2Q24 ~フリーター~ 「前編」
2Q24
『フリーター』
一、青い光
二、国道一号線
三、あの女
四、リバーサイド
五、吊橋
六、リール
七、再会?
一、青い光
一筋の青い光が、まぶたの薄皮を通って瞳の中に飛び込んできた。
ゆっくりと本当にゆっくりと、目を開けようとする。寝ぼけ眼は、ぼんやりと、いつもの見慣れた風景を投影する。煤まみれの天井には、不規則に並んだ染みが所々に付いている。四畳半の中央には、じめっとした万年床が置かれて、汗とカビ、そして若い男の鼻を突く臭いがその布団から放たれている。そして、布団をはみ出した少し高めの枕。それは、今では珍しくなった蕎麦かすが何年も入れられたままで、一定に保ちながら存在感を示していた。その様は、カバーのすそは擦り切れ、一部だけが薄黒く変色し、わずかに光沢を放っていた。しかし、その風景とあの臭いは、何故だか懐かしく、心休まるものだ。
意識が少しはっきりしてきた。いつもの朝があたり前のようにやってきたのだろう。そう思えた。
ただ一つだけ違っていたことがあった。それは、誰もが経験するそれではなく、なんとも言えない不快で苦痛を伴う目覚めだったことだ。その不快な苦痛をもう一度味わいながら考えてみた。
「きのうの深酒のせいか、それとも、あの女の仕業か・・・。」
昨晩のことを思い出そうと、セッタに火を着けるが頭がぼおっとしてよく思い出せない。いつもよりセッタの味がまずいことだけはわかった。生臭い口から吐き出される煙をじっと見ていると、この世の中に一人だけ取り残されたような、孤独感と脱力感が首筋に走る。今度は、さっきより少しだけ深く、セッタを吸い込んでみる。灰色の主流煙が少しずつ顔から離れ、どこかへ消えていく。
再び、俺の意識は、その煙とシンクロするように、少しずつ少しずつ遠くなり、やがて煙とともに消えていった。
二、国道一号線
気がつくと国道一号線のセンターラインの上に立っている。見覚えのない女ものの財布を手にしていた。シャネルかヴィトン、たしか、そのあたりのブランドものだ。あの晩にあの女が、それを自慢げに見せたときのしらけた感覚を覚えている。その感覚がグッチでないことを俺に教えてくれていた。
無意識に財布を中身を確認する。はじめに出てきたのは、ため息だけだった。ブランドものの財布とは思えない、お粗末なものだ。諭吉どころか英世すら存在しない、財布と名の付くただの革製品だ。
何台もの車が、どこに急ぐのかと思うくらいのスピードで、俺の脇を通り過ぎていく。不思議にも当りそうであたらない。点がつながり線になるかのように、白い車ばかりが、俺も脇を通り過ぎていく。車種は分からないが、何故かドライバーは、はっきりと分かる。線のように繋がった車のドライバーは、白髪混じりで、くたびれた紺の背広をはおる、花柄をモチーフにした少し派手なネクタイをした親父ばかりだ。その親父たちは、高度経済成長の昭和の時代を生きたサラリーマンのように、何かに追われながらも、勇ましさと誇りを持っているように見えた。ただ、誰一人として、国道の真ん中に立ちすくむ若い男に気づこうともしない。クラクションも鳴らさない。
俺は、排気ガスで咽そうになりながら歩道につま先を向けた。そして、躊躇なく国道を横切る。一台も俺の存在に気づくことなく渡れた。
歩道に立っている俺が居る。
今度は意識的に中身を確認した。わずかな砂利銭がその財布に入っていた。セッタ1個と無糖の缶コーヒーを買って、つりがくる調度いい具合の金額だ。俺にとっても好都合だった。誰のものかわからない女ものの財布と名の付く革製品を、いつまでもぶら下げておくほど滑稽が悪いものはなかったからだ。目の前に、都合よく自販機が2台並んでいた。俺の存在を唯一わかっていたかのように・・・
いつもの銘柄に目をやり、赤く点灯するボタンを押す。音もなく出てくるセッタを、ワイシャツの左の胸ポケットに入れた。今度は、もう一方の自販機に砂利銭を入れ、無糖の缶コーヒーを買おうとする。この自販機は、隣のやつより外見がよかった。胸板が厚く、花柄をモチーフにしたネクタイより、センスよくデザインがされ実にスマートな感じのものだった。ただ、声が悪かった。しゃがれた声ならまだ許せるが、安物の娼婦が、絶頂を演じるときに使うあの下品な声を出す。その下品な声と共に無糖がでてきた。「もう少し上品に登場してくれないか、まずいものがもっとまずくなる。」そう思わずにいられなかった。
つり銭口に手を伸ばすと、数枚のコインが人差し指と中指に当たった。十円玉より少し薄くて大きい気がする。見慣れない銀色のコインが3枚出てくる。日本国貨幣ではない、韓国のものでも、アメリカのものでもない。表には、見慣れないキャラクターの顔が刻印され、裏には「リバーサイド」と彫られていた。
「なんだ!これは?」
思わず声が出た、どこかのパチンコ屋のスロット用コイン、それと分かるまでに、時間はそうかからなかった。
「く、くっそう」と、いつもなら、自販機めがけ一発蹴り上げるのだが今日はなぜだか違った。紳士を気取る自分にすこし満足し口元が緩んだ。
三、あの女
85、6でほどよい形をしたバストは肉付きがよく、白い肌に上を向いた乳首がよくマッチしていた。整えられた眉と二重の瞳、薄く塗られたチークが女らしさを引き立てている。瑞々しい唇は、若さを演出していた。ショートカットの髪から見える耳たぶには、右に2つと左に一つのピアスの跡がある。きれいなS字を首から腰に描き、ブラからはみ出す肉もなかった。うっすら映るブラの線はその体の一部のようだった。160センチ前後の身長は、俺のそれとバランスがいい、重なるときにしっくりきた。少し長めのスカートをはき、そのスリットから見えるストッキングの趣味も悪くない。その色やデザインは、夜の女をイメージさせるものではなく、手触りは上質で、自分に金を投資する女が履くそれだった。白く透き通った長い指には上品なネイルが施され、高級なハンドクリームのにおいがした。年齢は三十路を少し過ぎたくらいか、はっきりはわからない。
近頃では、この部類の女を手に入れることはめったにない。
なぜなら、愛を軽視する女や金やルックスという餌に群がる女が、そこらじゅうに溢れていたからだ。そいつらは、趣味の悪い下品なスカートを履き、生足のまま必要以上に肌を露出する。自分に金を投資し、己を磨くことすら忘れている。そんなやつらの欲望を満たしてやることは簡単で、特別なものを用意する必要がなかった。だから、そんな女はいつでも手に入れられた。
俺にとって、あの女は一晩限りの関係を持つために都合のいい女だった。
俺と関係を持つ女の理想が、俺にはあった。この理想に合わない女とは関係を持たない、と言う掟のようなものだ。自分の理想を全うするため、また、自らの欲望に溺れ自分を見失わないようにするためか、何時しかその理想を守ろうとする俺がいた。なぜなら、俺にとって、女との関係は非日常を求めることと等しい。その理想は、金や愛などと言う面倒なものとは無縁で、快楽を極めると言う非日常なのだ。だから、「一晩限りである」ことが必要だった。特定の女と何度も関係を持つことは、すでにそれ自体が日常になっている。この非日常の刺激が、俺には必要だった。それを切望していた、そして飢えていた。
理想のもう一つは、女が多くを語らないことだ。絶頂を演じるときに使う意味のない言葉が、女から発せられた瞬間、現実に引き戻されてしまう。だから、「無口である」ことが不可欠なのだ。快楽を極めるためには、それなりの経験が必要だ。テクニックがあれば有るほどいい。しかし、プロであってはいけない。あくまで身体を商売道具にしない素人であることが必要だ。「既婚である」ことは、この条件を満たし、快楽を極めるためのテクニックを持ち合わせた女であることが多い。これが最後の理想だ。
俺にとって、あの女は理想の女と言えた。
あの女と一晩を共にしたのは、青い光が飛び込んできた前の晩だった。
あることを除けば、満足できる理想の一夜であり女でもあった。初めての女であったこと、無口な女であったことは良かった。用意されていたシャンパンも俺の口にあった。お互いが無心で欲望のままになれることが出来た。そこには俺の求めている非日常があった。
ただ、白く透き通った手を何度も俺の肩に伸ばし、もの欲しそうにするあの仕草は、俺を現実に引き戻すには十分だった。
四、リバーサイド
両手をズボンのポケットに入れ、当てもなく何分歩いただろう。手の平が汗ばんでいるのがわかる。息も乱れていない。心拍数は一分間に九十回から百回程度だろう、とてもリラックスしている。どこまでもこのまま歩いて行けそうな錯覚を覚える。ただ、すれ違う人がいない、こんなに歩いているのに一人も出くわさない。真夜中の田舎道を歩いていないことは確かだ、日差しが二時の方向から射してくる。都会の路地裏に入り込んだのでもない。点灯されることを心待ちしているネオンライトがあちこちに見える。雑居ビルに吊るされたスナックの看板も無数にある。風俗店の案内所、少しおしゃれな小料理店やブティック、カプセルホテルもある。あそこには地下鉄の入り口もある。普段なら、客引きをする黒服の兄ちゃんや、短いスカートを履いたティッシュを配るケバい姉ちゃんを見かけるはずだ。頭の悪そうなJKもいない。すれ違う人は居ないが、あちらこちらに人の気配を感じる。夢を見ているのかもしれない。そう疑いたくなる。ポケットの中のコインを握る湿った手の感触、リズムを崩さないリラックスした心臓の動き、全身に感じる体温の高まりが、夢でないことを証明してくれる。
ふと目に飛び込んできた「リバーサイド」の文字。あのコインに刻まれていた文字だ。
引き寄せられるようにその看板に足が向く。そして、背中を押されるように店内に入った。
鼻を突くタバコ臭、けたたましいユーロビート、マイクで拡散するしゃがれた店員の声、大当たりを意味するサイレン灯の光、あるべきものすべてが、この店にはまったく無かった。店内は、ひっそり静まり返っていた、不気味さを覚えるほどだ。
自動扉を抜けると、長い通路がまっすぐに延びていた。その先が見えないほど、まっすぐに長く伸びていた。通路の床は清潔に保たれ、白く光沢を帯びている。静まり返ったその空間に似合わない「キュッキュ」という音が、その白い床と靴底のゴムが擦れあうたびに聞こえてきた。人の背ほどある長い蛍光灯が、サイレン灯の代わりに天井高く張り巡らされている。左右の壁には扉が一つもない。俺を間違った場所に、導かないように造られているみたいだ。特別な臭いもない、あえて言うなら、アルコールの消毒臭が少しする程度だ。所々に置かれた最新型の空気清浄機、それが置かれても人が悠々と通れ、邪魔になることはない。
戸惑いながら、出口を探す俺がいた。
壁の色が黒に変わり、辺りが急に薄暗くなった。足元の弱々しく光る間接灯が、その黒色を強調した。
目の前には、スロット機が無数に置かれていた。いつもの店なら十六台程度が横一列に並ぶだけだが、ここは違った。桁違いだ。先頭の一番機に座る客が、セッタと同じ大きさに見えた。小学生が図工の時間で習う遠近法にぴったりの風景だ。そんなくだらないことを思いだした。以前やっていたバイトのことも思い出した。ベルトコンベアーの前で、無心で一つの作業をするバイト、くだらない、誰もがすぐにいやになるあのバイトだ。無心でボタンを押す客の姿が、工場労働者のそれに思えてぞっとした。
左右を見渡しながら前へと進んだ。長い時間が過ぎたように思えて仕方なかった。床は、清潔に保たれた白いものから、何時しか幾何学模様が施された青いものに変わっていた。その上品に並んだ幾何学模様の隙間から見える青色は、遠い世界の特別な吊橋から見る深い深い川の色のように思えた。
等間隔に並んだ工場労働者のような客たちの背中を見ながら、俺はさらに先へと進むしかなかった。
どこにも空席が無い。
いつもと同じ「早く座りたい」という衝動が、さらに先へと足を進めた。
「どこでもいいから、早く俺を座らせてくれ」
焦りにも似たその心の叫びは、いつもの店で感じる衝動と同じに思え、少し安心できた。
足元にある間接灯の一つが、白から青に変わった。
その間接灯に照らされていた客の姿が、スッと消えたのが同時にわかった。いやな感じだった。この店に入ってきた時とは違う不快感を覚えた、その不快感は、あの朝に青い光がまぶたの薄皮を通って、瞳の奥に差し込んだ時の感覚とよく似ている。
「いやな感じだ・・・」
小声でそう呟くのが精一杯だった。
五、吊橋
幅の広い深くて清んだ渓谷に架けられた吊橋は、『三つ瀬橋』と呼ばれていた。地元で一番深い渓谷に吊るされた橋は、水面からおよそ100mもの高さがある。その橋の足板は、ところどころが外れ、その隙間から川をのぞいて見えた。深さの違う青色をした三つの瀬が、この川にあった。この川は『三つ瀬川』と言われたが、別名、『三途の川』とも呼ばれていた。
死後7日目に渡るという冥途にある川に架けられた吊橋ということで、地元の人は『三つ瀬橋』と呼んでいたのだ。
呼び名だけではなかった。この橋はだれも使う者が居ない特別な吊橋なのだ。姥捨山とよく似た話が、この橋を特別なものにしていた。「六十を過ぎた年寄りは山に捨てるべし。従わない家はみなごろし。」と言われ、息子が泣く泣く老いた母親を山に捨てにいくあの話だ。
ただ、この吊橋を渡るのは、年寄りだけではなかった。選べれた者だけが、この吊橋を渡ることを許されていた。そして、数年に一度、この吊橋を渡っていった。
白く透き通った手をした女が、吊橋の案内役をしてくて・・・。
六、リール
いつもならセッタに火をつけ、コインを三枚、スルスルとスロット機に入れる。今日は、何かが違う。辺りにいる工場労働者のような客が、それを許そうとしていない気がした。
左の胸のポケットからセッタを一本取り出し、口にくわえる。そして、愛用の1966年製のアンティーク・ジッポで火を着ける。これが俺のやり方だ。何も考えずに指先の感覚だけで一連の動作をやりとげる。俺にとっては、勝利の方程式のようなものだった。
セッタをはさんだ左手でスタートボタンを押すのがいつもの癖だ。今日の左手はいつもと違う。その左手の向こうには、7とハート、そしてダイヤの絵柄がお決まりのように見えていた。無意識に右手が自然にストップボタンへと伸び、左、中、右、と押していく。当たり前のように絵柄が順番に止まった。真ん中のリールが、少しだけ左右とずれて止まっている。よく見る光景だ。何の不思議も無い。
俺の持っているコインは三枚だけ、あの時に自販機から出てきたコインだ。女ものの革製品の中にあった砂利銭で、セッタと無糖、いつものやつを買った時に出てきたやつだ。他には一枚も無い。勿論、金も無い。
大当たりを期待し、このリバーサイドに入ったわけではなかったが、やはりこの言葉が出た。
「やはり無駄だったか・・・」
小声で呟きながら席を立とうした。
不意に、右側から女の白い手が俺の肩にスッと伸びた。あの時の感触に似ている。あの仕草に似ている。あの晩にあの女が、何度も俺にせがんできたあの仕草だ。俺を現実に引き戻すあの手の仕草だ。
現実に引き戻されることを拒みながらも、席を立とうとする俺がいた。
真ん中のリールだけが再び、ゆっくりクルクルと回り始めていた。
「大当たりおめでとう。こうへいさん。」
隣の白い手をした女がそうつぶやいた。聞き覚えのある声のような気がした。
「俺の名前をなぜ知っているんだ?」
思わず、その言葉が口から出た。
「前にお会いしたことが・・・」
その女は、途中で言葉を止め、乞うささやいた。
「見ててね。」
一度俺の肩を触った白い手が、今度は真ん中のストップボタンを触った。気持ちが悪いほど白く透き通った手だった。五本の左指には、ネイルが施されている。肌は、きめ細やかに手入れされている。高級クリームの香りがしたから、それがすぐにわかった。その手は、迷うことなく、そして大当たりが当然であるかのように、ストップボタンを押していた。
七、再会?
『 7 7 7 』
白い手の女の予告通り、赤の7が気持ちよく中央に並んでいた。
「・・・」
驚きのあまり声が出なかった。7が中央に揃っていたせいか、それとも在りえない偶然が重なったからなのか、息と唾を同時に飲み込み、思わずむせてしまった。
その横顔は、あの日の晩に見た横顔と同じだった。85、6でほどよい形をしたバストは肉付きがよく、白い肌に上を向いた乳首がよくマッチしていた女。そう、あの女だ。
俺はスロットに集中した。瞬きもせず、目を横にも動かさず、ひたすらリズムよくボタンを押し続けた。コインがどんどん出てくる。止まることを知らない、今日はなんだかいつもと違う。こんなことを経験したことが無い。
店に入る前の不思議な感覚を思い出した。夢を見ているようなあの感覚だ。でも、コインの重さ、心拍数が徐々に上がっていく興奮感。どうしても夢には思えなかった。しかも、横にいるのはあの女だ。俺にとって現実のほかの何者でもなかった。
どれくらいコインを出し続けたのだろう。高く積み上げられたドル箱が、俺の後ろに何杯も並んでいる。あの女も同じくらい隣で出している。
あれから、あの女は、俺の存在をを忘れたように一点を見つめている。
「やはり人違いだ、この世の中には似たようなやつは、たくさんいる。」
「・・・でも、あまりに似すぎている、しかもリアルすぎる。」
俺の中に、いろいろな人格が表れ、俺を狂わせていった。
心を駆け巡る混乱に戦いながら、無心で手を動かした。そうするしか術はなかった。
「こうへいさん。残念だけど・・・」
「最悪だ。やっぱりあの女だ。」、さらに動揺が高まる。
また、別の人格が見え隠れしていやな汗をかいた。
「これが、最後の出玉になるわよ。」
「少し、辛いかもしれないけど、すぐに楽になるから我慢してね・・・」
あの女は、優しくそうつぶやいた。
少しの時間が流れた・・・。
突然、人の気配を俺は感じた。
幾何学模様の青い床を、俺と同じように歩いてくる男の気配だ。白髪混じりで、くたびれた紺の背広をはおる、花柄をモチーフにした少し派手なネクタイをした親父。あの親父だ。国道の真ん中で見たやつだ。間違いなかった。
「次の人が来たようね・・・」
女がつぶやく。
「あのおじさん、ずっとあなたの後をついてきたのね」
女がまたつぶやいた。
リールが止まり、出玉も止まった。その瞬間、あの青い光が俺の瞳に飛び込んできた。あの女と一晩を共にした翌朝見た、あの光だ。何度となく、まぶたの薄皮を透り越してきた、あの青い光だ。
次は、鼻から入ってきた。わずかな香りが俺を刺激する。いつものやつだ。俺のお気に入り、セブンスターの香りだ。いつものように深く吸い込み、顔の前をスルスルと煙をただよわせる、そんな幻覚を味わった。
何が現実で何が夢なのかが判らなくなってきた。体中から力が抜けていく。もう自分ではどうにもならない。少し楽にもなってきた。痛みも苦しみもなくなってきた。隣にいるはずのあの女も、気にならないでいる。
遠い昔の思い出が甦ってきた。
親の愛情を独り占めにできた時のこと、一つのことに熱中し、エネルギーに満ち溢れていた時のこと、ただ訳もなく、親に反抗した思春期のこと、それまでのツケを取り戻そうと我武者羅に突き進んだ時のこと、取り返しの着かない事をしたと知り、後悔と無力さに荒れていた時のこと。
あの青い光は何者なんだ。
訳もなく涙が溢れてくる。
吊橋のことを思い出した。
左手で最後の一本に火をつけ、勇作みたいに吸ってみる。味わう煙が、いつものように俺の顔の前をスルスルと漂った。そして、いつの間にか音を立てずに消えていった。
真ん中のリールに、煙と共に消えていく俺の姿が映し出されている。
隣の女は、その残り香を感じながら、じっと前を向いたまま微笑んでいた。