第31話 死の秒針と白い葬列 ~密室に咲く見えない花~
夜、ミスト・ヘイヴンは海から押し寄せる重い霧が、街灯の灯りをぼんやりと滲ませ“死んだ魚の眼の色”をしていた。降りしきる冷雨が石畳を叩く音だけが、この巨大な都市の寝息のように響いている。
だが、その地下深くでは、巨大な“心臓”が鼓動を始めていた。
都市開発計画『ネオ・バベル』。
表向きは老朽化したインフラの刷新と地下鉄網の整備だが、その実態は、この街の地下空洞に、世界中へ武器と情報を供給するための巨大な軍事プラントと通信施設を建設するという、帝國をも巻き込んだ壮大な陰謀である。
午後11時。
高級住宅街の一角に建つ、古い煉瓦造りの屋敷。
この国の保守派議員であり、長年『ネオ・バベル』計画に反対し続けてきた「街の良心」、エドガー・オズワルドの私邸。
書斎には、暖炉の火がパチパチと爆ぜる音と、オズワルド議員の荒いペン走りの音だけがあった。
彼は焦っていた。
先日の帝國軍の介入騒ぎ。あれは氷山の一角だ。自分の知らないところで、街がマフィアに乗っ取られようとしている。
「……認めん。この美しい港町を、殺し屋どもの兵器工場になどさせてたまるか」
彼は告発状を書いていた。連邦議会へ向けた、命懸けの書類。
部屋は完全なる密室だ。
窓は施錠され、扉の前には私設の警備員が二人。さらに、オズワルド自身も極度のパラノイアに陥っており、飲み物は全て毒味をさせ、部屋の換気口には特殊なフィルターを取り付けていた。
物理的な暗殺者が入り込む余地はない。ヴィクターのような工作員であっても、この厳重な警備を音もなく破るには数時間はかかるだろう。
だが、“客”は音もなく現れた。
扉が開いたわけではない。窓が割れたわけでもない。
ただ、暖炉の上に飾られた花瓶――今朝、支持者から届いた白百合の花――から、一滴の雫が零れただけだ。
ポタリ。
その雫は、暖炉の熱で温められた大理石の上に落ち、瞬時に気化した。
甘く、芳醇な香り。
それは、オズワルドが愛飲している高級紅茶の湯気と混じり合い、空気中で化学反応を起こした。
化学式によるピタゴラスイッチ。
熱、湿度、そして香り。
それらがパズルのように組み合わさった瞬間、見えない死神が鎌を振り下ろした。
「……ん?」
オズワルドはふと、ペンを止めた。
素晴らしい香りがする。幼い頃、母の庭で嗅いだような、懐かしく、安らかな花の香り。
急激な眠気が襲ってくる。恐怖も、義務感も、焦燥感も溶けていく。
(ああ……そうだ。少し、休もうか……)
彼は幸福な夢を見るように目を閉じ、深く椅子にもたれかかった。
心臓が、優しいリズムで停止へと向かう。
苦悶はない。あるのは、脳内麻薬による強制的な恍惚だけ。
数分後。
屋敷の窓ガラスを叩く雨音だけが、主を失った書斎の静寂を埋めていた。
オズワルド議員は死んだ。
まるで聖人のように穏やかな微笑みを浮かべたまま。
◇◇◇
古時計店『失われた時間』
深夜。
ヴィクターは、カウンターの上で奇妙な“チェス”をしていた。
盤面にあるのは、通常の駒ではない。
黒いナットと、白い錠剤。
ラジオからは、臨時ニュースが流れている。
『――速報です。反再開発派の急先鋒、オズワルド議員が自宅で急死しました。警察は心不全による病死と見ていますが……』
ヴィクターは、白い錠剤の駒を一つ摘み上げ、黒いナットの陣地へと侵入させた。
「……病死、か」
彼はルーペを覗き込み、手元にある数枚の写真を見た。
レオが、警察無線を傍受して入手したばかりの現場写真だ。
密室。外傷なし。毒物反応なし。
完璧な自然死に見える。
だが、ヴィクターの職人としての目は誤魔化せない。
写真に写る暖炉の位置、活けられた花の種類、そして机の上に置かれた紅茶の温度差による結露。
それら全ての要素を頭の中で3Dモデル化し、時間を巻き戻す。
(……これは偶然ではない。“設計”されている)
彼自身の得意とする“機械的な偶然の連鎖”ではない。
もっと有機的で、湿度を伴う連鎖。
数種類の無害な成分が、特定のごく短い時間で混じり合い、致死性の毒となって標的を殺し、また無害な物質へと分解されて消える。
痕跡を残さない、化学 の完全犯罪。
「……“葬儀屋”。やはりこの街に来ていたか」
ヴィクターは、不快そうに顔をしかめた。
彼の美学に反する。
機械仕掛けのトリックには、解除するための「解」がある。しかし、この手口には慈悲がない。空気そのものを兵器に変える、生理的な冒涜だ。
「私の縄張りに土足で踏み込むとはな。……しかも、白い靴で」
彼はチェス盤の上の白い錠剤を、指先で弾き飛ばした。
錠剤は粉々になって床に散らばる。
「挨拶が必要だな。……この街のマナー を教えるための」
翌朝、オズワルド邸・現場検証
雨は上がっていたが、屋敷の周りには重い湿気が滞留していた。
集まった警官たちは「心不全だ」「過労死だろう」と口々に囁き合い、事件性のなさに安堵しているようだった。
面倒な捜査をせずに済むからだ。
だが、その穏やかな空気を乱す者が一人いた。
セレナ・ヴァレンタイン刑事だ。
彼女は白杖で絨毯の感触を確かめながら、遺体の残る書斎へと入っていった。
「……甘いわ」
彼女は部屋に入った瞬間、ハンカチで鼻と口を覆った。
「甘い? 紅茶の匂いのことか、ヴァレンタイン」
鑑識官が不思議そうに首を傾げる。
セレナは首を振った。
「いいえ。……もっと人工的で、粘り気のある甘さよ。花と、蜜と……防腐剤の混じったような、死の香り」
彼女は見えない目で、部屋全体を見回すように顔を巡らせた。
彼女の嗅覚は、すでに分解されて消滅したはずの毒の“幽霊”を捉えていた。
換気扇のフィルターに付着した微粒子。
暖炉の大理石に残った、わずかなシミ。
そして、遺体の口元から漂う、アーモンドのような芳香。
(殺されている。……それも、恐ろしいほどの手練れに)
セレナは戦慄した。
もし、この犯人がヴィクターと同じように、「ピタゴラスイッチ」のような連鎖を操るタイプだとしたら?
ヴィクターが“固い物質”の魔術師なら、この犯人は“柔らかい物質”の魔術師だ。
「……そこにいるのね? 姿なき蜘蛛さん」
彼女は白杖の先で、ゴミ箱に捨てられていた「白い百合の花びら」を突いた。
背後には、見えない巨大な組織の影。
ネオ・バベル。
この完全犯罪は、組織が本気でこの街を「掃除」し始めたという合図だ。
ミスト・ヘイヴンを一望する丘の上
朝霧の中に、一人の男が立っていた。
全身を純白のスーツで包んだ、長身痩躯の男。
手には白い革手袋、そして真っ白な雨傘を杖のように持っている。
その顔立ちは整っているが、血の気が全くなく、まるで蝋人形のような不気味な美しさがあった。
組織最強の刺客、“葬儀屋”。
彼は眼下に広がる街を見下ろし、陶酔したように深く息を吸い込んだ。
「……美しい。実に不潔で、美しい街だ」
彼の声は冷たく、静かだ。
「だがあちこちで、騒々しい金属音が聞こえる。……時計の音、か。実に野蛮だ」
彼は懐から、銀色のメジャーを取り出した。
シュルル……という音と共にテープを引き出し、空虚な空間のサイズを測るような仕草をする。
「あの時計師とやら……。彼の仕事には美学を感じない。汗と油と鉄の臭いしかしない。死とはもっと……静寂で、清潔であるべきだ」
葬儀屋はメジャーを戻した。
パチン。
「測らせていただこうか。……この街と、邪魔者たちの棺桶のサイズを」
彼が歩き出すと、その足跡からは白い粉のようなものがこぼれ落ち、触れた草花を一瞬で枯死させていった。
死の行進――ホワイト・パレードの始まりだ。




