第9話 雨音に消えた火薬 ~設計図は水に溶けて~
ミスト・ヘイヴンの第3地区にある木造家屋街。
そこは、この街の開発から取り残された、古き良き貧困と静寂が眠る場所だ。
時刻は午後5時を回ったが、分厚い雨雲のせいで、外はもう真夜中のように暗い。
店に戻ってきた少年、レオが、ずぶ濡れのキャップを絞りながら報告を始めた。
「……間違いないよ、ヴィクター。あの“赤犬”の次の標的は、北通りにある製粉工場の跡地だ」
レオは、ヴィクターが広げたミスト・ヘイヴンの古地図の一点を指差した。
「酒場の裏で彼奴が電話してるのを聞いたんだ。『今夜は湿気ってるから、景気よく大きな焚き火にしてやる』って。雇い主への報告だと思う。あの跡地が燃えれば、区画一帯の地価は暴落して、再開発派が二束三文で買い叩けるって寸法だよ」
ヴィクターは、指差された地図の一点を、冷徹に見つめていた。
製粉工場。
中には古びた小麦の粉塵や、乾燥した木材が大量に残っているだろう。放火するには格好の薪だ。だが、もしそこで大規模な火災が起きれば、隣接する貧民街まで延焼し、何百人という人間が焼け出されることになる。
「……なるほど。彼らにとって、他人の住処は暖炉の焚きつけ程度の価値しかないというわけか」
ヴィクターは低い声で呟き、地図の上に一つ、チェスの駒を置くようにインク壺を置いた。
「レオ。工場のスプリンクラー設備の配置図は手に入るか?」
「え? ああ、役所の保管庫に忍び込めばコピーできるけど……何だい、まさか消化器で火を消しに行くつもり?」
「いいや」
ヴィクターは作業台へ向かい、棚からいくつかの薬品瓶と、特殊な形状のガラス管を取り出した。
透明な液体の中で、何か粘着質のあるゲル状の物質が揺れている。
「火を消すのは消防士の仕事だ。私の仕事は、火を点けようとした愚か者に、“水”という物質の恐ろしさを教育してやることだよ」
彼はガラス管を光にかざし、微かな笑みを浮かべた。それはヴィクターが最高傑作のインスピレーションを得た時の、純粋で危険な微笑だった。
「雨の日には、雨の日の処刑法がある。……レオ、今すぐ走れ。配管図と、工場の屋根裏への侵入ルートが必要だ。今夜の雨は、私にとっても好都合な“カーテン”になる」
「了解。……あんたって、本当に人間? 時々、心臓の代わりに時計が入ってるんじゃないかって思うよ」
レオが再び雨の中へと駆け出していく。
残されたヴィクターは、静かな店内で、調合した特殊な溶液を慎重に装置へと充填し始めた。
カチ、コチ……と響く時計の音だけが、彼の作業の伴奏だった。
【同刻、第3地区・火災現場跡】
降りしきる雨の中、傘もささずに焼け跡に佇む女の影があった。
黒いレインコートを着た、セレナ・ヴァレンタイン刑事だ。
彼女の周りには黄色い規制線テープが貼られているが、雨風に打たれてだらしなく垂れ下がっている。
「……くしゅん」背後で、付き添いの若い警官がくしゃみをした。
「あの、ヴァレンタイン刑事。もう戻りませんか? ここは鑑識も終わってますし、報告書どおりの事故ですよ。ストーブの灯油が漏れたんでしょう」
「いいえ。……匂うわ」
セレナはサングラスに滴る雨水を拭おうともせず、焦げ臭い空気を深く吸い込んだ。
普通の人間には、濡れた灰と泥の臭いしかしないが。
だが、彼女の研ぎ澄まされた嗅覚は、その奥底にある微細な異分子を捉えていた。
「灯油じゃない。……もっと揮発性の高い、安物の工業用ベンジン。それに、安葉巻のような甘ったるいタバコの残り香」
彼女は白杖で、足元の泥濘を突いた。
地面が柔らかくなっている。放火犯の足跡は雨で消えてしまっただろう。だが、“音”の記憶までは消せない。
――昨日の夜、この路地で私がすれ違った男。
彼女は記憶のテープを巻き戻す。
巨漢特有の、重く引きずるような足音。荒い呼吸音。そして、微かに聞こえた布擦れの音。あの時、男は何か金属製の缶のようなものを持ち運んでいた。
「放火よ。それも常習犯のプロ」
「プロ? だとしても、この大雨ですよ。今日のところは犯人も休みでしょう」
「素人ならね」
セレナは白杖を握り直し、見えない目で闇の奥を見据えた。
「でも、犯人の動機が愉快犯ではなく、利益だとしたら? ……雨は警戒心が緩む。野次馬も出歩かない。大きな仕事をするには絶好の舞台だわ」
彼女の脳裏に、管轄内で再開発が噂されているエリアの地図が浮かび上がる。
ここから北へ3キロ。古い製粉工場。
あそこが燃えれば、誰が得をするか。構図は明白だ。
「行くわよ」
「えっ、どこへ?」
「北通りの製粉工場跡地。……胸騒ぎがするの」
そう言った彼女の耳に、ふと、幻聴のような機械音が混じった気がした。
チク、タク、チク、タク……。
あの時、オペラ座で聞いた、死へのカウントダウンのような規則正しいリズム。
(まさか、ね。……あの“時計師”が、放火事件に首を突っ込むなんて)
その直感は半分当たりで、半分外れだった。
彼は首を突っ込むのではない。
燃え上がるステージごと、全てを掌握しに来るのだ。
「急ぐわよ、新人くん。雨音に紛れて、誰かがマッチを擦る音が聞こえる前に」
セレナは白杖を高く掲げ、タクシーを止めるために通りへと歩き出した。
その背中は、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、ただ真実だけを追い求める狩人のそれだった。
【午後8時。製粉工場跡地】
ミスト・ヘイヴンの闇夜に、廃工場が巨人の骨のようにそびえ立っていた。
窓ガラスは割れ、ツタが絡まり、天井の一部は抜け落ちている。
激しい雨がトタン屋根を叩きつけ、工場内には絶え間なく轟音が響いていた。
その屋根裏の梁の上に、闇に溶け込む黒い影がある。
ヴィクターだ。
彼は防水加工された作業服に身を包み、命綱一つで高所の配管にしがみついていた。
足元20メートル下には、工場の床一面に古新聞や油を染み込ませた木屑が山積みにされているのが見える。放火の準備は万端、あとは犯人が火を放つだけという状況だ。
「……随分と大掛かりな焚き火台だな。知性の欠片も感じられない」
ヴィクターは呆れたように呟き、頭上にある古いスプリンクラーの配管を工具でこじ開けた。
本来なら水が出るはずのパイプ。
そこに、店から持参した特殊なタンクを接続する。
カチャリ。
接続完了。
手際よくバルブを調整し、最後に、スプリンクラーの感熱部に、極小の部品を取り付けた。
彼のお手製の“強化型トリガー”だ。
通常よりも遥かに敏感に熱を感知し、作動と同時に配管内の圧力を爆発的に高める仕掛けになっている。
「これで準備は整った」
ヴィクターは作業を終え、梁の上から下界を見下ろしていると。
工場の裏口の鉄扉が、キイ……と嫌な音を立てて開くのが見えた。
入ってきたのは、赤い髪をオールバックにした、熊のような大男。
手にはガソリンの携行缶を持ち、口元には下品な笑みを浮かべている。
――レッド・ドッグ。
「ヒヒッ……いい夜だぜ。水もしたたるイイ男ってか」
男の声が、雨音の隙間から聞こえてきた。
「さあて、パーティーの時間だ。……燃えろ、燃えろ、何もかも灰になっちまえ」
男は携行缶の蓋を開け、ガソリンを撒き散らし始める。
強烈な揮発油の臭気が立ち上り、屋根裏に潜むヴィクターの鼻を刺した。
彼は顔をしかめ、ハンカチで鼻を覆う。
「……マナーがなっていない。ショーの開演前には、静粛にするものだ」
ヴィクターは懐から懐中時計を取り出した。
秒針が、頂点を指そうとしている。
男がポケットからオイルライターを取り出し、親指でフリントを弾く瞬間。
その煌めきが、全ての始まりの合図だった。
“罪”には“罰”を。
今夜の天気予報は、局地的な“凍える豪雨”へと変わるだろう。




