第32話 死の秒針と白い葬列 ~白亜の死刑宣告~
正午過ぎ。
ミスト・ヘイヴンの天気は、移り気に変わる。
朝方の冷雨は上がり、今は鉛色の空から、粉雪のような細かい霧雨が舞い落ちていた。
古時計店『失われた時間』。
店主のヴィクターは、修理依頼のあったアンティーク時計の分解清掃を行っていた。
だが、彼の手つきには、いつもの流れるようなリズムがない。
ほんの僅かだが、ピンセットの先端が迷いを見せていた。
(……空気が、歪んでいる)
ヴィクターは作業を中断し、顔を上げた。
店内には数百の時計がある。その全てが正常に時を刻んでいるはずなのに、彼にはその音の隙間に、異質な“空白”が入り込んでいるように感じられた。
音のない音。
気配のない気配。
「おーい、ヴィクター。店の前に荷物が届いてるよ」
表の掃除をしていた雑用係のレオが、両手に収まるサイズの、しかし異様に美しい白い小箱を持って入ってきた。
真っ白な化粧箱。リボンまで純白だ。
伝票はない。
「誰からだろ? すっげえ良い匂いがするぜ。高級な菓子かな?」
レオが鼻を近づけ、リボンに手をかけようとした瞬間。
「触るな!」
ヴィクターの鋭い一喝が飛んだ。
普段、声を荒らげることのない店主の豹変ぶりに、レオの手がビクリと止まる。
「そっと……その場に置け。決して揺らすな」
ヴィクターはカウンターを乗り越える勢いで近づき、手袋を嵌めた手でレオの手首を掴み、箱を床に置かせた。
「な、なんだよ。ただの箱だろ?」
「匂いだ。……分からないか、レオ。その甘い芳香の下に隠された、腐敗臭が」
ヴィクターはハンカチで口元を覆い、道具箱から外科手術用のメスと、特殊な検知液を取り出した。
箱の隙間に、検知液を一滴垂らす。
ジュッ……。
白い液体が、瞬時にドス黒く変色した。
「猛毒の神経剤だ。……吸い込めば肺が焼け爛れるぞ」
レオが青ざめて後ずさる。
ヴィクターは息を止め、メスの先端で慎重にリボンを切断し、蓋を開けた。
そこに入っていたのは、菓子ではなかった。
敷き詰められた白百合の花弁。
そしてその中央に埋葬されるように置かれていたのは――ヴィクターがかつて修理し、顧客に返したはずの懐中時計の“残骸”だった。
文字盤は酸で溶かされ、歯車はバラバラに引き抜かれ、ゼンマイは腸のように引きずり出されている。
まるで、内臓を抉り出された小動物の死体だ。
その横に、一枚のメッセージカードが添えられていた。
『君の“機械”には体温がない。
だから、私が弔ってあげたよ。
――葬儀屋』
「……これは、オズワルド議員の愛用していた時計か」
ヴィクターは、溶かされた文字盤の裏にあるシリアルナンバーを見て呟いた。
昨夜殺された議員。
葬儀屋は、彼を殺した後、わざわざヴィクターの手がけた時計を持ち帰り、こうして「陵辱」して送り返してきたのだ。
(挑発か。……いい度胸だ)
ヴィクターの中で、静かな殺意が沸騰した。
自身の作品を破壊されることは、彼にとって自分の子供を殺されるに等しい。しかも、酸と毒で汚すという、最も生理的に受け付けないやり方で。
カラン、コロン。――ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、黒いコートの襟を立てた女性刑事、セレナだった。
彼女は店内に入るなり、眉をひそめ、ハンカチで鼻を押さえた。
「……臭うわね」
彼女はサングラスの奥で見えない視線を、床に置かれた白い箱、そしてその横で腰を抜かしている気配へと向けた。
「そこのボク。息を止めて。……甘い花の香りがするけど、これは肺を焼く毒の香りよ」
彼女の警告に、レオが「ひっ!」と悲鳴を上げ、口を手で覆う。
「昨夜の議員殺しの現場と、同じ甘い毒の香り。……あなたにも“招待状”が届いたのね? 時計屋さん」
「鼻がいいのは相変わらずだな、刑事さん」
ヴィクターは皮肉っぽく返すが、その声にはいつもの余裕がない。
彼は即座に強力な除染スプレーを箱に噴射し、毒の揮発を止めると、厳しい視線で振り返った。
「レオ。今すぐ2階へ上がれ。石鹸で手と顔をよく洗うんだ。……そして、私が呼ぶまで決して降りてくるな」
「だ、だけどヴィクター、これって……」
「行け。……これは子供の遊び場じゃない」
ヴィクターの声には、有無を言わせない響きがあった。
レオは、ヴィクターの真剣な目と、セレナの張り詰めた空気を感じ取り、コクリと頷くと、逃げるように階段を駆け上がっていった。
バタン、と2階のドアが閉まる音がして、ようやくヴィクターは肩の力を少しだけ抜いた。
「……やれやれ。私の店員まで毒牙にかけるとはな」
「どうやら、私と君の共通の敵は、想像以上に“お行儀”が悪いらしい」
セレナは杖をつきながら、ヴィクターの側へ歩み寄った。
彼女は床にしゃがみ込み、破壊された時計の残骸に向けられたヴィクターの視線を感じ取る。
「……悔しい?」
「悔しい? 違うな」
ヴィクターは立ち上がり、冷徹な目で窓の外、霧に煙る街を見据えた。
「これは『衛生管理』の問題だ。私の街に、ばい菌が入り込んだ。……ならば、消毒するしかない」
セレナはフッと笑った。
その笑顔は、頼もしい共犯者を見つけた時のそれだった。
「意見が合ったわね。……警察は“心不全”で処理しようとしているけれど、私は違う。あの“葬儀屋”の尻尾を掴んだわ」
彼女は懐から、一枚の地図を取り出し、カウンターに広げた。
そこには、ミスト・ヘイヴンの地下水道の図面と、いくつかの赤いチェックマークが記されている。
「奴らのアジト『ネオ・バベル』への入り口。……今夜、地下鉄の廃線跡で“大きな葬式”があるそうよ」
「……喪服の準備が必要だな」
ヴィクターは作業着であるベストのボタンを外し、奥の武器庫へと向かった。
今夜は修理ではない。解体だ。
静寂を愛する二人が、最も騒々しく、そして最も静かな戦争へと赴く。




