第30話 黒い汽笛の亡命者 ~硝煙と朝霧のほとりで~
「ふ……フハハハッ!」
ヴィクターが、珍しく声を上げて笑った。
「傑作だ。50年間、帝國が血眼になって守ってきた国家機密が、ただの『おやすみの一杯』だったとはな」
彼の笑いは、ヴォルコフの理性を完全に焼き切った。
「おのれェェッ! 謀りおって! 全員殺してやる!」
ヴォルコフがオルゴールを床に叩きつけ、サブマシンガンを取り出す。
だが、その隙は致命的だった。
「遅い!」
セレナが地を蹴った。
彼女はヴォルコフの足音と衣擦れで、彼が銃を構えるタイミングを完全に読んでいた。
一閃。
彼女の手刀が、ヴォルコフの喉仏を正確に突いた。
「がっ……!?」
ヴォルコフが気絶し、倒れる。
残った兵士たちが動こうとするが、ヴィクターがカフスボタンを起動させた。
キィィィィン!!
不快な超音波が狭い車内に反響し、兵士たちは三半規管を揺さぶられて膝をつく。
セレナだけは、ヴィクターの合図で事前に耳を塞いでいた。
「行こう、お嬢さん。……この列車はもうじき終点だ」
列車が激しく揺れた。
前方には、国境の巨大な谷を超えるための大鉄橋が見えてきている。
このまま進めば帝國領。彼らに逃げ場はない。
「止める手段は?」
「機関室へ行く暇はない。……飛ぶぞ」
ヴィクターは、部屋の窓ガラスをカフスボタンの音波で粉砕した。
轟風が吹き荒れる。
下は遥か谷底。だが、鉄橋の下には、冷たい川が流れている。
「正気!?」
「私の計算では、生存確率は8割だ。……君の神への信仰心が試されるな」
ヴィクターはセレナの腰を抱き寄せた。
「それに、泥水よりも冷たい水の方が、酔い覚ましには丁度いい」
二人は、オルゴールの優しい旋律が響く狂気の列車から、朝霧の彼方へ向かって身を躍らせた。
列車は鉄橋を通過し、帝國の闇の中へと消えていく。
誰もいない執務室で、クロノスのオルゴールだけが、愚かな人類を嘲笑うように回り続けていた。
ミスト・ヘイヴン郊外、渓谷の下流。
空が白み始め、夜との境界線が曖昧になる時間帯。
霧が立ち込める河原に、二つの影が打ち上げられていた。
ざあ……ざあ……。
冷たい川の水が、岸辺の砂利を洗う音が繰り返される。
ヴィクターは、重くなった瞼を開けた。
全身が鉛のように重い。高級なタキシードは水を吸ってスポンジのようになり、体温を容赦なく奪っていく。
彼は上体を起こし、咳き込んだ。
肺に入った水を吐き出し、乱れた呼吸を整える。
(……生きて、いるな)
彼は濡れた手で、胸元を探った。
懐中時計。
完全防水加工を施した彼の愛機を取り出し、耳に当てる。
チク、タク、チク、タク……。
激流に揉まれ、岩に叩きつけられてなお、その心臓部は正確に時を刻み続けていた。
「……優秀だ。私の計算通り」
ヴィクターは口元を緩め、視線を横へ流した。
数メートル離れた砂地に、もう一人の遭難者――セレナが仰向けに倒れている。
彼女もまた、濡れたドレスが肌に張り付き、小刻みに震えていたが、その胸はしっかりと上下していた。
「……おい、お嬢さん。いつまで寝ているつもりだ」
ヴィクターが声をかけると、セレナは大きく息を吸い込み、むくりと起き上がった。
サングラスは流されて紛失していたが、その見えない瞳は、音の方角――ヴィクターのいる位置を正確に捉えた。
「……最悪な目覚めね。泥と、川海苔の臭いがするわ」
彼女は髪の水滴を払い、不満げに呟いた。
「あの高さから飛び込んで、かすり傷で済んだだけでも奇跡だよ。神に感謝するんだな」
「神様じゃなくて、悪運の強い時計屋さんに感謝するわ。……ねえ、あの箱はどうなったの?」
セレナが問う。
ヴィクターは川の上流、鉄橋の方角を見上げた。
装甲列車はすでに姿を消している。だが、空には黒い煙の筋が残っていた。
「あの中身……“静寂の死”とやらが本物なら、今頃この川は蒼く染まり、我々もあの世行きだ」
ヴィクターは皮肉っぽく笑った。
「だが、魚たちは元気に泳いでいる。つまり、あの液体はただの酒だったということさ」
「酒……? 私たちは、酒瓶一本のために命懸けのダイビングをしたって言うの?」
セレナは呆れ果て、そしてふき出した。クスクス、という忍び笑いは、やがて声に出した笑い声へと変わる。
「最高ね……! 帝國の連中、今頃顔を真っ赤にしてるわよ。国家最高機密がただのアルコールだったなんて!」
「ああ。100年前の時計師からの、最高に洒落たプレゼントだ」
ヴィクターもまた、川面を見つめながら微笑んだ。
二人の間に流れるのは、死線を共に潜り抜けた者だけが共有できる、奇妙な連帯感だった。
だが、その安らぎも長くは続かない。
ヴィクターの表情が、ふと曇った。
「だが、笑い事では済まないな」
「ええ……。ヴォルコフ大佐。あの男は生きているわ」
セレナの声も硬くなる。
列車の中で彼女がヴォルコフを気絶させた時、その手ごたえは確かにあったが、命までは奪っていない。
そして、帝國という組織は、一個人の生死に関わらず動き続ける巨大なシステムだ。
「彼らは恥をかかされた。そして、ハインリッヒという駒を失った。……この落とし前をつけに、必ず戻ってくる」
ヴィクターは立ち上がり、水を吸った重いコートを脱ぎ捨てた。
「これは宣戦布告だ。……ミスト・ヘイヴンの影には、私や君が相手にしていたチンピラとは比較にならない、巨大な“組織”が根を張っている」
亡命者の受け入れ。鉄道の手配。警察上層部への圧力。
それらは、帝國の軍人だけでできることではない。この街の中に、彼らを案内し、手引きしている協力者――巨大な犯罪組織が存在している証拠だ。
「……怖いの? 時計屋さん」
セレナが挑発するように訊く。
ヴィクターは振り返り、朝霧の中に立つ彼女を見据えた。
「まさか。……故障箇所が大きければ大きいほど、修理しがいがあるというものだ」
彼は歩き出した。
足元は泥濘、体は冷え切っているが、その瞳には冷たい闘志の火が灯っていた。
「行こう。……まずは熱いシャワーと、泥水じゃないコーヒーが必要だ」
【数日後、ミスト・ヘイヴン・地下水道】
街の地下深くに広がる、迷宮のような排水路。
その一角にある隠し部屋で、数人の男たちが円卓を囲んでいた。
照明は暗く、顔は見えない。ただ、それぞれの指に嵌められた“蜘蛛の紋章”の指輪だけが光っている。
中央の席に座る男が、低い声で報告を聞いていた。
「……そうか。ハインリッヒは失敗したか」
『はい。装甲列車内で死亡確認。……死因は銃撃ですが、現場には何者かが介入した形跡があります』
「介入者、か」
男は手元の資料――隠し撮りされたヴィクターの写真と、セレナの写真をテーブルに放り投げた。
「“時計師”と“盲目の魔女”。……目障りな虫どもめ」
男の指先が、テーブルの上をカツカツと叩く。
「帝國とのパイプは維持せねばならん。我々の計画“ネオ・バベル”のためにはな。……掃除屋を呼べ。街一番の使い手を」
「誰を向かわせますか?」
「“葬儀屋”。……彼なら、どんなに精巧な時計も、スクラップに変えてくれるだろう」
闇の中で、殺意という名の歯車が、音もなく回り始めていた。
【古時計店『失われた時間』】
「へっくしょん!」
店内に、レオの大きなくしゃみが響いた。
彼は毛布にくるまりながら、不満そうに鼻をすすっている。
「まったくもう! いきなり『しばらく店を開けるな』って言ったと思ったら、3日も帰ってこないし! 戻ってきたらずぶ濡れだし! 風邪引いたじゃないか!」
ヴィクターは、そんな少年の文句を涼しい顔で受け流しながら、カウンターで精密な作業をしていた。
手元にあるのは、あの装甲列車から持ち帰った戦利品――軍用無線機の暗号チップだ。
「すまなかったな、レオ。……だが、面白い玩具が手に入った」
ヴィクターはチップを解析機にセットする。
モニターに流れる文字列。それは帝國軍ではなく、このミスト・ヘイヴン市内に潜む、ある通信傍受ポイントの座標を示していた。
彼は推測する。
帝國を手引きしていた組織の尻尾を、ついに掴んだのだ。
カラン、コロン。
不意にドアベルが鳴った。
扉の隙間から、一通の黒い封筒が滑り込んできただけだった。
ヴィクターは作業を止め、封筒を拾い上げた。
宛名はない。だが、封蝋には、毒々しい蜘蛛の紋章が押されている。
「……招待状か」
彼は封を開け、中の一枚のカードを読んだ。
そこには、ただ一行、優雅な筆記体でこう書かれていた。
『君の時計の針は、まもなく深夜0時を指すだろう』
あからさまな殺害予告。
だが、ヴィクターはふっと鼻で笑い、そのカードをオイルライターの火で燃やした。
「0時は終わりの時間ではない。……新しい一日が始まる時間だ」
揺らめく炎が、彼の瞳を赤く照らす。
灰皿の中でカードが灰になる。
彼はカウンターの奥へ戻り、引き出しを開けた。
そこには、修理工具と並んで、護身用というにはあまりに凶悪な、対組織用の“処刑道具”の設計図が隠されていた。
ヴィクターはレオに向かって、静かに告げる。
「レオ。しばらく忙しくなるぞ。……大掃除の時間だ」
外は雨が降り出していた。
だが、その雨音も消せないほど大きな、時代の軋む音が、街の底から響き始めていた。




