新選組
佐瀬が最初に接触を試みたのは、元新選組隊士・山口次郎という男だった。
西南戦争の折、彼と同じ部隊にいたという古い知人からその名を聞かされ、東京の根津にある山口の自宅に一通の手紙を送ったのである。
返書は、しかし山口本人のものではなかった。
差出人は時尾という彼の妻の名で、山口は藤田五郎と改名して当時関りのあった人と会うことを固く辞していると謝し、その代わりに――北海道には、なお新選組の生き残りがいるらしい、という一文が添えてあった。
函館から松前へ向かう道は、五月だというのに肌寒かった。
海沿いの街道を進む馬車の車輪が、ぬかるんだ土を噛むたび、湿った音を立てる。津軽海峡から吹き上げてくる風は、どこか鉄の匂いを含んでいた。
佐瀬精一は、膝の上に置いた一通の手紙を何度も見返していた。
――北海道にも、新選組の生き残りがいる。
それだけが、山口次郎の親族からの返事だった。
杉村義衛。松前在住。
佐瀬は、紹介状を指でなぞる。紙は薄く、文面も簡潔だったが、その重みは、これまで自分が追いかけてきたどんな号外よりもずっしりと感じられた。
――白井鷹之進とは、何者だったのか。
函館で起きた「官金焼捨事件」は、もはや単なるスキャンダルではない。
数字を愛し、規律を信じ、正気のまま火を放った男。
その背後にある時間を知らずして、この事件を書き切ることはできない。
佐瀬は、いつの間にか取材の動機そのものが変容している自分に気づき、戸惑いを覚えていた。
松前の町は静かだった。
城下町としての面影を残す通りを外れると、白壁の医家がぽつりと佇んでいる。庭先には薬草が整然と干され、剣豪の隠居所というより、学者の住まいに近い印象だった。
佐瀬が戸を叩くと、しばらくして中から足音がした。
「はいはい、どちらさん?」
現れた男は、拍子抜けするほど気さくだった。
歳は四十くらいだろうか。
体躯は引き締まっているが、想像していたような大男ではない。
着流し姿で、どこか町医者の婿養子らしい穏やかさがあった。
「…杉村義衛様で、いらっしゃいますか」
「えーと。あんただれ?」
それを肯定と受け取った佐瀬が名乗り、藤田五郎からの紹介状を差し出すと、杉村はそれを受け取り、ひと目通してから顔をしかめた。
「手紙の文字が女だったから会う気になったのに、来たのはムサ苦しい兄ちゃんかよ。あーあ、騙された」
「…そんなつもりはなかったんですが、はあ、すみません」
「まあいいや、こっち。お上がんなさい」
杉村は手招きすると、裏庭に回って縁側に腰掛けた。
「んで? 今さら新選組のことなんか掘り返して、何を書くつもりだい。こっちはもう、堅気の人間でね。世間体ってもんもあるしさあ」
軽口を叩きながらも、杉村の目は、紹介状の文面を流し見ている。
やがて、それを折り畳み、顔を上げるとぽつりと呟いた。
「あの野郎、面倒ごとを押し付けやがって…」
佐瀬が怪訝な顔をすると、杉村はまた穏やかな顔に戻った。
「いや、こっちの話。で?なんだって?」
佐瀬は、杉村の隣に腰掛けると、覚悟を決めて名を告げた。
「白井鷹之進、という開拓使の会計官です。彼は長州征伐のころ、新選組に籍を置いていたはずなんですが」
その瞬間、杉村は首を傾げた。
「白井……?」
眉間に皺を寄せ、記憶の底を探るような沈黙。
やがて、ぽつりと言った。
「白井ねえ…そういえば、居たかなあ」
声は軽い。だが、その裏に、確かな重みがあった。
「あんまり印象に残ってないが…ただひとつ、覚えてるのは」
杉村は縁側に腰を下ろし、遠く海の方角を見やった。
「会計方に河合耆三郎って男がいてね。やつが切腹したとき、白井は――ひどく、動揺していたよ」
佐瀬は息を呑んだ。
杉村義衛は、縁側の板に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
佐瀬は言葉を挟まなかった。
促せば、この男は口を閉ざす。そういう種類の沈黙だと、肌でわかった。
松前の海から吹き上げてくる風が、庭先の薬草をかすかに揺らす。
「今でも、忘れたころに夢に見るんだ」
佐瀬は息を潜めた。
杉村の口調は軽い。だが、その声の底に、消えない錆のようなものが沈んでいるのが分かる。
「慶応二年の京都だ。河合は剣の方はからきしだったがね。その代わり、算盤を持たせたら右に出る者はいなかった。白井も、よく一緒に弾いてたよ。夜更けまで、火皿の灯り一つでさ」
――白井鷹之進。
他人の中の彼は、いつも算盤と一揃いで記憶されている。
「きっかけは、五十両だ」
杉村は指を立てた。
「たった五十両。隊の出費と、支払先の帳簿が合わなかった」
佐瀬は思わず口を挟みそうになり、堪えた。
五十両――命の値段としては、あまりにも軽い。
「白井は必死で訴えてた。『書き写すときの見間違いだ』『帳尻は合うはずだ』ってね。算盤を抱えて、何度も何度も計算し直してさ。同僚を守るため、 『待ってくれ』『もう一度見せてくれ』って、あの鬼の副長、土方歳三に食い下がってたよ」
その名には空気を張り詰める力が宿っていた。
「土方は、規律を何よりも重んじる人だ。金の不一致は、横領と同じ。疑いが晴れない以上、例外は認めない――」
杉村は、言い訳をするでもなく、断罪するでもなく、事実として語った。
「だから切腹が決まったのは、あっという間だった。『隊規だ』の一言でね」
その日のことを、杉村は鮮明に覚えているという。
薄暗い屯所。
湿った畳の匂い。
障子越しに差し込む、鈍い冬の光。
「河合は、取り乱さなかった。むしろ、白井のほうが青ざめてたくらいだ」
杉村の声が、わずかに低くなる。
「やつは、最後まで算盤を離さなかった。『合うんだ』『どこかにあるはずだ』って、指を震わせながら…」
だが、時間は与えられなかった。
「たしか、河合耆三郎は畳の上に座る前に、二言三言、白井と言葉を交わしたはずだ」
杉村は少し辛そうに目を閉じて、うつむいた。
「…河合のやつは、足りない金を実家に無心していてな。『白井さん、あなたが気に病むことはない。私の実家から金が届いたら、使者に事の顛末を伝えてくれ』と」
まるで、事務の引き継ぎでもするようだ。
「…そして、腹を切った」
杉村は、そう言って湯呑を持ち上げた。
「介錯をやった沼尻って男はまだ新参でね。作法もまるでなってなくて、一度じゃ首を落とせず、3度目の介錯で、河合はようやく楽になれたんだよ」
佐瀬はゴクリと唾をのんだ。
しばらく、茶を啜る音だけが座敷に残った。
杉村義衛は、縁側の向こうに広がる松前の海を眺めたまま、すぐには口を開かなかった。
かつて血と鉄の匂いに満ちていた男の横顔は、今では医者の婿養子らしく、穏やかに見えた。
「…だがその日以来、白井は人が変わったようになった…。妙に口数が減って、剣の稽古にも来ない、酒にも付き合わない。ただ、算盤を弾く手だけが、やけに正確になった」
杉村は、指先で畳を軽く叩いた。
まるで、見えない珠を弾くような仕草だった。
「だがアレで徳川に嫌気がさしたのかねえ。…鳥羽伏見の戦があったころには、もう姿を見なかったなあ」
脱走だったのか、離脱だったのか。
杉村は、断定しなかった。
京都で、五十両の不一致が一人を殺し、彼はそれをただ傍観するしかなかった。
函館で再び巨大な不正の数字を目にしたとき、そのときの後悔が、彼をつき動かしたのではないか。
佐瀬の胸の奥で、すべてが一本の線に繋がっていく。
白井は、二度と「数字で人を殺させない」ために、火を放ったのではないか。
縁側に、しばしの沈黙が流れた。
「…ちっと喋りすぎたな」
杉村は茶をすすった。
「やれやれ。気がつけばおれも土方さんの年を越しちまった。どうした訳だか、最近、あの頃のことが無性に懐かしくてねえ。あんな事ばかりがあった、血生臭い時代なのにさ…」
佐瀬は、会津城が陥落する直前の街を思い出した。
「私自身はあの頃に戻りたいなんて思いませんが、みな必死に生きていたから忘れがたいんでしょうな」
杉村は静かにうなずいた。
「だからさ。あんたが追ってるその白井って男が、おれの知ってる白井と同じ人間で、まだ会計係なんて職にしがみついてんだとしたら、そいつも数字に憑りつかれてんじゃないかねえ」
佐瀬は、松前の静かな空の下で、一つの確信を抱いた。
数字は、人を生かすことも、殺すこともできる。
そして白井鷹之進は、その両方を知ってしまった男なのだ、と。
佐瀬は杉村の顔を覗き込んだ。
「……この話、書いても?」
「好きにしな。もうおれには関係のない話さ」
杉村義衛は、そう言って立ち上がった。




