数字
松前の海は、驚くほど静かだった。
風は弱く、潮の匂いだけがゆっくりと鼻をくすぐる。
佐瀬は杉村の家を辞してから、しばらく海岸線を歩き続けていた。
函館へ戻る汽船の時刻までは、まだ余裕がある。
白井鷹之進という男が、なぜあの夜、帳簿と紙幣を焼いたのか。
その理由が、ようやく一本の線になり始めていた。
かの、悪名高き局中法度。
新選組の会計方として、白井は「不祥事の後始末」を誰よりも近くで見てきた。
数字が合わないというだけで、人は罪人になり、切腹という「始末」をつけられる。
「…数字は、嘘をつかない」
だが、それは真実の半分だ。
なぜなら、数字を扱う人間は、いくらでも嘘をつける。
不一致を「誤記」と見るか、「不正」と見るか。
それを決めるのも、算盤ではなく、人だ。
白井は、それを新選組で学んだ。
やがて明治になって、今また開拓使で同じ構図を見せつけられている。
帳簿は合っている。
なのに、現金通貨は足りない。
白井の脳裏には、恣意的な規律によって斬られた戦友たちの顔が浮かんだに違いない。
だから白井は、「帳簿を直す」ことを快しとしなかった。
直せば、河合の時と同じように、数字の整合性の名のもとに、また誰かが切り捨てられる。
――ならば。
数字そのものを、消すしかない。
佐瀬の背筋に、ひやりとしたものが走った。
白井は、不正に手を染めたのではなく、
不正を完成させないために、すべてを灰にしたのだ。
佐瀬は唇を噛んだ。
海の向こうで、汽笛が鳴る。
函館へ戻る船だ。
懐に手を入れると、原稿用紙の感触が、やけに生々しかった。
「一刻も早く、白井本人に会わねばならない」
強迫観念といっていい渇望だった。
これはもはや、スクープのための取材ではない。
――誰かの人生の、帳尻を合わせる仕事だ。
そして――
この高揚感を、なぜか真っ先に中沢明里に伝えたいと思っている自分に少し戸惑った。
汽笛が、再び鳴る。
松前の海は、何事もなかったかのように、静まり返っていた。
自身がいま、ジャーナリストとしてのスタートラインに立ったことを、佐瀬はまだ自覚していない。
白井鷹之進との面会は、佐瀬の想像以上に難航した。
「国庫金焼却」という前代未聞の罪名は、看守たちの態度を必要以上に硬くしていた。
――精神錯乱の疑いあり。
――面会は親族、もしくは正式な官職上の関係者に限る。
「あんなのは、全部たてまえだ」
佐瀬は代言人(弁護士)を通してコンタクトを試みるも、その代言人すら面会を制限されており、上手くいかない。
白井を捕えた函館警察署は、内務省の管轄下で、当時は司法省と激しく主導権を争っていた。
内務省が、白井の口から洩れる「言葉」を如何に警戒しているかが知れよう。
「判事が白井の取り調べを始めたらしい」
記者仲間が佐瀬に告げた。
当時、司法省には「検事」という官職があるにはあったが、実態は裁判官(判事)が捜査から判決まで主導することが多く、裁判官が自ら真実を問い詰める糾問主義が主流だった。
さすがの警察も、判事の面会までは拒めないらしい。
しかし。
「もたもたしてると裁判が始まっちまう」
佐瀬は、また明里を庁舎傍の茶屋に呼び出した。
「…わたしは、開拓使の飯炊き女よ?この件はもう私の手に負えない」
佐瀬は返す言葉もなかった。
「だよな。あんたに相談するなんて、どうかしてる」
明里は続ける。
「けど、どうしても話を聴きたいというなら、手がないわけじゃない」
佐瀬は顔を上げた。
「言ってくれ。なんだってやるぜ?」
「こういうのはどう?身寄りのない女中が、父親代わりに世話になった上司に、着替えを届ける」
当時の囚人への差し入れは、親族だけでなく、雇用主や関係者も情状を酌んで認められることがあった。
「あんたが接見するっていうのか?」
「ほかに手がある?」
「いや…そうだな。妙案かもしれん。ちょっと待ってくれ」
佐瀬は取材ノートにインタビューの要旨を走り書きして、そのページを破った。
「如才ないあんたのことだから心配はしていないが、一応聴きたいことをまとめた。これを持っていってくれ」
明里は紙片を受け取り、鞄に仕舞うと、もう一度手を差し出した。
佐瀬はその意図を察して尋ねた。
「ふん、いくらほしい?」
「今回は、差し入れのついでだからサービスしとく。でも、看守への心付けは別。必要経費だと思って」
「…賄賂か」
「情だけで動く人間ばかりじゃないから、ね」
明里は笑わない。
佐瀬は苦い沈黙を噛みしめた。
それは、彼がこれまで敢えて踏み込まなかった領域だった。
彼女は、自ら扉を抉じ開け、危地に踏み込んで事実を見聞することを選ぶ。
これまで自分は安全な机の上で憶測を弄び、世論を操るゲームに興じていただけではなかったか。
「……頼んだ」
佐瀬はその手に金を握らせると、それだけ言うのが精一杯だった。
同日午後。
春日町、函館監獄。
鉄門がきしみを立てて開き、明里の背中が吸い込まれていく。
門が閉まる音が、やけに大きく響いた。
佐瀬は、その場から一歩も動けなかった。
港から吹き上げる霧が、監獄の壁を白く塗り潰していく。
佐瀬は言いようのない不安に駆られた。
――もし、あの男が本当に「正しかった」としたら。
俺はペンを折らなければならないかもしれない。
それでも、自分はもう引き返せないところまで来てしまっているのだと。
春日町の監獄は、函館山の影が長く伸びる土地にあった。
石を積み上げただけの外壁は、海霧と潮風に晒され、ところどころ白く膨れている。
近代国家の威信を示すはずの建物は、どこか仮設小屋のように頼りなかった。
鉄門の前に立つと、空気が変わる。
港町特有の湿った匂いに、ツンとした硫黄臭が混じる。
獄舎に併設されたマッチ工場の匂いだ。
「差し入れです」
中沢明里は、包みを胸に抱え、低く名を告げた。
看守は一瞬、彼女の顔を見てから視線を落とす。
「ああ……開拓使の」
それだけで話は半分通った。
「会計官の白井鷹之進に面会をお願いします。あの方には身寄りがなくて……せめて着替えだけでも」
言葉は、あらかじめ何度も口の中で転がしてきたものだった。
嘘ではない。
看守は包みを受け取り、中身を改める。
着物、手拭い、乾物。
その底に忍ばせた小さな紙包み――硬貨の重みを、彼は確かに感じ取ったはずだった。
目が合うと、明里はにっこりとほほ笑んだ。
看守の視線が明里の胸元に落ちる。
篭絡することは造作もなかった。
「……10分だ」
そう言って、看守は背を向けた。
明里は、胸の奥で息をつく。
ここから先は、戻れない。
面会所は、独房とは別棟に設けられていた。
木格子と鉄柵を二重に隔て、声だけが届く構造になっている。
明里は簡素な木製の椅子に座らされ、看守からしばらく待つように指示があった。
「明里ちゃん」
呼ばれて、明里は顔を上げた。
格子の向こうに、白井鷹之進が立っていた。
煤にまみれていたあの夜の面影は、もうない。
髪は短く刈られ、頬はこけ、着ている囚人服も体に合っていない。
人相だけ見れば、十は老けたように見えた。
それでも――
その瞳だけは、変わっていなかった。
静かで、澄み切っていて、
まるでこちらの胸の内まで計算し尽くしているかのような眼。
「やあ」
白井は、少し困ったように笑った。
「こんなところまで来てくれるなんて。驚いたよ」
明里は、喉の奥が詰まるのを感じた。
名前を呼ばれただけで、張り詰めていたものが揺らぐ。
「……着替えを、お持ちしました」
「ありがとう。助かる」
白井は、格子越しに包みを受け取ろうとして、ふと手を止めた。
「……君、顔色が悪いな」
その一言に、明里は思わず視線を逸らした。
あの夜、
炎の中で微笑んだ男が、
いまも自分の体調を気遣っている。
「大丈夫です」
短く答える。
感情を挟めば、崩れると分かっていた。
白井は、それ以上は聞かなかった。
監獄の中で、時を告げる鐘が鳴った。
乾いた音が、石壁に反響する。
10分。
許された時間の上限。
明里は、白井の瞳から目を逸らせないまま、
静かに息を吸い込んだ。
――ここからが、本当の接見だ。




