第36話 審判の塔と崩れる砂時計 ~風の中の処刑台~
「……久しぶりだな。顔色が悪いぞ」
ヴィクターは、闇の中から現れたセレナに、いつもの調子で声をかけた。
だが、その声色には微かな安堵が滲んでいる。
セレナのドレスは破れ、肩からは血が滲み、呼吸は乱れていたが、その瞳に宿る闘志だけは、どんな照明よりも明るく輝いていたからだ。
「ええ。……上司に辞表を叩きつけてきたところよ。おかげで街中が私の敵だわ」
彼女は追手のサイレンが響く方向を一瞥し、ふてぶてしく笑った。
「乗れる?」
ヴィクターが顎で示した先には、業務用エレベーターのケージがあった。
工事用の剥き出しの箱だ。風雨に晒され、錆びたワイヤーが心もとなく揺れている。
「選択肢は?」
「ない。……階段を使うには、この塔は高すぎる」
二人はケージに乗り込んだ。
ヴィクターが制御盤をショートさせ、強制的に起動回路を繋ぐ。
ガガガガッ!
激しい振動と共に、鉄の箱が上昇を始めた。
眼下に、ミスト・ヘイヴンの夜景が遠ざかっていく。
ガス灯のオレンジ色の光、ネオンサイン、そして這い回るパトカーの赤色灯。
それら全てが、霧の海へと沈んでいく。
地上200メートル。
風圧が強まる。吹きさらしのエレベーター内では、会話すら怒鳴らなければ聞こえない。
「レッドモンド本部長だ」
セレナが風に髪を煽られながら言った。
「奴が黒幕。帝國と結託して、この街を巨大な軍事工場に変えるつもりよ。このタワーは、世界中に指令を送るための送信アンテナ……いわば“独裁者の指揮棒”だわ」
「……悪趣味な指揮棒だ」
ヴィクターは上を見上げた。
闇の中に、タワーの上層部が怪物の背骨のようにそびえている。
「へし折ってやろう。物理的に、再起不能なほどにな」
その時。
エレベーターの上方から、異質な駆動音が近づいてきた。
ブウウゥゥ……ン。
それは風の音ではない。プロペラの回転音だ。それも一つや二つではない。群れを成している。
「ヴィクター、上よ! 何かが来る!」
セレナが白杖代わりの拳銃を構える。
闇を裂いて現れたのは、帝國製の自律型戦闘ドローンだった。
直径1メートルほどの円盤型。下部には回転式の機銃と、探照灯が搭載されている。
その数、5機。
「“空飛ぶ目玉”か。……ハエ叩きが必要だな」
カッ!
サーチライトが一斉に二人を捉えた。
同時に、機銃掃射が始まる。
ダダダダダッ!
エレベーターの床板に穴が開き、火花が散る。
「伏せろ!」
二人は床にへばりつく。隠れる場所などない。金網越しの射撃に、完全に晒されている。
「プロペラ音が多すぎて、位置が特定できない!」
セレナが叫ぶ。彼女の超聴覚も、爆音の中では精度が落ちる。
ヴィクターは舌打ちをし、左手の腕時計を構えた。
「私がリズムを作る! それに合わせろ!」
彼は身を乗り出し、最も近くのドローンにワイヤーを射出した。
ガチン!
先端のフックがドローンの機体に食い込む。
「堕ちろ!」
ヴィクターが渾身の力でワイヤーを引く。
バランスを崩したドローンが回転し、隣の機体に激突した。
ガシャァァン!
2機が炎を上げて墜落していく。
「あと3機! 右舷、2時、10時!」
爆発音で位置関係を把握したセレナが、即座にトリガーを引く。
バン! バン!
一発必中。2時の方向のドローンのカメラアイが弾け飛び、火を噴いて螺旋落下を始める。
だが、残る2機が、執拗に食い下がってきた。
彼らはエレベーターのワイヤーを狙い始めたのだ。
キィィン……バチン!
メインワイヤーの一本が切断される。
エレベーターが大きく傾き、悲鳴を上げた。
「くそっ、このままじゃ落ちるわ!」
「捕まっていろ! ……荒療治と行くぞ!」
ヴィクターは鞄から、一つの筒を取り出した。
建設用のリベット打ち機を改造した、即席のアンカーガンだ。
彼はそれを、タワー本体の鉄骨に向けた。
「飛ぶぞ、セレナ!」
ドォォン!
アンカーが打ち込まれ、太いロープが張られる。
ヴィクターはセレナの腰を抱き、落下を始めたエレベーターから虚空へと飛び移った。
背後で、エレベーターが奈落へと落ちていく轟音。
二人は、強風が吹き荒れる地上300メートルの鉄骨の上、一本のロープにぶら下がっていた。
「……寿命が縮んだわ」
鉄骨の足場によじ登ったセレナが、乱れた髪を直しながら息を吐く。
下を見れば、車のライトが星屑のように小さく見える。
ここは人間の領域ではない。風と鉄だけの世界だ。
「上出来だ。……だが、歓迎パーティーはまだ終わっていないらしい」
ヴィクターが前方を睨む。
建設中のフロア、むき出しの鉄骨の迷路。
その影から、ゆらりと人影が現れた。一人ではない。十数人。
彼らは全身を灰色の強化外骨格で覆い、手には削岩機やチェーンソーを改造した、無骨な近接武器を持っていた。
“掃除屋”部隊。
帝國の薬物で痛覚を消され、機械の力で怪力を得た、動く死人兵士たちだ。
「オオオォォ……」
獣のような唸り声を上げて、彼らが迫ってくる。
足場は狭い。逃げ場はない。
「私が道を切り開く。君は援護を頼む」
ヴィクターは、右手のカフスボタンに触れた。
“共鳴破壊子”。これを使えば、彼らのスーツの駆動系を狂わせることができる。
だが、彼がスイッチを押そうとした瞬間――
ヒュッ。
風を切り裂く音がして、銀色の閃光が走った。
「うぐッ!?」
ヴィクターの手首に、何かが突き刺さった。
激痛。
彼の手から力が抜け、身体が硬直する。
刺さっていたのは、極細の“麻痺針”だった。
「ヴィクター!?」
セレナが叫ぶ。
影の中から、新たな男が音もなく現れた。
白衣を着た長身の男――先日倒したはずの“葬儀屋”……によく似ているが、もっと若く、そして冷酷な目をした男。
「兄さんが世話になったね。……私は“薬剤師”。兄よりも少し、手先が器用なんだ」
弟だ。
組織の幹部は一人ではなかったのだ。
薬剤師は、指の間に数本の針を挟み、冷ややかに笑った。
「その針には、象をも即死させる神経毒が塗ってある。……動けば、心臓が止まるよ」
ヴィクターは膝をついた。
視界が霞む。指先が痺れて動かない。
商売道具である精密な右手が、言うことを聞かない。
(……まずいな)
迫りくる強化兵士たち。
ヴィクターを守るように前に立つセレナだが、彼女の銃の弾丸は残りわずか。
しかも、狭い足場では、彼女の“耳”による索敵も、暴風音にかき消されてしまう。
絶体絶命。
二人は、空中の処刑台で完全に包囲された。
「やらせないわ」
セレナは白杖を捨て、両手で拳銃を構えた。
ヴィクターが動けないなら、自分が彼の目となり手となるしかない。
「諦めが悪いね。……まあいい。君の美しい死に顔を、標本にしてあげるよ」
薬剤師が合図を送る。
強化兵士たちが、一斉に襲いかかってきた。
チェーンソーの轟音が鳴り響く。
「撃て、セレナ!」
ヴィクターが声を絞り出す。
セレナは引き金を引く。
バン! バン!
正確な射撃。兵士のゴーグルを撃ち抜き、あるいは膝関節を破壊する。
だが、倒しても倒しても、彼らは痛みを知らずに立ち上がり、にじり寄ってくる。
まるで悪夢だ。
カチッ。
乾いた音がした。弾切れだ。
「終わりだね」
薬剤師が針を投げる構えを見せた。
標的は、動けないヴィクターの喉仏。
「!!」
セレナが、ヴィクターを庇うように飛び出した。
針が彼女の肩に深々と突き刺さる。
「くっ……あぁ……」
彼女が崩れ落ちる。
二人は折り重なるように倒れ、鉄骨の端に追い詰められた。
下は300メートルの奈落。前は処刑人たち。
(……私の、負けか)
ヴィクターの意識が遠のきかける。
指一本動かせない。セレナも意識を失いかけている。
その時。
ヴィクターの薄れゆく聴覚が、ある“音”を捉えた。
この絶望的な状況下で、彼らがいるこの鉄骨の真上――建設中の最上階から響いてくる、重く、腹に響くリズム。
ゴーン……、ゴーン……。
巨大な鐘の音。
このタワーに設置される予定の、世界最大級のカリヨンが、強風に煽られて偶然にも鳴り始めたのだ。
その音は、ただの鐘の音ではなかった。
特定の音程。
“ソ”と“ド”の和音。
(……この周波数は)
ヴィクターの職人としての脳が、瞬時に解を導き出した。
これは、あのカフスボタンが生成する破壊音波と、同じ共振係数を持っている。
まだ、手はある。
彼自身の武器は使えなくても、このタワーそのものを“巨大な共鳴兵器”に変えることができれば。
「……セレナ。起きろ」
彼は痺れる唇で、彼女の耳元に囁いた。
「君の弾丸は、あと何発だ?」
「……一発……だけ。……隠し持っていた、予備弾が……」
「十分だ」
ヴィクターは、上空の一点を示した。
巨大な鐘を吊るしている、極太のワイヤー。その留め金部分。
「あの鐘を、落とせ」
「え……?」
「私の計算が正しければ……あの鐘が落下した時の衝撃音は、このエリア全ての強化兵士のスーツの電子回路を焼き切るEMPと同じ効果を生む」
それはイチかバチかの賭け。
自分たちの鼓膜も破れるかもしれない。
だが、座して死ぬよりはマシだ。
「……信じるわ。あなたの設計図を」
セレナは最後の力を振り絞り、銃を上空へ向けた。
風の音。鐘の揺れる周期。
ターンッ!!
最後の一発が放たれた。




