第7話 秒針の狂わない銀行家 ~檻の中のクロノグラフ~
ユニオン銀行本店、地下駐車場。
午後2時50分。
孤児院の立ち退き期限である3時まで、残り10分。
この時刻に設定された立ち退き同意書の最終サインを行うため、頭取のエドワード・マクファーソンは、本店ビルの最上階から専用エレベーターに乗り込んだ。
彼は上機嫌だった。
この契約が完了すれば、孤児院の土地は更地になり、巨大なショッピングモールへと生まれ変わる。莫大な利益が約束されていた。
「予定通りだ。1分の狂いもない」
マクファーソンは、腕に巻いたスイス製の超高級腕時計――トゥールビヨン搭載のクロノグラフを見下ろして笑みを浮かべた。
彼の心拍数は平静そのもの。完全なる勝者のリズムだ。
彼が乗り込んだのは、VIP専用の高速エレベーター。
ボタンは無く、静脈認証と音声認識だけで動く最新鋭の“鉄の箱”だ。
「地下駐車場へ。急げ」
彼が命じると、機械音声が滑らかに応答した。
『カシコマリマシタ、頭取。急ぎましょう……人生ノ、ムダ使いデスから』
エレベーターが降下を始める。
まるで無重力空間にいるかのように滑らかな動き。デジタル表示の階数表示がパラパラとカウントダウンしていく。
50、49、48……。
異変が起きたのは、30階を通過した瞬間だった。
ガクンッ!
不快な衝撃と共に、エレベーターが急停止した。
照明がフッと落ち、赤い非常灯だけが不気味に点滅を始める。
「な、何だ!? 故障か?」
マクファーソンは苛立ち、インターホンのボタンを叩いた。
「おい! 管理室! どうなっている! 私は3時から重要な会議があるんだぞ! 1秒でも遅れたら、貴様らのクビが飛ぶと思え!」
だが、返ってきたのは管理室からの謝罪ではなかった。
スピーカーから、砂嵐のようなノイズが走り、機械で加工されたような低い声が響いたのだ。
『……おや。あれほど時間を大切にしろと言ったのに、随分と無駄に叫びますね』
「誰だ! テロリストか!? 金を要求するなら……」
『金? いいえ、違います。私たちが要求するのは“時間”だけです』
声の主――店でビー玉を転がしていた男は、変声機越しに淡々と告げた。
『貴方は以前、孤児院の代表者にこう言いましたね。“時は金なり”と。……素晴らしい哲学だ。今日はその哲学が、貴方の肉体よりも重いかどうかをテストしましょう』
「何を訳のわからないことを!」
『そのエレベーターの制御システムは、現在、貴方の左腕にあるスマート・ウォッチと同期しています。……以前、貴方が“狂わない時計”を求めて改造に出したのを忘れたのですか?』
マクファーソンは息を呑み、自分の左手首を見た。
彼の自慢の腕時計。
かつて微細な遅れを気にして、ある裏通りの職人にメンテナンスさせた最高級品。
その秒針が、あり得ない速度で逆回転を始めていた。
『ルールは簡単です。貴方の“心拍数”が上昇すればするほど、エレベーターのブレーキは強くロックされます。逆に、心拍数が平常時に落ち着けば、扉は開きます』
エレベーター内のディスプレイに、現在のマクファーソンの心拍数が大きく表示された。
【HR:120】。
極度の興奮状態。赤文字のアラートが点滅している。
『さあ、落ち着いて。焦れば焦るほど、貴方は永遠にそこに閉じ込められる。……3時の契約に間に合いたければ、石のように静かにしていなさい』
「ふ、ふざけるなああああっ!」
マクファーソンは絶叫し、扉を蹴り飛ばした。
だが、彼の怒りは逆効果だった。
心拍数は跳ね上がる。
130、140、150……!
数値が上がるたびに、エレベーターの四隅にある油圧ブレーキが、ギリギリと締め上げられるような金属音を立ててロックを深めていく。
「くそっ、くそっ! 動け! あと5分なんだ! この契約だけで数千万ドルの利益が!」
『チッ、チッ、チッ。……おやおや。貴方にとっての1分1秒は、他人よりも高価なのでしょう? なら、その高い時間を独り占めできて光栄ではありませんか』
スピーカーからの嘲笑。
マクファーソンは冷房が効いているはずの箱の中で、滝のような汗を流していた。
腕時計を外そうとした。だが、特殊なバックルが噛み合って外れない。それどころか、時計のベルトが脈を測るように締め付けを強めてくる。
これは手錠だ。自分の心臓という名の鍵穴を持った、絶対の手錠。
時間は無慈悲に進む。
2時58分。59分。
そして――。
ピ、ピ、ピ……。
3時を告げる電子音が虚しく鳴り響いた。
「ああ……あああ……」
マクファーソンは床に崩れ落ちた。
終わりだ。
契約の時間に現れなかったという失態は、銀行家としての信用を地に落とす。さらに、違法すれすれだった今回の買収計画も、この空白によって精査の目が入ることになるだろう。
彼の完璧だったキャリアは、たった10分間の空白によって断絶された。
心拍数が絶望によってゆっくりと低下していく。
100、90、80……。
彼が廃人のように動かなくなった頃。
ポン、と軽い音がして、エレベーターの照明が戻った。
『時間切れです。……残りの人生は、孤児たちに懺悔するために使うといい』
最後にそう言い残し、謎の声はプツリと途切れた。
【同時刻、時計店『失われた時間』】
店内に流れていたラジオのクラシック音楽が終わる。
ヴィクターは、カウンターに置いたノートパソコンを閉じ、ゆっくりと伸びをした。
手元のカップには、既に冷めきったブラックコーヒー。
「……計算通りだ」
彼はベストのポケットから、シスターに貰った青いビー玉を取り出した。
それを指で弾き、店内のゴミ箱へと飛ばす。
ゴミ箱の中には、今朝マーサが持ってきたクロワッサンの包み紙が捨てられており、ビー玉はその上に静かに着地した。
金も、権力も、ダイヤのタイピンも、ここでは無意味だ。
ただ“完璧な仕事”だけが、この店の空気を満たしている。
その時。
表の通りを、パトカーのサイレンが通り過ぎていった。
その赤い回転灯の光が、店の壁に掛かった古時計たちのガラスを一瞬だけ赤く染め上げる。
(セレナ刑事。……君の耳なら、あのサイレンの中に“別の意味”を聞き取るだろうか)
銀行に急行するであろうパトカーの中には、おそらく彼女も乗っている。
彼女は現場に到着し、閉じ込められた頭取を見つけるだろう。
そして、彼の腕に巻かれた腕時計が、不自然なほど精密に改造されていることに気づくはずだ。
「さあ、追いかけてきたまえ」
ヴィクターは、数百の時計が刻むチクタクというリズムの中で、誰もいない虚空に向かって囁いた。
それは招待状であり、宣戦布告でもあった。
「君が良い聴衆であればあるほど、私のソナタは美しくなる」
ミスト・ヘイヴンの午後は、今日も霧に閉ざされている。
だが、その霧の向こうで、子供たちの遊び場だけは守られた。
ヴィクターは作業台に戻ると、再び小さな歯車をピンセットで摘み上げた。
彼自身の“壊れた時間”を修理する日は、まだ遥か遠い。




