未来注意報
その男は、自分の「注意不足」に心底嫌気がさしていた。
三十半ばだというのに、道端の犬のフンを踏み、書類の端で指を切り、携帯電話をどこへ置いたか忘れて家中を探し回る。
なかでも最悪なのは、玄関の鍵の閉め忘れだ。帰宅してドアノブを回すと、鍵もかかっていないドアが虚しく開く。そのたびに男は、自分の注意力のなさを突きつけられ、情けなさに身を縮めるのだった。
「僕に、人並みの注意力さえあれば……」
そんなことを考えながら、閑静な住宅街を歩いていたときだ。
十字路に差し掛かった瞬間、頭の中に直接、声が響いた。
(石ころ注意報。石ころにご注意ください)
ハッキリとした、中性的な声だった。驚いて立ち止まり、周囲を見渡すが誰もいない。空耳かと思い足を踏み出そうとして、男はふと視線を落とした。
アスファルトの隙間に、尖った小石が転がっていた。
男がそれを横へ蹴飛ばすと、再び声が響いた。
(石ころ注意報は解除されました)
「……もしや、今の声のおかげで躓かずに済んだのか?」
胸の奥が、かすかに浮き立った。自分を助けてくれる、自分だけのガイドかもしれない。それが始まりだった。
それからは劇的だった。
(スズメ注意報です。スズメにご注意ください)
声に従って立ち止まると、目の前を歩いていたおばさんが、電線に群がるスズメから一斉にフンを浴びせられた。
(突風注意報です)
声に従って帽子を押さえれば、隣の女性のスカートが捲れ、誰かの帽子が虚空へ舞った。
男はこの注意報をどんどん信頼した。
仕事でも、頭の中で誤字注意報と響けば、必ずどこかにミスが見つかった。約束注意報のおかげで、友人との約束をすっぽかすこともなくなった。
次第に失敗は減り、周囲からの信頼は積み上がり、男はかつてない自信に満ち溢れていった。
そんなある日の朝、着替えを終えた男の脳裏に、聞き慣れない言葉が流れた。
(未来注意報です。未来にご注意ください)
「未来注意報……? なんだそれは」
これまでは具体的だった対象が、あまりに抽象的だった。
交通機関の麻痺か、仕事での大失敗か、あるいは出世を揺るがすスキャンダルか。
男は震えた。注意報が出るということは、それを放置すれば不幸が起こるということだ。
その日から、男の生活は一変した。
鍵は一度閉めたあと、さらに二度三度と確かめるようになった。
予定表は何度も見直し、持ち物は前日の夜から並べて準備した。
食事や睡眠にも気を配り、人間関係では失言を恐れて慎重に言葉を選んだ。
未来に潜む災厄が何なのかはわからない。
だからこそ、あらゆる可能性に備えなければならない。
男はそう信じて、全方位に注意を張り巡らせて生きるようになった。
――それから、十年が経った。
男は順調に出世し、今では庶務課の課長になっていた。
部下のミスを指摘し、健康状態から人間関係まで細心の注意を払う。彼は有能な上司として知られていたが、その顔に笑顔はなかった。
ある夜、男は会社の机で手鏡を取り出した。
鏡の中には、十年前よりも何倍も老け込み、眉間に深い皺を刻んだ男がいた。頬はこけ、肌は荒れ気味で、目の隈は隠し切れない。
「……ふう」
重いため息が漏れる。
なぜなら、あの日以来、一度たりとも未来注意報は解除されていないからだ。
いつ、どこで、何が起きるかわからない。
男は十年間、あらゆる禍の種を排除するために、全神経を研ぎ澄ませて生きてきた。不必要な外出を避け、他人との接触に怯え、常に失敗の未来を想定して身構える毎日。
かつては注意不足に悩み、ため息をついていた。
今は注意することに疲れ、ため息をついている。
男は席を立った。職場を後にし、夜の街へ出る。
星空の下、彼は一歩踏み出すごとに周囲を執拗に警戒する。転ばないように、刺されないように、嫌われないように、間違えないように。
注意深く、慎重に、そして死ぬほど窮屈な人生。
頭の奥で、未来注意報はまだ鳴り続けている。
一方で、男はうすうす気づいていた。
注意し続けるかぎり、この声は消えないのではないか。
ならば、終わらせる方法はひとつしかないのではないか。
だが、それをしてしまえば、以前の自分に戻ってしまう気がした。あの抜けだらけで、失敗ばかりしていた情けない自分に。
その恐怖が、男を動けなくしていた。
やがて男は、自宅へ続くあの十字路に差しかかった。
街灯の光に照らされた路面の中央に、小石がひとつ転がっている。
十年前、最初に注意報を聞いたあの日から、なぜかいつもそこにある石だった。
朝に蹴飛ばしても、夕方には元の場所へ戻っている。変わらぬ形をした、灰色の小さな出迎え。
男は小石の前に立ち、しばらく見下ろした。
いつものように、男は小石を蹴った。
小石は乾いた音を立てながらアスファルトを弾み、十字路の端、側溝のふたの上で止まった。
男はその一点をじっと見つめる。
わざわざ蹴らなくても、何も起こりはしない。
蹴って移動させたところで、明日になればまた定位置に戻っている。
それでも男は、いつも蹴ってしまう。
いまの自分を確かめるように。
そして同時に、胸の奥から湧き上がる避けがたい感情を確かめるように。
愚かな願いだとはわかっている。
ないものねだりだと自覚している。
それでも近ごろ男は、ときどき思うのだ。
あの小石で、わざと転んでしまえたら、と。




