアンドロイド製造協力容疑、および殺人罪で逮捕する」
殺人罪。
それって機械を壊しても通用するの? あぁ、アモン、ごめんなさい。あなたが拾ってくれた命を、ここに捨てていくよ。だって僕は、アモンを殺した。そうだろう?
あのときのけたたましい破壊音がフラッシュバックする。
もうそんなに責めないでくれよ。楽に、なりたいんだ。
「サーイィーっ!」
愛しい人の叫びが聴こえる。
「さようなら、ユイ」
最後の笑みを浮かべて、ユイを一度だけ振り返る。
「いやあぁぁぁっ!!」
サイは機動隊の波に呑まれていった。
四 終焉
押され、殴られ、蹴られ、踏まれて、半ば引きずるようにサイは連行される。
外は無数の赤色灯に彩られ、ヘリの爆風がサイを圧倒した。
「あ、雨……」
雨が降っていたのか。気が付かなかった。
汚れきった酸性雨が、くたびれた白衣を濡らす。サイは虚ろな目で天を仰いだ。ぼんやりと考える。
約束、守れば良かったな。アモンの形見、取り上げられちゃったよ……。でも、もうすぐそっちにいくから、それももう必要ないか……。
サイは鈍く光る手錠を見つめ、微笑んだ。
雨が降る。季節さえない鈍色のまちに、秩序さえない見捨てられたゴミ溜めに、冷たい冷たい雨が降る。
僕は世界が僕に与えた力の残酷さを知った。だけどもうこれで、僕は救われる。さぁ早く終焉を。
END
初めてカタカナの人名に挑戦しました。
完全フィクションの世界はまだ難しいです。
批評のほど、宜しくお願い致します。




