第34話 死の秒針と白い葬列 ~白き悪夢のあとで~
「ようこそ、時計屋、そして……“盲目の魔女”」
地下プラントの司令室。
ガラス越しに見下ろしていた“葬儀屋”の声が、無機質な広場に甘く響き渡った。
彼の呼びかけに対し、セレナは不敵にサングラスの位置を直す。
「素敵なあだ名ね。……あなたへの弔辞を読むのに相応しい名前だわ」
「フフッ……威勢がいい。だが、私の葬儀にはまだ早いよ」
葬儀屋は、手に持っていた巨大な香炉の蓋を開放した。
ボワッ……!
ドス黒い紫色をした煙が、爆発的に噴き出した。
それはただのガスではない。比重が重く、まるで生き物のように地面を這い、二人の足元へと急速に浸食してくる。
「毒ガス?」
セレナが口元を覆う。
「違う。……もっと厄介なものだ」
ヴィクターは、装着していた呼吸濾過器のバルブを最大まで開放し、予備のフィルターをセレナに投げ渡した。
「装着しろ! これは強力な精神感応性の幻覚剤だ!」
紫の霧に包まれた瞬間、世界が歪んだ。
セレナはフィルターを口に当てたが、微量吸い込んだガスが、即座に脳幹を直撃する。
「う、ぁ……!?」
見えないはずの彼女の目に、光が走った。
だがそれは、視力の回復ではない。
脳が勝手に見せる悪夢だ。
6年前の炎。爆発。笑うラズロの顔。そして、自分が撃ち殺したはずの悪党たちが、腐ったゾンビとなって足元から這い上がってくる幻覚。
「いや……こないで……!」
セレナがパニックに陥り、虚空に向かって銃を構える。平衡感覚が狂い、立っていられない。
「素晴らしい悲鳴だ」
葬儀屋は、霧の中を優雅に歩いてきた。
彼もまた白いマスクをしているが、その動きには一切の迷いがない。この毒霧こそが、彼の庭だからだ。
「人は、もっとも恐れるものに殺されるのが幸せなのだよ。……君たちが見ているのは、君たち自身の罪悪感だ」
ヴィクターもまた、膝をつきかけていた。
彼の目の前には、「泣いている少女」や、かつて自分が手にかけたターゲットたちの亡霊が揺らめいている。
油断すれば、精神が食い破られる。
(……安っぽい幻術だ)
ヴィクターは奥歯を噛み締め、痛覚で意識を繋ぎ止めた。
懐中時計の秒針音を耳元で聞く。
チク、タク、チク、タク……。
変わらない現実のリズム。これだけが、幻覚の海における唯一の錨だ。
「私の“罪”は、幻覚ごときで償えるほど軽くはない」
彼は立ち上がり、霧の向こうにいる葬儀屋を睨みつけた。
「有機的な恐怖……結構だ。だが、私の機械仕掛けの理性には通用しない!」
葬儀屋は香炉を振りかざした。さらに濃い紫煙が二人を包み込む。
「……全身の毛穴から毒が染み込み、脳が溶けるのも時間の問題だ」
視界ゼロ。方向感覚ゼロ。
ここで銃を撃っても当たらないどころか、流れ弾で機材を壊し、誘爆を招くリスクがある。
(風だ……風が必要だ)
ヴィクターは朦朧とする意識の中で、周囲の環境音を分析した。
ゴオォォ……という低い唸り音。
地下プラントの天井付近にある、巨大な換気用ファン。
現在は「外気を取り込む」モードでゆっくり回っている。だからこそ、この重いガスが床に溜まっているのだ。
(あれを……逆回転させれば)
「排気」モードにし、フルパワーで回せば、この部屋は巨大な掃除機となり、ガスを一瞬で吸い上げる。
だが、制御盤は遥か遠く、葬儀屋の背後にある司令室の中だ。
「届かない……」
物理的には無理だ。
だが、ヴィクターには飛び道具がある。
彼は左腕の腕時計型射出機を構えた。狙いは司令室ではない。
頭上の天井を走る、高圧電流の太いケーブルだ。
「セレナ! 伏せて耳を塞げ! 少しだけ……雷が落ちるぞ!」
叫ぶと同時に、ヴィクターは竜頭を弾いた。
シュッ!
鋼鉄ワイヤーが射出され、天井のケーブルに巻き付く。
彼はそのワイヤーの端子を、手元の鉄柱――換気ファンのモーター制御ボックスに強引に突き刺した。
バヂチチチチッ!!
ショート。
数万ボルトの電流が、制御回路をバイパスしてモーターへ直撃する。
通常の操作ではない。過電流による強制暴走。
キュイィィィン……ドォォォォォ!!
頭上の巨大ファンが悲鳴を上げ、本来の限界を超えた速度で、しかも逆回転を始めた。
猛烈な上昇気流が発生する。
「な、なんだ!?」
葬儀屋の白衣が激しく煽られる。
床を這っていた紫色の毒霧が、竜巻のように渦を巻き、天井へと吸い上げられていく。
わずか数秒。
視界がクリアになり、新鮮な――少し埃っぽいが毒のない――空気が流れ込んできた。
「空気が……!」
セレナが咳き込みながら、大きく息を吸い込んだ。
肺に酸素が戻り、脳内の幻覚が霧散していく。
「馬鹿な……! 私の毒を、物理的な力技で!?」
葬儀屋が狼狽える。
その隙を、ヴィクターは見逃さなかった。
「科学は物理に弱い。……常識だよ」
毒の盾を失った葬儀屋は、ただの優男ではない。
彼は白衣の裾を翻し、隠し持っていた武器を取り出した。
それは、解体用の巨大なボーン・ソウだった。
刃渡り50センチ。電動で振動し、肉も骨もバターのように断つ凶悪な凶器。
「よくも……私の美しい庭を! 貴様の腕を切り落とし、ホルマリン漬けにしてやる!」
葬儀屋がヴィクターに向かって突進する。
意外なほどの速さ。そして、重量のある鋸を軽々と振り回す怪力。
ヴィクターはバックステップで躱すが、鋸の刃がかすり、コートの袖が裂けた。
(近接戦闘は、分が悪いか……!)
ヴィクターの武器はワイヤーと小さな工具だけ。リーチが違いすぎる。
追い詰められる。背後は壁だ。
「死ねぇッ!」
葬儀屋が上段から鋸を振り下ろす。
避けられない。
パアァァァンッ!!
乾いた銃声。
葬儀屋の手元、骨切り鋸のモーター部分が火花を吹いて弾け飛んだ。
「ぐっ!?」
葬儀屋がよろめき、壊れた鋸を取り落とす。
彼が驚愕の視線を向けた先。
毒霧から回復し、両手でしっかりと拳銃を構えたセレナが立っていた。
「……私の相棒に触るな!」
彼女はサングラスを捨てていた。
露わになった光のない瞳は、幻覚を見ていた時の怯えを捨て、今は静かな怒りと殺気だけを宿している。
「目が……見えないはずでは!?」
「見えなくても、あんたの出す下品な音は聞こえるのよ。……モーターの駆動音、荒い息遣い、そして安っぽい香水の匂い」
セレナは一歩踏み出した。
「あなたは音を消したつもりでしょうけど、私にはダンプカーが走ってるくらい煩い音よ」
武器を失った葬儀屋は、腰のナイフに手を伸ばそうとした。
だが、それより速くヴィクターが動いた。
彼のワイヤーが鞭のようにしなり、葬儀屋の足首に巻き付く。
「採寸の時間だ、葬儀屋」
ヴィクターがワイヤーを引き絞る。
葬儀屋が転倒する。
その体は、彼がまき散らした“幸福な死人”たちが倒れている場所――まだ凝固剤が乾ききっていない粘着質の床――へと放り込まれた。
「ぎゃっ!? 動け……! 粘ついて……!」
強力な接着効果を持つ薬剤に、真っ白なスーツが絡め取られる。
蝿取り紙にかかった蛾のように、動けば動くほど自由を奪われていく。
「君の好きな『美しい死体』にはなれそうもないな」
ヴィクターは彼を見下ろし、冷徹に告げた。
「そこはネズミ捕りだ。……警察が来るまでの間、自分が殺した人間たちがどんな気持ちだったか、じっくりと反省したまえ」
「くそっ、離せ! 我々は終わらない! ネオ・バベルは不滅だ! 世界は……!」
喚き散らす葬儀屋の口に、ヴィクターは床に落ちていた白百合の花を――葬儀屋が自分の演出のために持ってきた花を――乱暴にねじ込んだ。
「黙祷。……死者への礼儀だ」
静寂が戻った。
巨大な換気ファンが唸りを上げ、最後の毒霧を吸い出していく。
地下プラントの冷たい照明の下、寄り添うように立つ二人の影だけが、長く伸びていた。
午前5時。
地下プラントから地上へと続くマンホールの蓋が、重々しい音を立てて開いた。
這い出してきたのは、煤と薬品の粉にまみれた二人の男女。
地下の湿気と腐敗臭に慣らされていた肺に、外気の冷たくも清涼な朝霧が突き刺さる。
二人は石畳の上に座り込み、しばらくの間、無言で肩で息をしていた。
「……終わったわね」
セレナが乱れた髪をかき上げ、深く息を吐き出した。
肺の奥に残っていた幻覚剤の残り香が、朝霧と共に浄化されていく。
「いや。……掃除はこれからだ」
ヴィクターは立ち上がり、コートの埃を払った。
彼の視線は、遠くから近づいてくるパトカーの回転灯に向けられている。
警察が来る。地下で拘束した“葬儀屋”と“幸福な死人たち”を引き渡す手はずは整えてあるが、ヴィクター自身がそこに残るわけにはいかない。
「行って、時計屋さん。……ここは私の職場よ」
セレナもまた、揺らめく赤色灯の音を聞きながら言った。
彼女は今回もまた、犯人を逮捕するという“表の正義”を全うし、ヴィクターは影からそれを支える“裏の裁定者”として消える。二人の間には、言葉にしなくても成立していた。
「忠告しておく、刑事さん」
ヴィクターは去り際に、一言だけ残した。
「あの“葬儀屋”は、ネオ・バベルという組織の幹部に過ぎない。……根はもっと深く、この街の礎石にまで食い込んでいるぞ」
「分かっているわ。……次に会う時は、もっと大きな棺桶が必要になるかもね」
「その時は、極上の寸法を測ってあげよう」
ヴィクターは足音もなく霧の中へ溶け込み、セレナはその背中が見えなくなるまで、サングラスを外して見送っていた。
【翌日、古時計店『失われた時間』】
平和な午後。
ヴィクターは、カウンターの上で昨夜の“戦利品”を検分していた。
それは、葬儀屋が地下室で栽培していた白カビのサンプルと、彼が持っていた手帳の切れ端だ。
『ネオ・バベル計画、最終フェーズへ移行。……“バベルの塔”の建設予定地:第3埠頭』
メモに残された殴り書き。
第3埠頭。そこは最近、帝國資本によって大規模な工事が始まったばかりの場所だ。
彼らは地下だけでなく、地上にも巨大な通信タワー――あるいは電波兵器の塔を建てようとしている。
「……忙しくなりそうだ」
ヴィクターは手帳をオイルライターで燃やし。
ゆらゆらと燃える炎を見つめる彼の瞳に、かつてないほどの厳しい光が宿る。
これまでは、降りかかる火の粉を払っていただけだ。
だが、次はこちらから火元を断ちに行かなければならない。この街が、第二の帝國と化す前に。
カラン、コロン。
ドアベルが鳴り、元気な足音が入ってきた。
レオだ。彼は昨日の毒騒ぎですっかり懲りたかと思いきや、手には大きな包み紙を持っている。
「ヴィクター! 生きてる? これ、マーサおばさんからの差し入れ!」
焼きたてのアップルパイの香り。
シナモンと砂糖の甘い匂いは、昨夜の毒々しい花の香りとは違う、生命力に溢れた“生”の香りだった。
「……ありがとう。だがレオ、手は洗ったか?」
「洗ったよ! 3回も! もう黴菌扱いするなよな」
レオがむくれてパイを切り分ける。
ヴィクターは苦笑し、フォークを手に取った。
毒を以て毒を制す。
裏社会の掃除人として手を汚し続ける自分だが、こうして守るべきささやかな日常がある限り、まだ人間の側で踏みとどまっていられる気がした。
店の奥にあるラジオから、ニュースが流れる。
『――地下水道で発見された大量の身元不明者と、カルト教団の施設については、現在警察が……』
真実は伏せられた。
だが、セレナは戦っている。表の世界で、組織の残党を追い詰めるために。
そしてヴィクターもまた、裏の世界で針を進める。
チク、タク、チク、タク……。
店内の数百の時計が、一斉に次の時間を刻み始める。
それは破滅へのカウントダウンか、それとも希望への秒読みか。
霧深きミスト・ヘイヴン。
蜘蛛の巣は払われたが、その主はまだ、闇の奥で赤い目を光らせている。




