第8話 雨音に消えた火薬 ~湿り気を含んだ憂鬱~
その日、ミスト・ヘイヴンの空は、海面がそのまま裏返って覆いかぶさってきたかのような、重苦しい鉛色をしていた。
霧ではなく、もっと質量のある、冷徹で暴力的な雨だ。
港湾都市を叩く雨音は、決して優しい調べではない。
石畳を打ち据え、錆びたトタン屋根を削り、路地裏の排水溝からドブネズミの死骸を吐き出させる、徹底的な洗浄作業に似ている。
古時計店『失われた時間』の中にも、その湿った気配は容赦なく忍び寄ってくる。
湿度計の針は85パーセントを指している。
店主であるヴィクターにとって、これは非常事態警報に等しい数値だった。
「……不愉快だ」
カウンターの奥で、ヴィクターは低く呻いた。
彼の手にはいつものピンセットではなく、上質な鹿革のクロスが握られている。
彼は店の空調機――自ら改造を施した、蒸気機関と除湿剤を組み合わせた武骨な装置――の出力を上げると、ショーケースに並ぶアンティーク時計たちを一つ一つ丁寧に拭き始めた。
水分は金属を腐食させる。
微細な錆は歯車の噛み合わせを狂わせ、それはやがて、彼が最も忌み嫌う“時間の遅れ”を生み出す。
だからヴィクターはこの季節を憎んでいた。
世界の境目が曖昧になる霧の日よりも、すべてを水に沈めようとする雨の日の方が、彼の古傷を――肉体の傷と、記憶の傷の両方を――より深く疼かせるからだ。
カチ、カチ、カチ……。
壁に掛けられた数百の時計たちが、いつもより心なしか重い音で時を刻んでいる。
その音は、降りしきる雨音と混じり合い、まるで海底で時を数えているかのような閉塞感を店内に充満させていた。
ヴィクターは、19世紀製のグランドファーザー・クロックのガラス扉を開け、その心臓部である振り子に触れた。
真鍮の表面が、わずかに曇っている。
彼は眉をひそめ、クロスで入念にその曇りを拭い去る。
指先に伝わる冷たい金属の感触。
それが、彼自身の精神を安定させるための精神安定剤だった。
「……ヴィクター」
ふいに、声がした。
客ではない。それは店の奥にある住居スペースへと続く階段の上から聞こえた。
「何だい」
ヴィクターは作業の手を止めずに応える。
そこに立っていたのは、ずぶ濡れの仔猫を一匹抱きかかえた、まだ少年の面影を残す若者――店の雑用係として時折出入りを許している、ストリートチルドレンの「レオ」だった。
「雨漏りしてるよ。屋根裏の倉庫」
レオはぶっきらぼうに言いながら、濡れた仔猫をボロ布で拭いている。彼もまた、ヴィクターと同じく“名もなき浮浪児”としての過去を持つ、この街の最底辺を生きる住人だ。
「……計算外だな。先月、タールを塗り直したはずだが」
「この雨じゃ無理だよ。街中が水浸しだ。……それに、あの“焦げ臭い匂い”も、雨で余計に地面にへばりついてる」
レオの言葉に、ヴィクターの手が止まった。
焦げ臭い匂い。
それは比喩ではない。
ここ数週間、ミスト・ヘイヴンの第3地区――古い木造アパートが密集する貧民街――で、不審な火災が頻発していた。
最初はボヤ騒ぎだった。
だが次第に火の勢いは増し、一昨日にはついに死者が出たという。
警察の見解は「暖房器具の不始末による事故」。
しかし、レオのような街の裏路地を知る者たちは、別の真実を囁き合っていた。
「……まだ、続いているのか」
「うん。昨日の夜も一件あった。タバコ屋の爺さんの店だ。全焼だよ」
レオは仔猫の背中を撫でながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「放火魔が暴れてる。それも、ただ楽しんでるだけじゃない。誰かに雇われたプロの放火屋で。……噂じゃ、“レッド・ドッグ”って呼ばれてる赤い髪の大男が現場をウロついてたって話」
レッド・ドッグ。
その安直で野蛮な通り名は、ヴィクターの美学センサーを不快に逆撫でした。
放火。
それは犯罪の中でも、ヴィクターが最も軽蔑する“原始的な”手法の一つだ。
制御できないエネルギーを撒き散らし、標的以外にも被害を広げる。そこには計算も、優雅さも、芸術性もない。あるのはただの無秩序な破壊だけだ。
「……美しくない」
ヴィクターは小さく呟いた。
その声の冷たさに、抱かれていた仔猫がビクリと耳を震わせる。
「え?」
「何でもない。……屋根の修理には後で行く。それまではバケツでも置いておきたまえ」
「りょーかい。……あ、そうだ。客が来てるよ」
「客?」
この暴風雨の中を?
ヴィクターが訝しむと同時に、カラン、コロン、とドアベルがか細く鳴った。
風雨の音にかき消されそうなほどの、遠慮がちな訪問音。
レオは「じゃあ」と言って仔猫と共に店の奥へ引っ込んでいった。
入れ替わりに入ってきたのは、濡れた黒い傘を畳みながら、身体を小さく丸めた老婆だった。
小柄で、腰が曲がっている。
上質な、しかし随分と時代遅れなデザインの黒いコートを着ており、その袖口からは、線香の香りと……強烈な“煤”の匂いが漂っていた。
「……いらっしゃいませ」
ヴィクターは革クロスを置き、職人の顔を取り戻して客を迎えた。
老婆は入り口のマットで丁寧に靴の泥を拭い、恐縮したように店内を見回してから、おずおずとカウンターへ近づいてきた。
「あの……こちらで、古いものの修理をしていただけると聞いて……」
その声は枯れ葉が擦れ合うように乾いていた。
彼女はハンドバッグを開け、一枚のハンカチに包まれたものを、慎重に取り出した。
「これを……直せますでしょうか」
カウンターの上に置かれたのは、もはや原型を留めていなかった。
黒く焼け焦げ、熱で溶解した金属の塊。辛うじてオルゴールの一部であったことが判別できる程度だ。
シリンダーは飴のように歪み、音を奏でるための櫛歯は焼け落ちている。
ヴィクターはそれを手に取らなかった。
「……火災ですか」
単刀直入な問いに、老婆の肩がピクリと跳ねた。
「はい……。三日前の火事で、家も、店も……主人の思い出も、全部」
彼女は皺だらけの手で顔を覆った。
「“事故”だと警察の方はおっしゃいました。でも……でも、私は見たのです。火が出る直前、裏庭で嗤っている赤い髪の大男を。あいつが、オイルの缶を投げ入れるのを……」
ヴィクターの瞳孔が、微かに収縮する、レッド・ドッグ。レオの言っていた噂と一致する。
「警察には話しました。でも、信じてはくれませんでした。……この辺りの古い家はよく燃えるから、見間違いだろうと。あまつさえ、私が火の不始末をしたのではないかと疑われて……」
彼女は震える声で続ける。
それは単なる悲しみではない。理不尽な暴力に対する、行き場のない怒りの震えだった。
家を焼かれ、思い出を焼かれ、そして最後に尊厳まで焼かれた被害者の慟哭。
「このオルゴールは、亡くなった夫が初めてくれた贈り物でした。曲は『雨だれの前奏曲』……。もう二度と、あの音は聴けないのでしょうか」
ヴィクターはようやく、カウンターの上の黒い塊をピンセットで突いた。
炭化した煤が崩れ落ちる。
「……物理的な修復は不可能です。金属の組成そのものが熱変性してしまっている。これはもう、オルゴールではない」
非情な宣告。
老婆の顔から血の気が引いていく。
「そうですか……やはり……」
「ですが」
ヴィクターは言葉を継いだ。その瞳の奥に、暗い炎のような光が宿り始める。
彼は店の奥にあるショーケースから、一つの古い振り子時計を見やった。
彼の“裏の仕事道具”が並ぶ棚を。
「形あるものを元に戻すことは神にもできない。しかし……その火を点けた“火種”を消し去り、二度と火がつかないようにすることなら、私が請け負えるかもしれません」
老婆は顔を上げ涙に濡れたその瞳が、ヴィクターの真意を探るように見開かれる。
「……え?」
「奥様。あなたが本当に直したいのは、このオルゴールではなく、歪められてしまった“正義”の天秤ではないですか?」
ヴィクターはカウンター越しに身を乗り出した。
外の雨脚が一層激しくなり、バタバタと窓ガラスを叩く音が、二人の密談を世界から隔離するカーテンとなる。
「時間を……殺したいとは思いませんか。あなたの大切な思い出を灰にした、その下劣な炎の時間を」
一瞬の沈黙。
やがて、老婆の表情が変わった。
嘆き悲しむだけの被害者の顔から、覚悟を決めた依頼人の顔へ。
彼女はバッグから、煤で汚れた紙幣の束を取り出し、無言でカウンターに置いた。
それは彼女に残された、文字通りの全財産だった。
「……お願いします。あの男に、あの“赤い犬”に……夫の思い出と同じくらい、熱くて冷たい雨を降らせてください」
契約は成立した。
ヴィクターは炭化したオルゴールの残骸を、ピンセットでハンカチに戻した。
「承りました。……では、詳細をお聞きしましょうか」
この雨は、まだ止まない。
それどころか、これから始まる悲劇的で美しいショーのために、より激しさを増していくようだった。
ミスト・ヘイヴンに巣食う放火魔にとって、次の雨が“最後の雨”になることを、まだ誰も知らない。




