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時計屋ヴィクターの“修理”報告書 ~ミスト・ヘイヴンの時計師~  作者: ニート主夫


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第38話 審判の塔と崩れる砂時計 ~錆びついた朝と修復の刻~

 ミスト・ヘイヴン、地上500メートル。

 東の空が白み始め、分厚い雲海を割って、蒼白い朝光が展望台へと射し込んでいた。


 壊滅した制御室。

 床にはガラス片と、かつてこの街の英雄だった男――レッドモンド本部長が無様に転がっている。彼はまだ意識こそあったが、自分の築き上げた野望バベルが崩壊したショックで、虚ろな目を天井に向けたまま動かなくなっていた。


「……綺麗な朝ね」


 セレナが呟いた。

 彼女は見えない目で、窓の外に広がる光景を感じ取っているようだった。

 風の音。鳥のさえずり。そして、眼下に広がる街から聞こえてくる、日常の始発列車の音。

 システムによる管理も、監視もない。ただの雑多で、汚くて、愛おしい街の音が戻ってきていた。


「ああ。……だが、少し眩しすぎるな」


 ヴィクターは、動かない右腕をかばいながら、壁にもたれかかって座り込んでいた。

 出血多量。全身打撲。

 意識があるのが不思議なほどの満身創痍だ。


「……手は?」


 セレナがしゃがみ込み、彼の右手に触れた。冷たい。神経が切断されているかのような無反応さだ。

「さあな。……ネジが数本飛んだかもしれん。しばらくは、箸を持つのも苦労しそうだ」


 ヴィクターは自嘲気味に笑った。

 時計師にとって、指先は命だ。それが動かないということは、死刑宣告にも等しい。

 だが、彼の顔に悲壮感はなかった。

 代償に見合うだけの仕事は果たしたという、職人としての達成感があったからだ。


 遠くから、ヘリコプターのローター音が聞こえてきた。

 警察航空隊と、軍の介入部隊だ。

 レッドモンドの失脚を知り、事態を収拾(隠蔽)するために動き出したハイエナたち。


「……時間ね」


 セレナが立ち上がった。

 彼女は懐から手錠を取り出し、レッドモンドの手首にかけた。


「彼は私が逮捕する。……“組織の汚職を暴くために潜入捜査をしていた”ということにしておくわ」


「無理があるな。君は指名手配中だぞ」


「あら、そうだったかしら? レッドモンドが発狂して出した誤報ってことになれば、私の経歴は真っ白よ」


 セレナはふてぶてしく言い放ち、ヴィクターの方を向いた。

(サングラスは割れて失くなっているが、その瞳は彼を直視していた)


「あなたは行きなさい、時計屋さん。……ここは表の正義が裁く場所よ。影は、影らしく消えるのがお似合いだわ」


 それは、彼女なりの最大の感謝と、逃走の幇助ほうじょだった。


「……忠告に従おう」


 ヴィクターは左手で床を突き、よろめきながら立ち上がった。

 業務用エレベーターは破壊されている。非常階段を使って500メートルを降りなければならない。

 地獄の行軍だ。


「おい、相棒」


 去り際、ヴィクターは足を止めた。


「君のその懐中時計。……そろそろオイルが切れる頃だ。次に来店した時は、サービスで注しておこう」


 セレナは胸に手を当て、少しだけ驚いた顔をし、そして花が咲くように笑った。


「……ええ。お願いするわ、頑固な修理屋さん」


 二人は背を向けた。

 一人は、地に堕ちた権力者を光の下へ引きずり出すために。

 一人は、誰にも知られることなく、闇の奥の日常へと帰るために。


 翌朝、古時計店『失われた時間(ロスト・タイム)


 店内に、ラジオの臨時ニュースが流れている。


『――レッドモンド本部長の逮捕により、市警内部の腐敗が一掃されました。大規模開発計画“ネオ・バベル”は凍結。帝國との癒着に関与した議員たちも次々と……』


 カウンターの中。

 ヴィクターは、包帯でぐるぐる巻きに固定された右手を吊り下げたまま、左手だけで不器用にコーヒーを淹れようとしていた。

 カチャ、カチャ。

 慣れない片手作業。豆がこぼれ、カップが鳴る。


「……非効率だ」


 彼が眉を寄せて舌打ちした時、横からサッと手が伸びてポットを取り上げた。

 レオだ。


「貸してよ、ヴィクター。あんたがやると見ててハラハラする」


 レオは手際よく湯を注ぎ、完璧なタイミングでカップを差し出した。

 香り立つ湯気。


「……腕上げたな」

「だろ? 留守番の間に練習したんだ」


 レオは鼻をこすり、少し心配そうにヴィクターの右手を見た。


「その手……治るのか?」


「医者は“神経が繋がるか五分五分だ”と言っていたがね」


 ヴィクターは、動かない右手の指先を見つめた。

 だが、彼の目に絶望の色はない。


「人間の医者には無理でも、私なら治せるさ。……少しばかり、自分自身の体に“改造チューンナップ”を施す必要があるがな」


 彼は引き出しを足で開け、一枚の設計図を取り出した。

 そこには、失われた神経を微細なワイヤーと歯車で補完する、義手のような“機械式外骨格”のラフスケッチが描かれている。


「転んでもただでは起きない。……次はもっと、精密な仕事ができるようになるさ」


 カラン、コロン。


 強風でドアベルが揺れた。

 客ではない。ただの風だ。

 だが、その風はもう、以前のようなカビ臭さも、毒の匂いもしない。

 潮の香りと、オイルの香りが混じった、懐かしいミスト・ヘイヴンの風だった。


「さて……開店だ、レオ」


 ヴィクターは左手でカップを持ち上げ、まだ見ぬ次の事件(依頼人)に向けて、静かに乾杯をした。


 バベルの塔は沈黙した。

 だが、この街の霧が完全に晴れることはない。

 霧の奥で歯車が回り続ける限り、時計師と刑事の物語は終わらないのだ。


 いつかまた、秒針が重なるその時まで――。


(シーズン1 完)

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