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告解

「……白井さん」

ようやく声を出すと、それは思った以上に掠れていた。

「あなたの部屋で、十二日の夕刻に届いた電信を見つけました」

白井の眉が、ほんのわずかに動いた。

それだけで、答え合わせは半分終わったようなものだった。

明里あかりは、(ふところ)から折り畳んだ控えを取り出す。


『至急 大蔵省検査官 岩手視察了  明後日十四日 当支庁監査ノ為渡函  万端準備アリタシ』

正確に、数字を読み上げるように告げる。


白井は、目を閉じた。

「…見たんだね。それを」

その声に動揺はなかった。

明里は黙ってうなずいた。

「きみは頭のいい子だからな。それでここに来たのかい」

「ええ」

「…うわさは、前からあった」

白井は、格子に指を添えた。

その指先は、わずかに白くなっている。

「帳簿というものは雄弁だ。薩摩出身の政商に官有物を安く払い下げ、その差額がどこへ消えたのか。数字は、すべて知っていた」

時間は限られている。明里あかりの問いは、一直線だった。

「なぜ、帳簿を修正せず、なぜ訴え出ず、なぜ、燃やしたんですか」

白井は、しばらく黙っていた。

そして、ふと微笑んだ。

それは、あの夜、炎の中で見たのと同じ笑みだった。

「修正すれば、嘘を重ねる羽目になるし、訴えれば政争の道具にされる。そうなれば―また誰かが詰め腹を切らされるだろう?」

明里あかりは、はっとした。

「…白井さんは以前、同僚の阿部さんに、広沢富次郎という人の話をされましたよね?会津藩公用方として新選組の後見をされていた方です。貴方あなたはその新選組で散々ひどいものを見せられた後、しくもまた広沢の下で働くことになった」

「ずいぶん、私のことを調べたんだね」

「ええ。わたし、考えてみたんです。なぜ貴方あなたが彼をリトマス試験紙なんて呼んだのか。それは、同じ人間が介在したことによって、貴方あなたには新旧体制の『色』の違いが、より鮮明に見えてきた、そういう意味じゃないかと思うんです」

明里は少し身を乗り出した。

「あなたが守ろうとしたのは、大久保卿?」

白井は、否定しなかった。

「黒田の不始末は、いずれ露見するだろう。だが、いま世間にそれが知れれば、あの方が矢面に立つことになる」


白井は、大久保をただ盲目的に崇拝したのではなかった。

大久保の構築しようとした近代会計制度が、恣意的しいてきな判断を排除し、厳格な法によって全てを律するものと信じていたのだ。

「私にとって、大久保卿の冷徹さは救いだった。法律が厳格であればあるほど、かつての同志のように曖昧あいまいな疑いで命を落とす者はなくなる。大久保の作る国は、算盤そろばんたまを正しく弾く者にとって、最も安全な聖域に見えた」


「何故ですか。だからと言って、なぜ白井さんが全て引き受けなきゃならないの?」

明里の詰問きつもんを押しとどめるように、白井は手錠でつながれた両手を挙げた。


「違う、違うんだ明里あかりちゃん」

「違うって、何が?」

「司法省にとって、汚職おしょくはただの糸口に過ぎなかった。私は、井上という判事からある取引を持ち掛けられたんだ。彼らの標的は最初から大久保卿だった」

「それは、どういう?」

「詳しくは言えないが、大久保はある大逆罪たいぎゃくざいを犯していたという。それも、絶対に犯してはならない罪を」

「え…?」

「判事は、私の証言を足掛かりに、大久保を追求するつもりだった。だから帳簿の隠滅いんめつに大久保が関わっていたと私が証言をすれば、大幅な減刑を約束すると言った」

当時、捜査協力の見返りに減刑するという公式な司法取引は存在しなかったが、裁判官の裁量は非常に大きく、白井のような「元武士の官吏かんり」が「国家のため」といった建前で証言すれば、それが「情状」として刑期に影響する可能性は大いにあり得る。


「正直言って、判事の話の真偽しんぎについては、私もいまだ確信を持てない。だが、その秘密が漏れれば、明治政府は瓦解がかいするだろう」

明里あかりは黙って話の続きを待った。

「私は、判事の取引を拒否した。真相はどうあれ、大久保卿が今の政府に必要な人だという事実に変わりはない」



白井の声は、次第に低く、しかし確かになっていく。

「私はね、明里あかりちゃん。あの人の正しさを、数字で証明したかった」

明里あかりつばを飲み込んだ。

「だから――帳簿を焼いたのでしょう?」

「ああ。けれど、その大久保卿ですら清廉潔白せいれんけっぱくな政治家ではなかった」

白井は、静かに首を垂れた。

「今回の決断は――介錯かいしゃくだった。私が切ったのは、それを知ってなお、共犯関係を選んだ、私の首だ」

その言葉が、面会所の空気を切り裂いた。


明里あかりは鉄格子に手を掛けた。

「それは、大久保卿の罪というのは、いったい何なんです?」

彼は、格子越しに明里あかりを見据えた。

「それは言えない。言えないんだ明里あかりちゃん。それを知れば、君はこの先ずっとその重荷を背負いながら生きなきゃならん。だからこれでいいんだ」

明里あかりは、胸の奥が締め付けられるのを感じた。


そして、最後の算盤そろばんの玉を、弾いた。


「でも、白井さん」

その声は、苦渋に満ちていた。


「五月十四日――大久保利通卿は、紀尾井坂で暗殺されました」

言葉は、正確に、過不足なく告げられた。


静寂。


白井の口が、わずかに開いたまま、動かない。

血の気が、みるみる失せていく。


「……暗殺?」

その声は、ほとんど吐息のようだった。

指先が震え、格子に触れた手が、音を立てて滑り落ちる。


「そんな…数字に……不一致は、なかったはずだ……」

白井は、ゆっくりと首を振った。


「私は……私は、守ったはずだ。黒田の不始末を、あの方の名前から切り離した。帳簿を焼いて、紙幣も、価値のゆがみごと、清算した」

彼の細い指が、見えない算盤そろばんを弾くように、空を切る。

「大久保卿が糾弾される理由はもうない。数字は、すべて消えた。――不一致は、ないはずだ」


だが白井の計算は、重要な係数を見落としていた。

彼が灰にした帳簿は、電信という最新技術によって、「大久保こそ汚職の元凶」という物語の裏付けに使われた。

白井の喉から、音にならない声が漏れる。


「それなのに……なぜだ」


明里あかりは、目を逸らすことをせず、ただ大きく息を吸った。

「あの火事があった日の翌日―東京の新聞社に電信が入ったんです」

白井の指が止まる。

「函館で公金焼却。黒田関与の疑いあり、と」

白井の目が、ゆっくりと見開かれた。

「まさか…」

明里あかりは、静かに首を横に振った。

「刺客たちが、それを見たかどうかは分かりません。けれど…」

白井の喉が、ひくりと動く。

「私が…焼いた火が、大久保卿を斬るための…理由にされた?」

言葉が、また震え始めた。


「ちょっと待って。結論を急がないで。犯人の男たちが、それを目にしたという確証はありません」

しかし次の瞬間、白井のひざが崩れ落ちた。

「…ああ…ああ…!」

格子にすがろうとして、力が入らず、そのまま床に手をつく。

彼は、頭を抱えた。

獣のような叫びが、面会所に響き渡る。

「私が……私が、殺したというのか…!私が…あの方の背中を…刃へ…押したのか?」

喉を掻きむしるような、慟哭どうこく


白井は床に額を打ちつけた。

一度。

二度。

算盤そろばんたまが弾け、床に飛び散る音が聞こえた気がした。


数字に人生を捧げ、数字で人を救おうとした男が、歴史という計算不能の帳簿を前にして、完全に崩壊した瞬間だった。


明里あかりは、格子の前に立ち尽くしたまま、動けなかった。


白井の絶叫だけが、監獄の石壁に反響し続ける。

それは、「最悪の計算違い」を突きつけられた男が、世界に向かって放った、答えのない叫びだった。


面会所の扉が、乱暴に開いた。

靴底が床を鳴らす音。

複数の足音が、慟哭を切り裂くように雪崩れ込んでくる。

「静粛に!」

怒鳴り声が飛ぶ。


白井鷹之進は、床に崩れ落ちたまま顔を上げることも出来なかった。

肩を震わせ、血のにじんだ指で石床を掻き続けている。

「離れろ!」

看守の一人が、格子越しに白井へ近づく。

だが、白井の中では、何かが完全に切断されていた。


「白井さん…」

それは、ここに来て初めて、明里あかりの声に感情が混じった瞬間だった。

「ちがう。あなたが悪いんじゃ…」

その言葉は、途中で断ち切られた。


「時間だ」

背後から無機質な声がして、肩を掴まれる。

明里あかりは振りほどこうとするが、複数の手が容赦なく彼女を引きがした。

「待って!まだ話は終わってない!」

「規則なんだ」

有無を言わせぬ力。

明里あかりの身体が、後ろへ引かれる。

「離れなさい!」

看守の声は、感情を含まない。


白井が、ようやく顔を上げた。

その充血した目は、明里あかりを見ていない。

過去と現在、河合耆三郎と大久保利通、炎と血と紙片が、一つの濁流となって渦巻く虚空をただ見つめている。


看守の腕が、さらに強く締まる。

「さあ、出るんだ」

明里あかりの身体が、強引に後ろへ引かれた。


その瞬間、白井がもう一度、格子にすがりついた。

「待ってくれ……!」

叫びは、もはや理性の言葉ではなかった。

「あれは私なりの介錯だった。私は…!」

言葉は続かなかった。


「連れていけ!」

明里あかりは、ほとんど放り出されるように、面会所の外へ押し出された。

扉が閉まり、鉄の音がすべてを遮断する。

――引き裂かれたのは二人ではなく、

真実と、それを語る可能性そのものだった。


明里あかりが最後に見たのは——

格子の向こうで、白井鷹之進がひざをつく姿だった。



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