第35話 審判の塔と崩れる砂時計 ~終わりの始まりを告げる鐘~
第3埠頭。
その塔は、ミスト・ヘイヴンの心臓に突き刺さった、巨大な“墓標”のように見えた。
再開発地区の中央に、高さ500メートルの鋼鉄の塔――通称『バベル・タワー』。
表向きは新型の通信電波塔だが、その黒々とした威容は、市民を見下ろす監視者の眼差しそのものだ。
午後6時。
街中が夕闇に沈む頃、タワーの頂上部に設置された航空障害灯が、赤く、ゆっくりと明滅を始めた。
ドクン、ドクン。
まるで、巨大な怪物が目覚めの鼓動を始めたかのように。
古時計店『失われた時間』。
ヴィクターは、店の表戸に鍵をかけ、その上に『CLOSEDFOREVER』という札をかけるかどうか、一瞬だけ迷い――そして、ただの『CLOSED』の札をかけた。
(……帰ってくるつもりはある、ということか。私も焼きが回ったな)
彼は自嘲し、店内へ戻った。
カウンターには、いつものコーヒーの香りが漂っているが、そこに座る主の装備は、いつもの修理屋のものではない。
防刃素材を織り込んだ漆黒のロングコート。
腰には、腕時計から射出する予備のワイヤーカートリッジ。
そして懐には、この街の地下から回収した全ての“罪”を精算するための、数種類の破壊工作具。
「ヴィクター……」
レオが、店の奥から不安そうな顔で覗き込んでいた。
勘の鋭い少年は、今日のヴィクターが纏っている空気が、帝國の列車の時とは比較にならないほど“冷たく、重い”ことに気づいている。
「レオ。戸締まりを頼む」
ヴィクターは振り返らずに言った。
「今夜は風が強くなる。……窓を目張りし、毛布を被って、ラジオの音量を上げておけ」
「また、どっか行くのかよ。……あの塔か?」
レオが窓の外、街のどこからでも見える巨大なタワーを指差す。
「ああ。あそこの大時計のネジが、少し緩んでいるようでね」
「嘘だろ。あそこには時計なんてないぜ。ただの鉄の塊じゃないか」
「……心のない機械は、すべて修理の対象だ」
ヴィクターはレオの頭にポンと手を置き、クシャクシャと撫でた。
それは、彼が見せた初めての、明確な“愛情”の表現だった。
「留守を頼む。……最高の職人は、必ず現場から戻ってくるものだ」
彼はそれ以上何も言わず、夜の街へと消えた。
レオは、店主の掌の温もりが残る頭を押さえながら、その背中が闇に溶けるまで動けなかった。
同刻、ミスト・ヘイヴン市警・本部長室
重厚な執務机の向こうで、一人の初老の男が、窓ガラスに映るタワーの赤色灯を見つめていた。
警察本部長、レッドモンド。
白髪の紳士であり、街の治安を守る英雄として市民から慕われる男。
だが、今の彼の瞳には、慈愛ではなく、爬虫類のような冷酷な光が宿っていた。
「……予定通りだ。今夜0時、システムを起動する」
彼は受話器に向かって低く囁いた。
『支障はありませんか、本部長』
電話の向こうから、機械で加工された声が応答する。
「問題ない。……ネズミが2匹ほど嗅ぎ回っているが、既に手は打った。この街は今夜から、犯罪も、悲しみも、非効率も存在しない“完全なる秩序”へと生まれ変わる」
レッドモンドは受話器を置き、机の引き出しから一丁の拳銃を取り出した。
黄金の装飾が施された、儀礼用の銃。だが、その弾倉には実弾が装填されている。
バンッ!!
突然、本部長室のドアが開かれた。
入ってきたのは、肩で息をするセレナ・ヴァレンタイン刑事だ。
彼女の手に令状はない。あるのは、抜き身の怒りと、白杖だけだ。
「……ノックもなしか、ヴァレンタイン君」
レッドモンドは、眉一つ動かさずに微笑んだ。
「礼儀作法はドブに捨ててきました。……レッドモンド本部長」
セレナは見えない目で、部屋の空気を睨みつける。
「ガリヴァー・ヴァーンの死体検案書、葬儀屋の押収資料、そして帝國の列車事故の報告書……。全てあなたの印鑑で揉み消されていますね」
「それがどうした? 治安維持のための政治的判断だよ」
「いいえ。……“匂う”のよ」
セレナは一歩踏み出した。
「あなたのインクからは、腐った血の匂いがする。……あなたね? ネオ・バベルの頂点に座っているのは」
決定的な糾弾。
だが、レッドモンドは動じるどころか、声を上げて笑った。
「ハハハ……! 素晴らしい。君の耳は本当に優秀だ。帝國が欲しがるのがよく分かる」
彼が指を鳴らす。
ジャキン!
部屋の四隅のカーテン裏から、武装した特殊部隊が現れ、一斉にセレナに銃口を向けた。
彼らは警察ではない。レッドモンド直属の私兵だ。
「残念だよ、セレナ。君には私の“新しい世界”の管理官になって欲しかったのだがね」
レッドモンドは立ち上がり、黄金の銃を彼女に向けた。
「全隊に通達! セレナ・ヴァレンタイン刑事は発狂し、本部長室を襲撃! ……射殺せよ!」
「……ッ!」
トリガーが引かれる直前、彼女はポケットから閃光弾を取り出し、床に叩きつけた。
カッ!
強烈な閃光が部屋を包む。
彼女は窓ガラスを椅子で突き破り、3階の高さから闇夜へと飛び出した。
「追え! 死体にするまで帰ってくるな!」
レッドモンドの怒号を背に、セレナは着地の衝撃を殺し、雨上がりのアスファルトを駆ける。
帰る場所はない。組織は敵に回った。
同刻、バベル・タワー直下、封鎖エリア
タワーの周囲半径2キロは、高いフェンスと有刺鉄線で囲まれ、装甲車とサーチライトによる厳重な警備が敷かれていた。
もはや工事現場ではない。要塞だ。
そのゲートの前に、一人の男が堂々と歩み寄ってきた。
ヴィクターだ。
雨避けのコートの襟を立て、その手には愛用の鞄。
「止まれ! ここから先は立ち入り禁止だ!」
警備兵が銃を向ける。
ヴィクターは歩みを止めず、ただ静かに懐中時計を取り出した。
「……今、午後7時ちょうどだ」
「は? 何の話だ!?」
「私の計算では、君たちのシフト交代の時間だ。……そして、このエリアの配電盤がオーバーヒートする時間でもある」
彼が時計の蓋を閉じた、その瞬間。
バヂィッ! ドォォン!
近くの変電施設が火花を散らし、エリア一帯の街灯とサーチライトが一斉に消えた。
ブラックアウト。
闇に包まれ、警備兵たちが狼狽する。
「な、なんだ!? 停電か!?」
「予備電源を回せ!」
その混乱の暗闇の中を、ヴィクターは音もなくゲートをすり抜けていく。
彼は何もしていない。
ただ、3日前にこの変電施設のメンテナンスハッチに、時限式の発火装置を仕掛けておいただけだ。
(すべては計算通り。……だが)
彼はタワーを見上げた。
500メートルの高さ。その頂上から放たれる禍々しい赤色の光。
そこには、ヴィクターの計算をも狂わせる“巨大な悪意”が待っている。
「……さて。お姫様のお出ましはまだかな」
彼はタワーの搬入エレベーターの前で立ち止まり、闇の向こうの気配を探った。
彼の背中を守れるのは、この街でただ一人。
追われる身となり、傷だらけになりながらも、決して折れない信念を持つ“盲目の共犯者”だけだ。
遠くから、パトカーのサイレンと、軽やかなヒールの音が近づいてくるのが聞こえた。
「……時間だけは正確だ」
ヴィクターは口元を緩め、迎撃の構えを取った。
最強のバディが再会し、最後の戦場へと昇る瞬間が迫っていた。




