第37話 審判の塔と崩れる砂時計 ~王の喉元~
ターンッ!!
乾いた銃声が、暴風の轟音を一瞬だけ切り裂いた。
セレナが放った最後の弾丸は、奇跡的な弾道を描き、頭上の暗闇にぶら下がっていた巨大なカリヨンのメインワイヤー――その一点、錆び付いた留め金を正確に貫いた。
ブツンッ。
悲鳴のような金属音が響き、鋼鉄のより糸が弾け飛ぶ。
支えを失った数トンもの青銅の塊が、重力に惹かれて落下を開始した。
ズオォォォォ……!!
落下音は風圧そのものだった。
鐘は、ヴィクターたちがへばりついている足場のすぐ脇を掠め、1階層下の鉄骨フロア――強化兵士たちがひしめくエリアの中央へ、神の鉄槌のごとく激突した。
――グワァァァァァァァン!!!!
音ではない。物理的な暴力だった。
青銅が鉄骨を打ち据えた瞬間に発生した衝撃波は、凄まじい低周波の振動となってタワー全体を揺さぶった。
それはまさに、世界の終わりを告げる断罪のゴング。
「耳を塞げッ!」
ヴィクターは、動かない右手の代わりに体ごとセレナに覆い被さり、彼女の耳を守った。
だが、その防御など紙切れのように吹き飛ばすほどの音圧が、二人を襲う。
内臓が踊り、骨がきしむ。
しかし、その轟音が“致命的”な効果をもたらしたのは、人間ではなく機械の方だった。
「ガ、ガガ、ガ……!?」
迫りくる強化兵士たちの動きが、一斉に停止した。
ヴィクターの計算通りだ。
巨大な鐘の共鳴音が、彼らの着ているパワードスーツのジャイロセンサー(平衡感覚装置)と、聴覚制御チップを破壊的な共振で焼き切ったのだ。
“掃除屋”たちは、まるで糸の切れた操り人形のように手足を痙攣させ、バランスを失い、次々と鉄骨の縁から滑り落ちていく。
「な、なんだ!? 僕の兵隊たちが!」
薬剤師が悲鳴を上げる。
彼もまた、強烈な振動で立っていられず、手すりにしがみついていた。
その隙を、ヴィクターは見逃さなかった。
「……チェックメイトだ、藪医者」
ヴィクターは、感覚のない右腕をダラリと下げたまま、左手の腕時計を構えた。
残弾ワイヤーは、あと1本。
シュッ!
射出された鋼鉄の糸が、薬剤師の足首ではなく、彼がしがみついている手すりのボルトに絡みついた。
そしてヴィクターは、ワイヤーを巻き取るのではなく、自分の体を及点にして外側へと飛んだ。
ガキンッ!
すでに衝撃波で脆くなっていた手すりが、ヴィクターの体重と遠心力で引きちぎられる。
支えを失った薬剤師の体が、宙に投げ出された。
「う、わああああ……!?」
薬剤師は虚空を掻いた。
彼の手から、数本の毒針がこぼれ落ち、風に舞う。
落下する彼の視線の先で、ヴィクターは鉄骨の梁に片手一本でぶら下がり、冷酷な死神の目で見下ろしていた。
「地獄で兄に詫びておけ。……君たちの薬は、ここでは効かないとな」
薬剤師の叫び声は、夜の闇と強風にかき消され、深い霧の底へと吸い込まれていった。
轟音が去り、耳鳴りだけが残る鉄骨の上。
ヴィクターは這い上がり、倒れているセレナに駆け寄った。
「……セレナ! 息はあるか!」
彼女の肩は、毒針によって変色し、顔面は蒼白だった。
だが、ヴィクターの声に反応し、薄く目を開ける。見えない瞳が、ぼんやりと虚空を彷徨う。
「……うるさい、目覚まし時計ね」
彼女は痛みに耐えて微かに笑った。
「鼓膜が破れるかと思ったわ。……でも、聞こえる。敵の気配が……消えた」
セレナは、自分の肩に刺さったままの毒針を、ためらいもなく引き抜いた。
鮮血が飛ぶ。
「毒が回る前に……行くわよ。この上でしょう? 本丸は」
彼女の精神力は、肉体の限界を超越していた。
ヴィクターは、動かない右手をコートのポケットに突っ込んで固定し、左手を差し出した。
「ああ。……ここからはエスコート無しだ。君の足で登ってもらうぞ」
「上等よ。……あなたの右手が治るまで、私が引き金を引くわ」
満身創痍の二人は、再び立ち上がった。
タワーの最上階。地上500メートルの展望台。
そこに、全ての元凶が待っている。
非常階段を登りきり、彼らは最後の扉を蹴り破った。
そこは、別世界だった。
吹き荒れる風雨から隔絶された、静謐なガラス張りの空間。
床は大理石、天井にはシャンデリア。
まるで空に浮かぶ宮殿のようなその場所の中央に、巨大な制御卓と、それに背を向けて立つ一人の男がいた。
警察本部長、レッドモンド。
彼は窓ガラスの向こう、眼下に広がるミスト・ヘイヴンの夜景を、ワイングラスを傾けながら見下ろしていた。
「……遅かったな」
レッドモンドは振り返りもしない。
「君たちのせいで、私の可愛い兵隊たちが全滅だ。予定していた“粛清のパレード”が中止になってしまったよ」
その口調には、怒りよりも、子供が積み木を崩された時のような無邪気な残念さが滲んでいた。
「パレードは終わりだ、本部長」
ヴィクターが低く告げる。
「貴方の退任式なら、今から我々が執り行ってやろう」
「退任式? ……ハハハ、違うな」
レッドモンドはゆっくりと振り返った。
その手には黄金の銃が握られている。そして彼の背後、制御卓の巨大なモニターには、都市全域の地図と、無数の赤い点滅が表示されていた。
「これは“戴冠式”だよ」
彼がスイッチを押すと、モニターの赤い点が移動を開始した。
それは地下鉄網、水道、ガス、電気……この街のすべてのライフラインを示す光だった。
「ネオ・バベル・システム。……このタワーからの信号一つで、私は街中のインフラを掌握できる。電気を止め、水を止め、地下鉄を衝突させ、ガス管を爆破することも思いのままだ」
レッドモンドは恍惚とした表情で両手を広げた。
「警察という小さな箱庭はもう要らない。私はこの街の王になるのだ。……逆らう者は飢え、凍え、闇の中で死ぬ。それが新しい秩序だ」
「……狂ってるわ」
セレナが銃口を向ける。だが、撃てない。
レッドモンドの前に防弾ガラスのシールドがせり上がっていたからだ。
「狂っている? これが効率だよ、ヴァレンタイン君。……さて、式典の余興に、まずは下町のスラム街でも吹き飛ばしてみようか」
レッドモンドの指が、操作盤の“ガス圧全開放”のキーにかかる。
(……届かない)
ヴィクターは距離を測った。
10メートル。ワイヤーは届くが、防弾ガラスにはじかれる。
破壊音波のカフスボタンは、右手が動かないため操作できない。
セレナの銃も通用しない。
詰みか。
いや、盤面をひっくり返す手はあるはずだ。
ヴィクターは、部屋の構造をスキャンした。
完全なる密室。唯一の外部との接点は、頭上の……巨大なアンテナと繋がる太いケーブル。
(電気仕掛けの神様か。……なら、電源を抜けばいい)
だが、どうやって?
ケーブルは天井の中だ。
その時。
セレナが不意に、ヴィクターの足を踏んだ。
わざとだ。
ヴィクターが横目で見ると、彼女は見えない目で、部屋の隅にある「何か」を見つめていた。
そこには、建設資材として放置されていた、一本の長い鉄骨の杭があった。
(……なるほど。相変わらず乱暴な指揮者だ)
彼女の意図を瞬時に理解したヴィクターは、合図の代わりに足を踏み返した。
「さようなら、ネズミ諸君」
レッドモンドがエンターキーを押そうとした、その瞬間。
「今よ、ヴィクター!」
セレナが叫びながら、床の鉄骨杭に向かってスライディングした。
彼女は杭を蹴り上げたのではない。杭の下にセットされていた、空気圧式のジャッキのペダルを撃ち抜いたのだ。
プシューッ! ドォォォォォン!!
暴発したジャッキが、鉄骨杭を砲弾のように跳ね飛ばした。
杭は放物線を描き、防弾ガラスの上を超え――天井を貫通して、主要ケーブルを引きちぎった。
バチバチバチッ!!
凄まじい火花が散り、部屋の照明が一斉に落ちた。
モニターの映像が消え、制御卓が沈黙する。
ブラックアウト。
「な、なんだ!? システムが!?」
暗闇の中で、レッドモンドが狼狽する声。
王の目は、闇に慣れていない。
だが、ここにいる二人は違う。闇こそが彼らの庭だ。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が近づく。
レッドモンドがデタラメに銃を撃つ。
バン! バン!
火花が闇を照らす一瞬、彼の目の前に、白い瞳を見開いたセレナが立っていた。
「見えないの? ……これが“新しい秩序”よ」
ドガッ!
セレナの拳が、レッドモンドの顔面に深々とめり込んだ。
鼻が折れ、歯が飛び、王様は無様に吹っ飛んで制御卓に叩きつけられた。
「あ、が……、貴様ら……!」
レッドモンドは這いずりながら、隠し持っていたナイフに手を伸ばそうとする。
だが、その手首を、上から革靴が踏みつけた。
グリッ。
「おとなしく寝ていろ」
ヴィクターだ。
彼は動かない右手の代わりに、左手でレッドモンドの襟首を掴み上げた。
「私の街のインフラを弄り回した罪は重い。……ガス代、電気代、そして迷惑料。たっぷりと支払ってもらうぞ」
窓の外、夜明けの光が射し込んでくる。
タワーの影が街に長く伸びていた。
ミスト・ヘイヴン最大の悪夢“ネオ・バベル”は、その頂点で、たった二人の反逆者によって崩壊したのだ。




