痕跡
翌日、明里は港近くにある「古西商店」で佐瀬と落ち合った。
白井が酔って、めずらしく饒舌になったという、あの店だ。
確かに、彼が好みそうな、質素な佇まいの店だった。
「どうだ、何か収穫はあったか」
佐瀬は注文するより先に、結果をせっついた。
「新しい物証はない。というより…」
明里は首を振った。
「みんな本当はなにがあったか知ってる。でも、誰も口を開く気はない」
「はは。そいつは厄介だ」
佐瀬は笑った。
「だが、お互い様さ。これだけ状況証拠が揃ってれば、記事の根拠は十分だ。相手は裁判官じゃなくて大衆なんだ」
「…あなたは、怖くないの?」
「何が」
「この事件の行き着く先は、中央政界の大立者かも知れない」
佐瀬は肩をすくめた。
「甘ちゃんだな。いまさらそんなことに気づいたのかい」
彼は、海霧の向こうを見ながら続けた。
「そんなことは、最初から予想できただろ?白井はトカゲの尻尾さ」
その言葉に、明里は強い違和感を覚えた。
「証拠がない」
「だが俺の嗅覚は大久保が臭いと言ってる」
佐瀬は言い切った。
「それで十分だ。俺たちは警察じゃない」
明里は、その言葉を飲み込めなかった。
何かが確実に、歪んでいる。
白井が単に罪を被った犠牲者であったなら、なぜあんな清々しい顔ができたのだろう。
証拠はない。
だが、事実だけが、重く残っている。
それが、最も厄介な「証拠」なのだと、彼女はようやく理解し始めていた。
佐瀬は懐から財布を取り出した。
「今日は奢るよ。東京の新聞社からまとまった金が入った。この調子で頼むぜ?」
明里は冷淡な笑みを浮かべた。
「これじゃ記者じゃなくて、ただの情報屋ね」
佐瀬は顔を赤らめ、子供じみた語気で言い返した。
「物事には順序ってもんがある。まずは、おれの情報が使えるってことを証明せにゃならん」
明里は、追い討ちをかけるように挑発した。
「そうなの?」
「じゃあ、どうすればいい?黒田を叩けば満足か?それとも、大久保を?」
明里は首を振った。
「どっちでもない。帳簿を焼いた理由。それを知らない限り、何を書いても嘘になるでしょ」
佐瀬は、舌打ちしそうになるのを堪えた。
正論だ。
そして、いちばん証明が面倒な仕事だ。
佐瀬は降参のポーズをとった。
「分かったよ。白井が、黒田の犬じゃないってことは認めてもいい」
「ええ」
「じゃあ、誰の指示であんなことをやった?」
明里は、首を傾げる。
「わたしなりに色々考えてみたけど…どれもピンとこないわ」
その言葉に、佐瀬は奇妙な違和感を覚えた。
彼女は、どこかでまだ白井を信じている。
「なあ」
佐瀬は、低い声で言った。
「いったいあんたには、白井って男がどう見えてるんだ?」
明里はその問いに長い時間をかけて答えを出した。
「正直、わたしは彼のことをほとんど何も知らない。けれど、仕事の時の彼は、根拠に基づいた数値と、その計算の過程になにより固執するひとだった」
佐瀬は、思わず吹き出しそうになった。
「なんだそりゃ。意味が分からん」
明里は、くすりとも笑わず、真っ直ぐに佐瀬を見た。
「だから、なぜ彼が紙幣を焼くという結論に至ったか。それを調べなきゃ」
沈黙が落ちる。
佐瀬は、ふっと息を吐いた。
――これは、スキャンダルじゃない。
――政治闘争でもない。
平凡な一人の男の身上書を書きあげる仕事なのだ。
「…つまり、あの男の過去、か」
明里は、その答えに満足したように頷いた。
佐瀬はその微笑みに一瞬心を奪われかけて、なんとか、気を取り直した。
「白井は四十代の津軽の士族だ。幕末を確実に生きてる。会津出身の俺としちゃ、奥羽越列藩同盟には少々複雑な感情があるがね」
佐瀬は、指を折る。
「鳥羽伏見、戊辰、そして…箱館戦争」
「従軍の経歴を追うってこと?」
「ああ。四十も過ぎて蝦夷地で算盤を弾いてるなんざ、嫡男とは思えねえし、どこぞの戦地に駆り出されてるのは、おおいにあり得る話さ」
佐瀬は言った。
「だいたい会計方なんてのは、いまや食い詰めた元武士のお決まりの仕事だからな」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。
港の向こう、霧の奥に、白井に通じる道がある。
「でもどうやって?」
「記者の伝手を舐めんな。幸い、函館警察に同郷がいてな」
その日の夜。
佐瀬精一は、同郷の原直次郎という邏卒の家に上がり込み、机に腰を下ろしていた。
「……あんたも物好きだなし」
原は、佐瀬の前にどさりと書類を投げ出す。
箱館戦争後の拘留者名簿。
赦免者一覧。
再仕官者の経過記録。
「がんなもん持ち出したことが知れだら、大目玉じゃ済まねぇぞい」
「同郷の誼だ。今晩だけ、頼むよ」
原は戊辰戦争のあと、斗南藩に流された会津藩士の成れの果てである。
「早ぐしてくんちぇ。明日の朝にぁ、書架に戻しておがねばなんねぇんだがら」
「…白井……白井……っと」
背中を丸め、一行ごと文字を追う佐瀬には、原の愚痴はもう届かなかった。
しかし、最後の一冊を閉じた佐瀬は肩を落とした。
「…そりゃ、見つからねえよな。幕軍にいた人間は、だいたい御一新からこっち、名前を変えてひっそり息を潜めて暮らしてる」
原は珍しく熱心な佐瀬に不思議な顔をした。
「昔の名簿なんぞ見て、一体どうするつもりだったんだなし?」
「例のボヤ騒ぎを起こした白井鷹之進。あの男の経歴を見て、あんたなにも思わなかったか?会計官になる前の十年が、まるっと抜けてる」
原は、鼻で笑った。
「士族なんて、がんなもんだぁ。負けだ側にゃ、書ぐことなんてなんもねぇ。俺だってそうだぞい」
――負けた側。
その言葉が、佐瀬の胸に引っかかった。
「なあ、原さん。“書かない”のと、“書けない”のは違うだろ?そうだ。あんた、家宝にしてた会津の行軍録を持ってきてたろ?あれを見せてくんねえか」
原は佐瀬の勢いに気圧され、思わず腰をあげてから疑問に思った。
「あ、ああ。そりゃ構わねぇが……白井は奥州の男だなし?」
佐瀬は、原が小箪笥から取り出した薄っぺらい紙の束を引っ手繰った。
「いいから!」
それは、二度目の長州征伐の折に作られた書類だった。
そしてまた、文字の羅列に没頭し始めた佐瀬の指が、ある頁で止まった。
心臓が、どくりと鳴った。
「留田流剣術、源家古伝馬術 ――白井鷹之進。これだ!」
佐瀬は興奮した口調で続けた。
「こいつは驚いた。野郎、元の名前を堂々と名乗ってやがる!」
あの時代、幕軍にいた多くの武士が、名を失った。
そして、名を捨てて生き延びた者だけが、明治という時代に、ひっそりと紛れ込んだ。
「なじょして奥州の武士の名前が、そこにあるんだ?」
原が眉を顰めると、佐瀬はニヤリと笑った
「忘れたのか?あの頃、会津には寄せ集めの剣客集団が混じってた」
「……新選組、か」
「ああ。どおりで、なかなか腹が座ってる。相手にとって不足なしだぜ」
佐瀬精一は、はっきりと理解した。
自分が今、 火中の栗を“選んで”拾い上げているということを。
そして――
それでも、ペンを置けない人間であることを。
翌日、佐瀬は、さっそく明里をいつもの茶屋に呼び出した。
「やつは新選組だ」
明里は、ぴくりと反応した。
「…新選組。そう…そうだったの。けどその先をどうやって辿るつもり?彼らも、彼らの親族もそれはひた隠しにしたい過去のはず」
だが佐瀬は、ちいさくウインクをしてみせた。
「西南戦争に従軍した知り合いがいる。たしか同じ部隊に元新選組の男がいたと言ってた」
「会えるの?そのひとに」
「分からん。だが、まだ糸は途切れてないってことだ」
佐瀬は勢いよく立ち上がり、それから振り返った。
「なあ、中沢さん。これは、出世話じゃなくなるかもな」
明里は、少しだけ笑った。
「そうね」
佐瀬は、その笑顔を見て、奇妙な高揚を覚えた。
――これは、でかい。
だが、記事の大きさじゃない。
人の人生を、一本、まるごと引きずり出す仕事だ。
佐瀬は決めた。
「まずは、白井の『信念』とやらを暴いてやる」
明里は、ただ静かに釘を刺した。
「…それが、あなたの期待する答えじゃなくても?」
佐瀬は、一瞬だけ黙り、そしてはっきりと頷いた。
「ああ、かまわん。俺が知りたいのは真実だ」
その夜。
佐瀬は、古い知人へ宛てた手紙を書いた。
――元新選組の生き残りに会いたい。と。
函館の霧は、まだ晴れない。
だが、進むべき方向だけは、定まった。
次に掘り起こすべきは、汚職でも、陰謀でもない。
刀と算盤の時代をまたいだ、一人の男の「誠」だった。




