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時計屋ヴィクターの“修理”報告書 ~ミスト・ヘイヴンの時計師~  作者: ニート主夫


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第6話 秒針の狂わない銀行家 ~10ヘルツの心理戦~

 シスターが店を去った後、店内に漂っていた雨と湿ったウールの匂いは、換気によって再び機械油と乾燥した古紙の香りに戻っていた。


 午後2時。


 ミスト・ヘイヴンの昼は短い。

 分厚い雲と霧に遮られ、太陽はボンヤリとした白斑としてしか存在できない。その柔らかな光が、店の窓から差し込み、空中に舞う微細な(チリ)を照らしていた。


 ヴィクターは、カウンターの上で小さな「宝物」を転がしていた。

 報酬として受け取った、安っぽいガラスのビー玉だ。

 指先で弾くと、コロコロと硬質な音がする。それは彼が普段扱うルビーやサファイアの軸受(じくうけ)よりもずっと歪で、不格好な球体だった。


「……さて。どう設計するかな」


 彼はそのビー玉を、窓際の光にかざしてみた。

 マクファーソンという男の時間を止めるための機構。

 暴力ではなく、システムによって彼自身を幽閉する“断罪の箱”。


 彼が脳内で複雑な歯車の組み合わせを描き始めた、その時だった。


 カラン、コロン。


 ドアベルが鳴った。

 それは今朝のマーサのような乱暴な音でもなく、シスターのような悲痛な響きでもない。

 計算されたような、一定の速度で扉が開かれる音。

 そして、床を叩く硬い音。


 カツ、カツ、カツ……。


 白杖(はくじょう)の音だ。


 ヴィクターの背筋に、冷たい電流が走った。

 彼はゆっくりとビー玉をベストのポケットに滑り込ませ、作業用のルーペを外して客の方へ向き直る。

 そこに立っていたのは、サングラスをかけた一人の女性。

 シンプルだが上質な黒のコート。手には杖。そして、背筋の伸びた凛とした佇まいは、周囲の空気をピんと張り詰めさせていた。


「いらっしゃいませ」


 ヴィクターは完璧な「時計職人」の声色(トーン)を作って言った。

 抑揚を抑え、少しだけ世間離れした気難しさを混ぜる。


 女性は店の真ん中で立ち止まり、まるで空気の味を確かめるように小さく鼻を動かした。


「……素敵なお店ね。ここだけ時間が何層にも積み重なっているみたい。それに、正確なリズム(ビート)


 彼女は微笑み、サングラス越しにヴィクターのいる方向を正確に見据えた。


「初めまして。あなたが、噂の腕利き職人さん?」


「噂というのは尾ひれがつくものですよ。……ただの時計修理屋です。何か、お困りですか」


 ヴィクターは平静を装っていたが、内心では最大級の警戒(アラート)を鳴らしていた。

 間違いない。

 昨夜の国立劇場。

 あの混乱の中でただ一人、落下したシャンデリアの残骸に群がらず、冷静に現場の“違和感”を探っていた女だ。


(刑事か。いや、それにしては早すぎる。まだ証拠は何も掴んでいないはずだ)


 女性はカウンターへ近づき、ハンドバッグから一つの包みを取り出した。

 丁寧に梱包された布を解くと、現れたのは年代物の懐中時計だった。銀製のケースには細かな傷が無数についており、使い込まれた歴史を物語っている。


「祖父の形見なの。……もう10年も動いていないわ。他の店では『古すぎて部品がない』って断られ続けてしまって。でも、友人からここなら直せるかもしれないって聞いたの」


 ヴィクターはそれを受け取ると、プロの目で鑑定した。

 19世紀末、スイス製。脱進機が特殊なタイプで、確かに普通の職人には手が出せない代物だ。


「……シリンダー脱進機か。確かに厄介だ。部品を一から削り出す必要がある」


「直せる?」


「時間はかかるが、不可能ではない」


 そう答えた瞬間、ヴィクターは自分の心臓の鼓動を意識的にスローダウンさせた。

 彼女が耳をそばだてた気配がしたからだ。

 彼女の目的は時計の修理かもしれない。だが、それ以上に彼女は“音”を聴きに来ている。この店の主が、どんなリズムで生きている人間なのかを。


 ヴィクターは作業台に戻り、あえて音を立てて工具を広げた。

 彼女の聴覚を撹乱するためのノイズだ。


「座ってお待ちになりますか? 少し中を見させてもらう」


「ありがとう。……じゃあ、お言葉に甘えて」


 彼女はカウンターのスツールに腰掛けた。

 ヴィクターは紅茶を淹れる準備をしながら――これは客をもてなすポーズであり、湯の沸く音で空間を満たす防衛策でもある――彼女に問いかけた。


「今日は随分と霧が深い。足元も悪い中、よくここまで辿り着けましたね。この店は地元の人でも見落とすような場所にあるんですが」


「私にとっては、目で見える道標よりも、音の方が頼りになるの」


 彼女はカップを受け取り、チェロのような低い声で語りかけてくる。

 その声の周波数は、ヴィクターの苦手とする女性特有のヒステリックな高音とは真逆の、心地よく響くアルトだった。

 それが余計に、彼を不安にさせる。


「ねえ、店主さん。……不思議ね」


「何がです?」


「このお店には何百もの時計がある。それぞれが違う時間を刻んでいるはずなのに、不思議とすべての音が調和しているわ。まるで、一つの大きな意志に指揮(タクト)を振られているみたい」


 彼女は紅茶に口をつけ、サングラスの奥から射抜くように言った。


「あなたからは、嘘のない機械の音がするわ」


 ドキリ。

 ヴィクターの指先が一瞬だけ止まりかけたが、彼はそれを紅茶のスプーンを置く動作に変えて誤魔化した。


「……職業病ですよ。人間よりも歯車と向き合う時間の方が長いものでね。人間は気まぐれで、すぐに狂う。だが機械は正直だ。手入れさえすれば、裏切らない」


「そうね。人間は嘘をつく。……時に、美しい旋律(メロディ)のために残酷な嘘をつくこともある」「昨日のオペラ座の事故、ご存知?」


 彼女は突然、話題の軌道を変えた。


「ああ、ニュースで見ました。酷い事故だったようだ」


「事故……そうね。警察発表では“老朽化による事故”と処理されたわ。でも私には、どうしてもそうは思えなかった」


 セレナは白杖を指先でなぞりながら、独り言のように呟く。


「あのシャンデリアが落ちる直前、奇妙な音がしたの。まるで誰かが、秒読みのスイッチを押したような……冷たくて、正確な音」


 彼女は身を乗り出し、カウンター越しにヴィクターに近づいた。

 その距離、わずか数十センチ。

 ヴィクターの鼻孔に、彼女のまとう微かな香り――雨の匂いと、冷涼なミントの香り――が流れ込んでくる。


「ねえ、職人さん。時計の技術って、物を動かすためだけじゃなくて、物を“壊す”ためにも使えるのかしら?」


 挑発だ。

 これは明確な取り調べだ。

 彼女はまだ確証を持っていない。だが、この街で「音」に関わる不可解な事件があれば、この店を疑わないはずがない。これはその、最初の探り(ジャブ)だ。


 ヴィクターは表情一つ変えず、彼女の形見の懐中時計を丁寧に分解し始めた。

 微小なネジを緩めるドライ、ドライ、という金属音だけが答えを返す。


「……構造上は可能でしょう。時限爆弾の信管、タイマー仕掛けの罠。歴史を見れば、時計職人が兵器開発に関わった例はいくらでもある」


 彼は一度言葉を切り、そして微笑みを浮かべて反撃に出た。


「ですが、それは三流のすることだ。一流の時計職人ならば、壊すことよりも、永遠に動かし続けることに命を懸ける。……このお祖父様の時計のようにね」


 彼は分解したムーブメントの一部を、彼女の手のひらにそっと乗せた。

 まだ微かに動き続けているテンプの振動が、彼女の皮膚に伝わる。


「心臓部はまだ生きている。ただ、周りの油が固まって呼吸ができなくなっているだけだ。……私はこれを蘇らせることができる。壊すよりも、ずっと難しい作業ですが」


 セレナは手の中の小さな鼓動を感じ、少しだけ(きょ)を突かれたような顔をした。

 そして、張り詰めていた警戒心を、ふっと緩める。


「……あなた、口は悪いけど、腕は確かなようね」


「光栄です」


 セレナはスツールから立ち上がった。

 彼女の中の疑惑が完全に晴れたわけではない。だが、「今は」これ以上の追求をするつもりはないようだ。


「修理、お願いするわ。急がないから、完璧にお願いね」


「承りました。……お名前を頂いても?」


「セレナよ。……セレナ・ヴァレンタイン」


 彼女はハンドバッグから名刺を取り出し、カウンターに置いた。

 そこにはシンプルに『ミスト・ヘイヴン市警 刑事部』とだけ記されていた。


「それでは、また。……美味しい紅茶をご馳走様」


 カツ、カツ、カツ。

 彼女は迷いない足取りで出口へと向かい、再びカランコロンという音と共に霧の中へ消えていった。


 後に残されたのは、彼女が置いていった名刺と、飲みかけの紅茶のカップ、そして祖父の形見の時計だけ。

 ヴィクターは大きく息を吐き出し、強張らせていた肩の力を抜いた。


 心拍数が平常に戻っていくのを感じる。

 手強い。

 今まで対峙してきたどんな悪党よりも、あの盲目の女性刑事の方が、遥かに自分の“核心”に近い場所に触れてくる。


「セレナ……か」


 ヴィクターは名刺を拾い上げ、指先で弾いた。

 その紙切れは空中で回転し、彼の計画書(スクラップ)が積まれた机の上に着地する。


「厄介な観客が最前列に座ってしまったようだ。……次の幕は、少し音を潜めて演じる必要があるな」


 彼は再びポケットからビー玉を取り出し、マクファーソンへの断罪のシナリオに戻った。

 だが、その脳裏には先ほどの彼女の言葉が残響のようにこびりついていた。


 ――あなたからは、嘘のない機械の音がするわ。


 その言葉は、怪物として生きる彼にとって、最大の称賛であり、同時に最も聞かれたくない真実でもあった。


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