第4話 秒針の狂わない銀行家 ~霧の朝のルーティン~
ミスト・ヘイヴンの朝は、夜の帳が上がるというより、濃いインクのような闇が、少しだけ薄まった灰色に滲むことで訪れる。
午前6時59分50秒。
港湾都市の路地裏に佇む古時計店『失われた時間』の2階、簡素な住居スペース。
狭いベッドの上に横たわるヴィクターの瞼が、目覚まし時計が鳴るよりも正確に、音もなく開かれた。
5、4、3、2、1……。
1階の店舗から、数百個の時計たちが一斉に時報を告げる音が響いてくる。
重厚なボーンという柱時計の音、可愛らしい鳩時計の声、そして無数の歯車が噛み合うチクタクというリズム。
それは一般人には耐え難い騒音かもしれないが、ヴィクターにとっては自らの血流が正常であることを確認するための、安らかな鼓動のようなものだった。
ヴィクターはシーツの摩擦音すら立てない優雅さで身を起こすと、窓枠に結露した水滴を見て独り言つ。
「……霧が濃いな。湿度は85パーセント、といったところか」
湿気は精密機械の天敵だ。今日は店内の空調を調整し、アンティーク・ウォッチの乾燥剤を入れ替える必要があるだろう。
彼はベッドを出て洗面台に向かう。
鏡に映るのは、まだ表情を作る前の、彫像のように冷ややかな自分の顔だ。
丁寧に髭を剃り、冷水で顔を洗う。そしてクローゼットから、襟の糊が効いた純白のシャツと、仕立ての良いチャコールグレーのベストを取り出す。
誰に見せるわけでもないが、ベストのボタンを下から順に留め、懐中時計の鎖を通すその所作は、儀式にも似た厳粛さがあった。
階段を降りて1階の店舗へ。
冷え切った空気が肌を刺す。古油と真鍮の匂いが混じり合う、彼にとっての聖域。
ヴィクターはまず、愛用のコーヒーミルのハンドルを握った。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
豆を挽く振動が手のひらに伝わる。彼は電動ミルを使わない。豆の粒度と摩擦熱を指先でコントロールできるのは、人間の手だけだと信じているからだ。
ケトルから細く湯を注ぎ、蒸らしの時間を数える。
部屋中に深煎りの香ばしい香りが漂い始めた頃――、通りの向こうから、威勢の良い女の声と、ガラガラというワゴンの車輪の音が近づいてきた。
「おはよう、陰気な時計屋さん! 今日も太陽を拝むつもりはないのかい?」
ドンドン、と店の扉が叩かれる。
まだ「CLOSED」の札を掲げているというのに、この街でただ一人、その札を無視する常連客だ。
ヴィクターはわずかに眉を寄せ、しかし溜息の中に少しだけの安らぎを混ぜて、扉の錠を外した。
カラン、コロン。
冷たい霧と共に飛び込んできたのは、湯気の立つ焼きたてのパンの匂いと、大柄で陽気な女性だった。
隣の通りでパン屋を営むマーサ。年齢は50代半ば、小麦粉で白くなったエプロンが彼女の正装だ。
「おはよう、マーサ。……まだ開店前だと言っているだろう。それに、私は陰気なのではなく、静寂を愛しているだけだ」
「はいはい、分かってるよ。あんたの言う“静寂”ってのは、あたしらが死んで棺桶に入ったあとのことさ」
マーサは豪快に笑うと、焼きたてのクロワッサンとバゲットが入った紙袋を、強引にカウンターへ置いた。
冷たい機械だらけの店内に、そこだけ有機的な温かさが生まれる。
「ほら、お家賃代わり。これ、新作のイチジク入りパンだよ。あんたみたいな偏屈男は、甘いもんでも食べて脳みそのシワを伸ばしな」
「……ありがとう。私が君の店の業務用オーブンのタイマーを直してやった、その修理代だが、もう3年も前のことじゃないか」
ヴィクターは苦笑しながら、挽きたてのコーヒーを二つのカップに注いだ。一つは自分に、もう一つは彼女に。
マーサは遠慮なくそれを受け取ると、ふうふうと息を吹きかける。
ミスト・ヘイヴンには珍しい、穏やかな朝のひととき。
しかし、マーサは一口コーヒーを啜ると、急に声を潜めて、眉をハの字に下げた。
「ねえ、ヴィクター。あんた、聞いたかい? 街外れの『聖ミカエル孤児院』のこと」
「いや。……孤児院がどうかしたのか?」
ヴィクターは、パンの紙袋を開けようとした手を止めた。
孤児院。
その単語だけで、彼の中の何かがざわりと泡立つ。彼自身の出自、名もなき浮浪児だった過去の記憶が、古傷のように疼くのだ。
「立ち退きだよ。地上げってやつさ。今度の新しい土地のオーナーが、あそこを潰してデパートを建てるんだって。……来月までに出て行けって言われたらしいよ」
「……期限付きの立ち退き、か。だが教会が運営しているんだろう? 神の家に土足で踏み込むような真似が通るのか?」
「それがねえ、新しい持ち主ってのが、あの“ユニオン銀行”の頭取、マクファーソン様なんだとさ。ほら、金回りのいいあのキザな男だよ。表向きは合法的な買収らしいけど……子供たちやシスターはどうなるんだか」
マーサは悲しそうに首を振り、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「世知辛いねえ。神様ってのは、時々ひどく意地悪なシナリオを書くもんだよ。……じゃ、あたしは店に戻るから。ちゃんと食べなよ!」
嵐のように現れ、嵐のように去っていくマーサ。
カラン、コロン……とドアベルが残響を奏でる中、ヴィクターは一人残された。
彼は湯気の立つコーヒーカップを見つめ、低く呟く。
「……意地悪なシナリオを書くのは神ではない。いつだって、欲に狂った人間だ」
マクファーソン。
その名はヴィクターも知っている。ユニオン銀行の若き頭取。
正確無比な業務遂行と、氷のような冷徹さで知られるエリート。奇妙なことに、彼は時計コレクターとしても有名であり、過去に一度だけ、ヴィクターも彼の屋敷に呼ばれてコレクションをメンテナンスしたことがあった。
確かに彼は優秀だった。1分の遅刻も、1セントの計算ミスも許さない完璧主義者。
(だが、その完璧さはどこに向かっている?)
ヴィクターは焼きたてのクロワッサンを手に取った。
バターの甘い香り。もし孤児院が潰されれば、そこに住む子供たちはかつての自分のように、雨と霧に濡れた路地裏で泥水を啜ることになる。
その時。
店の外の霧の中から、遠慮がちな、それでいて切迫した足音が聞こえてきた。
濡れた石畳を踏む音。躊躇いながらドアの前で止まり、意を決してノブを回す音。
午前8時。開店の時間だ。
カラン、コロン。
扉が開く。そこに立っていたのは、雨に濡れた黒い修道服を纏った、まだあどけなさの残る若いシスターだった。
その腕には、重そうなブリキの缶が大事そうに抱えられている。
「いらっしゃい。……時計の修理かな? それとも」
ヴィクターは知っていた。物語が動き出す予感と共に、静かに告げた。




