海霧
半年が過ぎた。
十一月も半ばを過ぎた函館は、雪と呼ぶにはまだ躊躇われるほどの結晶が静かに舞い始めていた。
細かな粒が、頬に触れ、冷たさだけを残して消える。
港から吹き上げる風が、さらにそれを雨なのか雪なのか判じがたいものにしていた。
石畳は、ただ沈んだ色に染められ、靴跡だけが淡く白に縁どられる。
人々は空も見上げない。
函館では、まだ雪の数には入らないのだ。
港に近い坂道に、朝の霧がまだ薄く残っていた。
その途中で、佐瀬精一は立ち止まり、白く煙った海を見下ろしていた。
佐瀬の胸には、白井が遺した「大逆」という言葉が、刺さった棘のように残り続けていた。
今となってはその真偽を確かめる術もないが、司法の独立をめぐる駆け引きの中で、司法庁がその真相を暴こうとしていたのは間違いない。
もし、あのとき、自分があの電信を打たなければ。
大久保が死ぬことはなく、
いつの日か、その真実が、その懺悔が、大久保の口から語られたのだろうか。
胸の奥が、ちくりと痛む。
佐瀬は、情報が人を殺すことを、身をもって知った最初の世代だった。
白井鷹之進。
数字の不一致を、誰よりも恐れ、錯乱した会計官。
それだけが、公文書に残された白井の全てだった。
――だが、自分は知っている。
彼が帳簿を焼いた意味を。
そして、その火に、自分が油を注いだことも。
「…佐瀬さん?」
背後から聞き慣れた声が霧を割った。
振り向くと、中沢明里が立っていた。
庁舎の女中姿ではなく、簡素な外套に身を包み、使い込まれた皮の旅行鞄を提げている。
「よお」
佐瀬は、少し照れくさそうに片手をあげる。
「久しぶりだな。待ち伏せさせてもらったぜ?」
「またなにか、お役所の醜聞でも追ってるのかしら。例の白井さんの記事は、何処にも載らなかったけど」
佐瀬はただ薄く笑って、右手を軽く払った。
「……結局さ。俺には、書けなかったよ」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「今さら知ったかぶりして、あの事件の講釈垂れんのは、いくらなんでもカッコ悪すぎるからな」
明里は、なにも答えなかった。
ただ一度、目を伏せ、それから静かにうなずいた。
それだけで十分だった。
しばらく、二人の間に霧が流れる。
佐瀬は、意を決したように言った。
「俺はさ…どうやらあんたのことが気に入ったらしい」
明里の視線が、わずかに揺れる。
「また一緒にやらないか。次の山をさ。今度は、ちゃんと」
それは告白だった。
だが、恋の言葉を口にするには、あまりに遅すぎた。
明里は、少し困ったように笑った。
「ごめんなさい」
それが、白い息とともに告げられた答えだった。
「今回のことで、開拓使にはいられなくなったし。ここに居続ける理由もなくなったから、東京に帰ろうと思うの」
「…そうか」
「実は今日、五稜郭へ行って…土方さんにお参りしてから、連絡船に乗るつもり」
佐瀬の眉が動いた。
土方が亡くなったのは明治二年。
まだ明里が十にも満たない頃のはずだ。
「中沢さん、ひょっとしてあんたも、会津の生き残りなのか…?」
明里は、ただ、意味ありげな微笑を浮かべるばかりで、何も説明しなかった。
「あなたが、帝都の大新聞社に勤めることになったら」
そう言って明里は、鞄を軽く持ち直した。
「そのときは、連絡して」
それが、約束なのか、拒絶なのか、佐瀬には分からなかった。
「……振られちまったな」
自嘲気味に言うと、佐瀬は肩をすくめた。
「まあ、仕方ないか」
明里は何も言わず、ただ一度、軽く会釈をしてすれ違っていった。
坂を下る背中は、迷いがなかった。
呼び止めようとして、佐瀬はやめた。
彼女は、一度決めたことを翻したりしないだろう。
函館の街を貫く坂道は、定規で引いたように真っ直ぐ海へと伸びている。
二人が立っていたのは、開拓使庁舎のある山側の高台だった。
視界さえ利けば、佐瀬の目には、明里が桟橋に辿り着くところまで見えていたはずだった。
だが、その日の函館は霧に閉ざされていた。
坂を下るほど空気は白く重くなり、明里の輪郭は一歩ごとに薄れていく。
簡素な外套の裾が、霧の中へ溶けた。
足音が消えた頃、遅れて港から汽笛が鳴った。
それは距離を告げる音ではなく、彼女がもう手の届かない側へ渡ったことを知らせる、弔鐘のように響いた。
佐瀬は動けなかった。
目の前にあるはずの港が、その時だけは、地の果てより遠く感じられた。
そして、大久保利通の死から、二度目の冬。
明治十三年。
函館港の朝は、あの日と同じ霧に包まれていた。
佐瀬精一には、その霧が鉛色の重さを持った壁のように感じられた。
街はすっかり平穏を取り戻し、人々は次の政治抗争を酒の肴にしている。
―そろそろ、また何かが起きそうだ。
そんな気配だけが、空気の底に沈殿していた。
佐瀬は、港の待合所の長椅子に腰を下ろし、手にした古い新聞を畳んだ。
自分の名前は、どこにもない。
当然だった。
あの日以来、彼は報道の現場から遠ざかっていた。
佐瀬は、立ち上がった。
桟橋の先に、汽船が見える。
東京へ。
かつて土方歳三が「旧時代の終わり」を見届けた港から、今度は自分が、「新時代の言葉」を探しに行く。
それは逃避ではなく、自らに課した罰だった。
汽笛が鳴る。
佐瀬は、船に乗り込み、ふと五稜郭の方角を振り返った。
汽船が岸を離れ、函館の街が、ゆっくりと遠ざかる。
半年後。
明治十四年、初夏。
春日町、函館監獄の移転が、淡々と進められていた。
石壁に染みついた煤は、水を含ませた刷毛で無造作に削ぎ落とされ、錆びた鉄格子は、音を立てて外されていく。
そこが、かつて誰を閉じ込めていた場所なのか。
誰も気にも留めなかった。
作業に当たっていた人夫の一人が、独房の奥の壁で、ふと手を止めた。
「…なんだべ、これ。なにか書いてあるわ」
煤の下から、不自然なほど整った刻み跡が現れたからだ。
落書きにしては、線が深い。
恨み言にしては、乱れがない。
不 一 致 ナ シ
誰かが、爪で刻んだのだろう。
だが、狂人の衝動とは思えぬほど、その文字は正確で、均等で、迷いがなかった。
役人が首を傾げる。
「…どういう意味だべさ?」
「おおかた、横領で捕まった役人のグチだべ」
「くわばら、くわばら。会計方にとっちゃ一番おっかないのは、幽霊なんかより帳簿の不一致だって言うもんな」
そう言って、役人は興味を失ったように背を向けた。
ほどなく壁は塗り直され、その文字は誰の目にも触れないまま、再び白い漆喰の下に埋もれていった。
同年、東京横浜毎日新聞の記者となっていた佐瀬精一は、一つの告発記事を書いた。
開拓長官の黒田清隆が、多額の国費を投じた開拓使の工場、農場、船舶など官有施設を、同郷の政商五代友厚らへ、不当に安く、しかも無利息の長期間払いで払い下げようとした事実を暴いたのだ。
この結果、黒田は直接的な免官こそ免れたものの、責任を問われて表舞台から一時遠ざかることを余儀なくされる。
その後、中沢明里との再会の約束が果たされることは終になかったが、
佐瀬は、彼女が何処かで記事を読み、溜飲を下げたはずだといつまでも信じていた。
それは彼にとって、パンドラの箱の底に残ったという、最後の「希望」だったのかもしれない。
明治16年、おそらく全てを知る最後の人物、岩倉具視がこの世を去ったことにより、事件の真相は永遠に霧の中へ消えた。
そして―――現在。
白井の起こした事件は、「青森県士族白井鷹之進開拓使奉職中官金焼捨ノ件」として、開拓使函館支庁の記録課に薄い文書が一枚、残るのみである。




