第33話 死の秒針と白い葬列 ~女王蜘蛛の回廊~
深夜2時。
都市の機能が眠りにつき、霧だけが起きている時間。
ヴィクターとセレナは、旧地下鉄の封鎖されたメンテナンスゲートを突破し、地図にない深淵へと降り立った。
そこは、死への匂いがした。
錆びついたレール、腐った枕木、そして澱んだ下水と、古い空気が混じり合った独特の悪臭。
だが、その不快な臭気の底に、不釣り合いなほど甘美な芳香が漂っていることを、二人の鋭敏な感覚は捉えていた。
「……空気が重い。それに、少し“粘り気”があるわ」
セレナが鼻をひくつかせ、呟いた。
彼女は白杖をつきながら、線路の上を歩いている。地下特有の反響音が、この空間が巨大な空洞――未完成のまま放棄された地下都市区画であることを教えていた。
「同感だ。……湿度が異常に高い。通常の地下水によるものではないな」
ヴィクターは、タキシードの上に重装備の革コートを羽織り、顔にはガスマスクのような形状の“呼吸濾過器”を装着していた。
彼の懐中時計には、ガイガーカウンターならぬ“毒素検知針”が組み込まれている。その針が、危険領域であることを告げる赤色を示して小刻みに震えていた。
(……この湿気。ただの水蒸気ではない。微細な胞子を含んでいる)
彼が携帯用のランタンを掲げると、闇の奥に異様な光景が浮かび上がった。
トンネルの壁面、天井、そしてレールの上にまで、雪のような白い綿毛がびっしりと繁殖していたのだ。
カビだ。
だが、自然界のものとは思えない速度で増殖し、コンクリートすら侵食する純白の真菌。
「“葬儀屋”のガーデニングの趣味は最悪だな。……これは地下水道を塞ぐための生体バリケードだ」
ヴィクターは手袋越しに壁のカビを拭い取ろうとしたが、指先が触れる直前に止めた。
カビの中心部が、まるで呼吸をするように脈動したからだ。
「触れるな、セレナ。……こいつは生きている。物理的刺激を与えると、高濃度の神経毒を含んだ胞子を一斉に噴霧する仕掛けだ」
「地雷の代わりにお花畑、というわけね」
セレナは皮肉っぽく笑ったが、その表情は硬い。
音で反応する爆弾なら彼女の専門分野だが、音もなく漂う胞子は、彼女の“耳”では防げないからだ。
「どうするの? 燃やす?」
「いいや。火を使えば上昇気流が発生し、胞子を奥へ運んでしまう。……消毒が必要だ」
ヴィクターは、背負っていた鞄から、銀色の円筒形タンクを取り出した。
彼が自作した、対化学兵器用噴霧器“清浄なる風”。
バルブを捻ると、シューッという静かな音と共に、透明なミストが噴き出した。
それは強力な殺菌剤と、瞬時に硬化する凝固剤の混合液だった。
ミストがかかった端から、脈動していた白いカビが茶色く枯れ果て、パリパリと乾燥して崩れ落ちていく。
「道を作る。……私の足跡の上以外は踏むな」
ヴィクターが先陣を切る。
シューッ、シューッ。
リズムよく消毒液を撒き散らし、腐敗した有機物を無機質な塵へと変えていく。
その背中を追うセレナは、ヴィクターの革靴が鳴らす正確な足音だけを頼りに、死の庭園を進んでいった。
白カビのトンネルを抜けると、巨大な広場に出た。
かつて地下鉄のターミナル駅になる予定だった空間だ。
高い天井からは無数のパイプが垂れ下がり、そこから白濁した液体がポタポタと滴り落ちている。
その広場の中央に、数人の人影があった。
彼らは作業服を着て、手にはアサルトライフルを持っていたが、ピクリとも動かない。
彫像のように直立不動で、侵入者が来る方向を凝視している。
「……警備兵?」
セレナが身構え、懐の拳銃に手をかける。
だが、すぐに違和感に気づいた。
「変ね。……心音が、遅すぎるわ」
ドクン…………ドクン…………。
通常の人間ならあり得ない、1分間に20回程度の極低心拍。
呼吸音も聞こえない。
「生きているが、死んでいる。……そういう状態だ」
ヴィクターがランタンを向ける。
光の中に浮かび上がったのは、蝋のように白く固まった皮膚を持ち、焦点の合わない目で虚空を見つめる兵士たちの姿だった。
彼らの口元からは、幸せそうな涎が垂れている。
“幸福な死人”。
葬儀屋が調合した特殊な麻薬と防腐剤によって、自我と痛覚を奪われ、命令に従うだけの肉人形に変えられた、組織の末端構成員たちだ。
「なんてことを……」
セレナが絶句する。
それは殺戮よりも残酷な、人間性の冒涜だった。
「キキキ……」
不意に、先頭の兵士の喉奥から、虫が羽を擦り合わせるような音が漏れた。
それを合図に、兵士たちの目が一斉にギョロリと動き、二人を捉えた。
「侵入シャ……排除……排除……」
壊れたレコードのような声を上げ、彼らが銃を構える。
統率はない。だが、痛みを恐れない彼らは、弾丸を受けても止まらない厄介なゾンビだ。
「伏せろ!」
ヴィクターが叫び、セレナを瓦礫の陰に引き倒す。
ダダダダダッ!
乾いた銃声が響き、コンクリート片が飛び散る。
「厄介だ。痛みを感じない相手には、私の“物理攻撃”の効果が薄い」
ヴィクターは遮蔽物の裏で、腕時計のワイヤーを点検しながら舌打ちした。
関節を外しても、骨を折っても、彼らは這いずってでも殺しに来るだろう。
完全に機能を停止させるには、脳幹を破壊するか、あるいは……。
セレナが不意に言った。
「……熱があるわ」
「え?」
「あの兵士たち、体温が異常に高い。薬物の過剰投与で、代謝が暴走しているのよ
彼女はサングラスの奥の瞳で、見えない熱源を睨んだ。
「ヴィクター。さっきのカビを枯らしたあのスプレー、まだ残ってる?」
「ああ。成分は凝固剤だが……」
「それを彼らに浴びせて。熱に反応して固まるなら、一瞬で彫像にできるはずよ」
「……なるほど。即席の剥製作りというわけか」
ヴィクターは口元を緩めた。
その悪趣味だが合理的な発想は、まさに彼のパートナーに相応しい。
「私が引きつける。君はその隙に、あの配管の上から薬剤を散布しろ」
「了解」
二人は同時に動いた。
ヴィクターが飛び出し、ワイヤーで手近な鉄骨を引き倒して大きな音を立てる。
ゾンビ兵士たちの注意がそちらへ向く。
「コチラだ、出来損ないのドールたちよ!」
銃撃がヴィクターの足元を薙ぐ。
その頭上、暗闇の中をセレナが走る。
手すりのないキャットウォーク。だが見えない彼女にとっては、音の反響がある限り、そこは平坦な道と同じだ。
「眠りなさい!」
セレナは兵士たちの真上でタンクのバルブを全開にした。
プシュァァァッ!
白霧のシャワーが降り注ぐ。
高熱を発する兵士の皮膚に触れた瞬間、薬剤は化学反応を起こし、カチコチの樹脂へと硬化した。
「ガ、ア……!?」
銃を構えた姿勢のまま、兵士たちが固まっていく。
関節がロックされ、指がトリガーから離れなくなる。
数秒後。
そこには、数体の醜悪な現代アートのような像だけが残された。
兵士たちを無力化し、さらに奥へと進む。
空気の流れが変わった。
湿気が引き、代わりに機械油の匂いと、低い電子音が響き始める。
「……ここから先が、“ネオ・バベル”の中枢ね」
二人は、分厚い隔壁の前に立った。
その扉には、毒々しい蜘蛛の紋章が描かれている。
ミスト・ヘイヴンの地下に秘密裏に建設された、巨大な通信・生産プラント。
ヴィクターは、隔壁の横にある電子ロックのパネルを見た。
最新鋭の静脈認証と音声認識システム。
ピッキングツールで物理的に開けられるような代物ではない。
「……デジタルの壁か。私の管轄外だな」
「任せて」
セレナが前に出た。
彼女は懐から、小型のジャックを取り出し、パネルのメンテナンスポートに差し込んだ。
そして、イヤホンを耳に当てる。
「これは警察の鑑識からくすねてきた、コード解析用の聴診器。……中の電子音が聞こえるわ」
彼女は目を閉じ、ノイズの海へ潜った。
普通の人間にはただの雑音にしか聞こえない電子パルスの羅列。
だが、彼女の耳には、それが“旋律”として聞こえていた。
0と1のリズム。電流の強弱。
「……ソ、ミ、ファ……違う。もっと鋭い波形」
彼女はパネルのテンキーを、音に合わせて叩いた。
視覚情報としてのパスワードを見ているのではない。システムが「正解」の信号を待っている“音の間隔”を聞き分けて、そこに指を合わせているのだ。
ピ、ピ、ピ、ターンッ!
カション。
緑色のランプが点灯し、重厚な隔壁が空気圧を吐き出して開いた。
「……相変わらず、いい仕事だ」
ヴィクターが感嘆する。
開かれた扉の向こうには、広大な地下工場が広がっていた。
林立するサーバータワー。自動で銃器を組み立てるロボットアームの列。
そして、その最奥にある司令室には――白いスーツを着て、白い雨傘を持った男が、優雅に二人を待ち構えていた。
「ようこそ」
“葬儀屋”が、ガラス越しに二人を見下ろして微笑んだ。
その手には、巨大な“香炉”のようなものが握られている。
「私の庭へようこそ。……さあ、サイズの測定を始めようか。君たちの棺桶のね」
香炉から、紫色の煙が立ち上る。
これまでのカビやゾンビとは比較にならない、最悪の猛毒が解き放たれようとしていた。




