表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

未来注意報

作者: 武ナガト
掲載日:2026/04/10

 その男は、自分の「注意不足」に心底嫌気がさしていた。


 三十半ばだというのに、道端(みちばた)の犬のフンを踏み、書類の(はし)で指を切り、携帯電話をどこへ置いたか忘れて家中を探し回る。


 なかでも最悪なのは、玄関の(かぎ)の閉め忘れだ。帰宅してドアノブを回すと、鍵もかかっていないドアが虚しく開く。そのたびに男は、自分の注意力のなさを突きつけられ、情けなさに身を縮めるのだった。


「僕に、人並みの注意力さえあれば……」


 そんなことを考えながら、閑静(かんせい)な住宅街を歩いていたときだ。

 十字路に差し掛かった瞬間、頭の中に直接、声が響いた。


(石ころ注意報。石ころにご注意ください)


 ハッキリとした、中性的な声だった。驚いて立ち止まり、周囲を見渡すが誰もいない。空耳かと思い足を踏み出そうとして、男はふと視線を落とした。


 アスファルトの隙間(すきま)に、(とが)った小石が転がっていた。


 男がそれを横へ蹴飛ばすと、再び声が響いた。


(石ころ注意報は解除されました)


「……もしや、今の声のおかげで(つまず)かずに済んだのか?」


 胸の奥が、かすかに浮き立った。自分を助けてくれる、自分だけのガイドかもしれない。それが始まりだった。


 それからは劇的だった。


(スズメ注意報です。スズメにご注意ください)


 声に従って立ち止まると、目の前を歩いていたおばさんが、電線に群がるスズメから一斉にフンを浴びせられた。


(突風注意報です)


 声に従って帽子を押さえれば、隣の女性のスカートが(めく)れ、誰かの帽子(ぼうし)虚空(こくう)へ舞った。


 男はこの注意報をどんどん信頼した。


 仕事でも、頭の中で誤字注意報と響けば、必ずどこかにミスが見つかった。約束注意報のおかげで、友人との約束をすっぽかすこともなくなった。

 次第に失敗は減り、周囲からの信頼は積み上がり、男はかつてない自信に満ち(あふ)れていった。


 そんなある日の朝、着替えを終えた男の脳裏(のうり)に、聞き慣れない言葉が流れた。


(未来注意報です。未来にご注意ください)


「未来注意報……? なんだそれは」


 これまでは具体的だった対象が、あまりに抽象的だった。

 交通機関の麻痺か、仕事での大失敗か、あるいは出世を揺るがすスキャンダルか。

 男は震えた。注意報が出るということは、それを放置すれば不幸が起こるということだ。


 その日から、男の生活は一変した。


 鍵は一度閉めたあと、さらに二度三度と確かめるようになった。

 予定表は何度も見直し、持ち物は前日の夜から並べて準備した。

 食事や睡眠にも気を配り、人間関係では失言を恐れて慎重に言葉を選んだ。


 未来に(ひそ)む災厄が何なのかはわからない。

 だからこそ、あらゆる可能性に備えなければならない。

 男はそう信じて、全方位に注意を張り巡らせて生きるようになった。


 ――それから、十年が経った。


 男は順調に出世し、今では庶務課の課長になっていた。

 部下のミスを指摘し、健康状態から人間関係まで細心の注意を払う。彼は有能な上司として知られていたが、その顔に笑顔はなかった。


 ある夜、男は会社の机で手鏡を取り出した。

 鏡の中には、十年前よりも何倍も老け込み、眉間(みけん)に深い(しわ)を刻んだ男がいた。頬はこけ、肌は荒れ気味で、目の(くま)は隠し切れない。


「……ふう」


 重いため息が()れる。


 なぜなら、あの日以来、一度たりとも未来注意報は解除されていないからだ。


 いつ、どこで、何が起きるかわからない。

 男は十年間、あらゆる(わざわい)の種を排除するために、全神経を()()ませて生きてきた。不必要な外出を避け、他人との接触に怯え、常に失敗の未来を想定して身構える毎日。


 かつては注意不足に悩み、ため息をついていた。

 今は注意することに疲れ、ため息をついている。


 男は席を立った。職場を後にし、夜の街へ出る。

 星空の下、彼は一歩踏み出すごとに周囲を執拗(しつよう)に警戒する。転ばないように、刺されないように、嫌われないように、間違えないように。


 注意深く、慎重に、そして死ぬほど窮屈(きゅうくつ)な人生。

 頭の奥で、未来注意報はまだ鳴り続けている。


 一方で、男はうすうす気づいていた。


 注意し続けるかぎり、この声は消えないのではないか。


 ならば、終わらせる方法はひとつしかないのではないか。


 だが、それをしてしまえば、以前の自分に戻ってしまう気がした。あの抜けだらけで、失敗ばかりしていた情けない自分に。

 その恐怖が、男を動けなくしていた。


 やがて男は、自宅へ続くあの十字路に差しかかった。

 街灯の光に照らされた路面の中央に、小石がひとつ転がっている。


 十年前、最初に注意報を聞いたあの日から、なぜかいつもそこにある石だった。

 朝に蹴飛ばしても、夕方には元の場所へ戻っている。変わらぬ形をした、灰色の小さな出迎え。


 男は小石の前に立ち、しばらく見下ろした。


 いつものように、男は小石を蹴った。

 小石は乾いた音を立てながらアスファルトを弾み、十字路の端、側溝(そっこう)のふたの上で止まった。


 男はその一点をじっと見つめる。


 わざわざ蹴らなくても、何も起こりはしない。

 蹴って移動させたところで、明日になればまた定位置に戻っている。

 それでも男は、いつも蹴ってしまう。

 いまの自分を確かめるように。

 そして同時に、胸の奥から()き上がる避けがたい感情を確かめるように。


 愚かな願いだとはわかっている。

 ないものねだりだと自覚している。

 それでも近ごろ男は、ときどき思うのだ。


 あの小石で、わざと転んでしまえたら、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ