第5話 秒針の狂わない銀行家 ~祈りと小銭の音~
そのシスターは、まるで嵐に打たれた迷い鳥のように震えていた。
年齢は二十歳そこそこだろうか。頬にはそばかすが残り、着古した修道服の袖口は擦り切れ、雨と泥の染みがこびりついている。
だが、その濡れた瞳だけは、溺れる者が藁を掴むような、必死の光を宿していた。
「……突然、申し訳ありません。あなたが……時計師のヴィクター様でしょうか?」
彼女の声はか細く、背後で刻まれる数百の時計の秒針音に、今にも掻き消されそうだ。
ヴィクターは無言で頷き、コーヒーカップをソーサーに戻した。磁器がぶつかる硬質な音が、張り詰めた店内の空気を揺らす。
「私がヴィクターだ。修理の依頼かな? それとも、別の用件か」
シスターは一度だけ強く唇を噛み、抱きかかえていたブリキの缶を、そっとカウンターの上に置いた。
かつてはお菓子が入っていたであろう、塗装の剥げた四角い缶。
彼女は震える指先でその蓋を開け、中身をさらけ出した。
ジャララ……。
安っぽい金属音が響いた。
中に入っていたのは、くしゃくしゃになった小額紙幣と、錆びたペニー硬貨、ボタン、ガラス玉、そして“おもちゃの指輪”などのガラクタたちだ。
およそ大人が取引に使うような金額ではない。子供がお小遣いを何年も貯め続けて、ようやく届くかどうかという程度の端金だ。
「これで……時間を買いたいんです」
シスターの瞳から、耐えきれずに涙がこぼれ落ちた。
「あの人たちを止めてください。このお金が……子供たちが自分のおやつを我慢して、道端で靴磨きをして集めた全てなんです」
ヴィクターは、カウンターに散らばった硬貨を冷ややかに見下ろした。
1セント硬貨に付着した泥と手垢。紙幣に染み付いた汗の匂い。
それらは汚い。衛生的には最悪だ。
だが、彼は不思議と不快感を感じなかった。なぜならそこには、嘘のない“質量”があったからだ。
「聖ミカエル孤児院だね」
ヴィクターの言葉に、シスターは驚いて顔を上げた。
「……どうして、それを」
「壁に耳あり、というやつさ。マーサのパンは噂話とセットだからね。……座りなさい。コーヒーはブラックでいいか?」
ヴィクターは彼女を椅子に促すと、決して優しくはない手つきで、しかし丁寧に入れたコーヒーを差し出した。
温かい湯気がシスターの蒼白な顔色を少しだけ和らげる。
彼女はカップを両手で包み込み、ポツリポツリと語り始めた。
「ユニオン銀行のマクファーソン氏が……院長に立ち退きを迫っています。法的には何の問題もないそうです。土地の権利は既に銀行のものになっていますから。でも、猶予が……あと3日しかないのです」
「3日だと?」
ヴィクターは眉をひそめた。数百人の孤児を移送するには短すぎる。それは移転勧告ではなく、実質的な棄民宣告だ。
「私たちは抗議しました。せめて子供たちの引越し先が見つかるまで待って欲しいと。でも、マクファーソン氏は聞く耳を持ちませんでした。彼はただ、腕時計を見ながらこう言ったんです。『Time is Money。君たちがモタモタしている1秒ごとに、我々は巨額の機会損失を被っているのだよ』……と」
Time is Money。
実業家の格言としてはありふれた言葉だ。だが、ヴィクターはその言葉の裏にある“驕り”を敏感に嗅ぎ取った。
シスターは嗚咽を堪えながら続ける。
「昨日、子供たちが自分たちの宝物を入れたこの缶を持って、銀行へお願いに行きました。……でも、彼は会ってさえくれなかった。警備員がつまみ出し、缶を蹴り飛ばし……このお金を“ゴミ”だと笑ったのです」
ヴィクターは、カウンターの上にある1枚の1セント硬貨を、ピンセットで摘み上げた。
それは変形し、靴底で踏まれたような跡があった。
彼はその硬貨を光源にかざし、ルーペで観察する。
見えたのは、権力という巨大な靴底によって無惨に踏みにじられた、小さな尊厳の痕跡だ。
「……実に杜撰で、非効率なやり方だ」
ヴィクターは静かに呟いた。その声の温度は、先ほどまでの店主のトーンから、氷点下の“コンサルタント”のものへと変わっていた。
「自分の利益のために弱者を踏み潰すことに対して怒っているのではない。それは資本主義という名の自然界のルールだ。……私が許せないのは、彼が時間を冒涜していることだ」
彼は立ち上がり、ショーケースの中に並ぶ精密な懐中時計のコレクションに背を向けた。
「時間は金などではない。時間は命そのものだ。彼は、自分の1秒が他人の一生よりも価値があると勘違いしている。……その計算式の誤りを、正してやる必要があるな」
シスターは呆然とヴィクターを見つめた。
目の前にいる男の雰囲気が、修理職人から、何か得体の知れない“捕食者”へと変貌していることに気づき、本能的な畏怖を感じ取った。
「あ、あの……引き受けてくださるのですか? でも、お礼はこれしか……」
「金はいらない。こんな重たい金属を懐に入れたら、私のベストの形が崩れてしまう」
ヴィクターは、シスターの手からこぼれ落ちていた小さなガラス玉――子供のおもちゃのようなビー玉をひとつ、指先で摘み上げた。
透き通った青いガラスの中に、小さな気泡が閉じ込められている。
「報酬は、このビー玉ひとつでいい。それと……この後、私が君にする質問に、すべて正確に答えることだ」
「し、質問?」
「ああ。ターゲット……エドワード・マクファーソンの行動範囲、そのビルに入るための入館証、そして彼の癖。彼に関する全ての情報だ。パズルを組み立てるためのピースが必要なんだよ」
ヴィクターはシスターの目を真っ直ぐに見据えた。
「泣いている暇があったら思い出すんだ、シスター。神に祈っても、奇跡は空からは降ってこない。……奇跡は、人間が自らの手で“組み立てる”ものだ」
【一方その頃、ユニオン銀行本店・最上階】
地上50階。雲を見下ろす高さにある頭取室は、モダンなガラス張りの空間だった。
壁一面には現代アートが飾られ、部屋の中央には巨大なデジタル表示の世界時計が、赤いLEDで秒数を刻み続けている。
そこに、チクタクというアナログな音はない。ただ電子信号が無慈悲に切り替わる、無音の点滅だけがある。
「1分20秒の遅れだ。説明したまえ」
革張りの回転椅子に深く腰掛けた男、エドワード・マクファーソンが言った。
年齢は40代半ば。イタリア製の高級スーツに身を包み、腕にはスイス製の超高級クロノグラフが光っている。
だが、その顔立ちは爬虫類のように血の気がなく、瞳には他者を数字としてしか認識しない冷酷さが張り付いていた。
「も、申し訳ございません頭取! 道路が渋滞しておりまして……」
部下が脂汗を流しながら弁明するのを、マクファーソンは手元の万年筆を弄りながら遮った。
「渋滞など予測可能の範囲内だ。君は私の時間を80秒奪った。……いくらの損失になるか、計算できるかね?」
「は、はい……」
「君には失望したよ。この件はAIに任せた方が効率的だ。……荷物をまとめてくれたまえ。君のこれからの人生は、私の会社以外で使うといい」
「そ、そんな!」
部下が警備員に引きずられていくのを一瞥もせず、マクファーソンは窓の外に広がるミスト・ヘイヴンの街を見下ろした。
彼の目には、この街の霧さえも邪魔なノイズにしか映らない。
孤児院の立ち退き計画書にサインを走り書きしながら、彼は独り言つ。
「感情などという不確定な要素は排除すべきだ。この世界に必要なのは、完全なる秩序と利益だけ……」
彼はまだ知らない。
彼が排除しようとしている“感情”と“過去”の残滓が、路地裏の時計店で彼に向けた鋭利な刃を研ぎ澄ましていることを。
そしてその刃が、彼が最も信頼する“機械”の姿をして襲いかかることを。




