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矜持

函館監獄の重い鉄門が閉まる音が湿った空気に響き渡った。

待ち構えていた佐瀬が駆け寄ると、

明里の顔は死人のように蒼白そうはくで、その瞳は何か恐ろしい深淵しんえんのぞき込んだかのように焦点が定まっていない。


「一体、中で何を話したんだ?」

明里は、監獄の石壁に力なく背をあずけた。

その、とがめるような眼差しが佐瀬を貫く。


明里から聞かされた接見の内容に、佐瀬は絶句した。

視界がゆがみ、足元の地面が抜けるような感覚に襲われる。

――白井が焼いた「火」。

――自分が打った「電信」。

その二つが、皮肉な歯車のように噛み合い、あの大久保利通の心臓を貫いたのだ。

白井は現場で帳簿を消すことで守ろうとし、自分は現場から遠く離れた場所で、その事実を「物語」へと変えた。

その物語が、暗殺者たちの正義を完成させてしまった。


「佐瀬さん」

明里あかりは最後に残った謎を打ち明けた。

「白井さんはこう言ってた…大久保卿にはある重大な疑惑があった、と」

「…それは?」

「分からない。けれど、彼は井上という判事から取り引きを持ち掛けられてる。その『大逆たいぎゃく』の罪を立証する手助けをすれば、罪を減じてもいいって」

「…大逆たいぎゃく?その判事は大逆たいぎゃくと言ったのか?」

―それは単なる汚職や不正ではない。

絶対的な禁忌きんき

記者仲間の間でささやかれていた不穏ふおんな噂が、佐瀬の脳裏によみがえった。


――慶応二年十二月。

孝明天皇、突然の崩御ほうぎょの報。

死因は天然痘てんねんとうであったと公表されている。

しかし、発症から崩御ほうぎょまでの早さ、記録の欠落、関係者の沈黙といった事実は、当時から多くの疑念を生んでいた。

強硬な攘夷派じょういはであった天皇は、倒幕と開国を急ぐ薩長にとって目の上のこぶだったはずだ。

もし、あの死が「謀殺ぼうさつ」だったとしたら――

その判事の言う“大逆たいぎゃく”は、現国家そのものを告発する言葉だ。


明里あかりの声が遠くで聞こえる。

「いずれにせよ、白井さんは取り引きを拒絶した。彼は秘密を墓まで持っていくことを選んだのよ」

佐瀬は答えなかった。

心臓が、早鐘はやがねのように鳴り続けている。

白井を廃人へと追いやり、大久保を死に追いやったのは、自分の傲慢ごうまんなペンだったのかもしれない。

しかし。

あの暗殺が天罰であったと、そう信じることができれば。

佐瀬は自嘲気味じちょうぎみに顔を歪めた。

明里あかりには、佐瀬の心の動きが手に取るように分かった。

「これ以上、深入りすることは白井さんの覚悟を無意味にしてしまうんじゃない?」


佐瀬がこれから調べようとしていることは、真実の追求などという高尚こうしょうなものではない。

自分の罪を、より巨大な「国家の罪」で上書きし、自分自身を許したいだけの、卑怯ひきょう足掻あがきではないのか。


「…俺は『大逆罪』という煽情的せんじょうてきな言葉にすがって、それを免罪符めんざいふにしようとしてるのかもしれん。だが、それでも白井に取引を持ちかけたという判事に、直接会わなきゃならん。これは新聞記者のさがってやつさ」




函館山の裾野すそのに沿うように官庁街が張りついている。

白塗りの外壁に縦長の窓。

西洋へのコンプレックスが産んだ和洋折衷わようせっちゅういびつな建築物――そこが函館裁判所だった。

佐瀬は基坂もといざかの急な勾配を、自らの迷いを振り切るように登り詰め、受付で名を告げた。


「新聞記者です。井上好武いのうえよしたけ判事に、取材をお願いしたい」


井上は、驚くほどあっさりと取材を受け入れた。

通されたのは、港を一望できる二階の小部屋だった。


「新聞記者が私に何の用かな。分かってると思うが、白井の件は裁判が終わるまで何も話せないよ」

デスクに向かったまま声をかけてきたのは、三十代半ばの、思ったより若い男だった。


「ご安心を。これは例の放火騒ぎとは、まったく別の話です」

井上は無言のまま、手振りで正面の椅子を勧める。

佐瀬は座るなり、本題を切り出した。


「…単刀直入にうかがいますが。あなたは監獄で、白井に『取引』を持ちかけましたね。大久保卿の起訴に協力すれば、減刑を考えてもいいと。それは――孝明帝こうめいていの死に関わる、『大逆たいぎゃく』の罪を裏付けるためですか?」

室内の温度が、一度下がったように感じられた。

佐瀬はさらに追い討ちをかける。

「司法省の上層部から、あの方を追い落とすよう圧力がかかったのではありませんか」


井上はゆっくりとペンを置き、組んだ指の上にあごを乗せた。

「佐瀬君と言ったか。君たち記者は、物事を大衆受けする物語に矮小化わいしょうかしたがるきらいがある。白井に問うたのは、あくまで事実の有無だ。私は法律家であって政治家の犬じゃない」


井上の声は、静かだが揺るぎなかった。

「…だが、もしこの国の成り立ちに法を逸脱いつだつした不整合ゆがみがあるとするなら、それを明らかにすることこそが司法の正義だ。たとえ相手が内務卿であろうと、大蔵卿であろうと、例外はあってはならない。少なくとも私はそうありたいと考えている」

「いまのこの国では、それはただの理想論では?」

佐瀬の反論は、自分への言い訳だった。

井上は窓の外に広がる海から、佐瀬に視線を移した。

「…そうかもしれん。しかし白井は黙秘もくひを貫き、帳簿を灰にすることで事実をほうむった。法律的な是非ぜひはおいても、自分の職責に殉じた彼を、私はある意味尊敬している。君にも職業人としての矜持きょうじがあるなら、大久保卿の死に責任を感じているのなら、筆を折るか、それとも事実の果てまで行くか。選びたまえ」


裁判所を出た佐瀬は、言い知れぬ感銘かんめいに浸っていた。

この取材は、結局佐瀬に何ら新しい事実をもたらさず、それでいて掛け替えのないものを与えたのだった。





函館控訴裁判所の裏手には、表の法廷とは切り離された細い移送路があった。

午前の光は届かず、石壁に沿って湿った影だけが積もっている。


その日、白井鷹之進は、その影の中を歩かされていた。

裁きは、あまりにも早く、あまりにも静かに下された。


司法省と内務省(警察)のパワーゲームは、白井の沈黙によって内務省の勝利に終わり、黒田清隆は、この事件をほとんど隠密裏おんみつりに「処理」した。

井上判事の「理想」もまた、権力に屈するほかなかったのだ。

この事件は、ふたを開ければ、あらゆる災厄が飛び出すパンドラの箱だった。



護送車が、ゆっくりと裏門へ回される。

粗末なほろの下、鉄の床に座らされた白井は、もはや拘束こうそくを意識していないようだった。

目は開いているが、どこも見ていない。

指先だけが、忙しなく宙を弾いていた。

――一、二、三。

見えない算盤そろばんの珠を、確かめるように。


中沢明里なかざわあかりは、道の反対側の建物の陰から、その光景を見ていた。

護送車が動き出す。

きしむ車輪の音が、石畳いしだたみを削り、霧の中へ溶けていく。

精神病棟のある小樽の病院へ――

彼はそこで、「静かな余生」を送ることになる。


白井は終生その約束をまっとうして、文字通り、その秘密を墓まで持っていった。

残ったのは、「気の触れた会計士」という、便利な空白だけだ。


護送車が角を曲がり、完全に見えなくなったあとも、明里あかりはその場を動けなかった。

国家は、剣も銃も使わずに、人を消す。

帳簿を閉じるように、音もなく。


明里あかりは、ふところの奥に指を差し入れた。

そこには、あの夜に拾った、焼け焦げた紙片があった。

数字の欠けた、意味を失った切れ端。

彼女はそれを、強く握りしめたまま、何も言わずに背を向けた。



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