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時計屋ヴィクターの“修理”報告書 ~ミスト・ヘイヴンの時計師~  作者: ニート主夫


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第3話 ソナタは黒鍵で奏でられる(後編)

 ズゥーン……!!


 それは破壊音というよりも、地殻変動のような重低音だった。

 数千個のクリスタルガラスが組み合わさった巨大なシャンデリアが、ステージの中央に突き刺さる。

 衝撃波が最前列の客席を舐め、巻き上がった粉塵が瞬く間に華やかな劇場を灰色の世界へと変貌させた。


「ぎゃあああっ!!」

「サ、サルヴァトーレ様が!」

「逃げろ! 天井が崩れるぞ!」


 一瞬の静寂の後、我に返った観客たちがパニックに陥った。

 出口へと殺到する足音、怒号、泣き叫ぶ婦人たちの悲鳴。

 かつて“音楽の殿堂”だった場所は、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


 その混乱の渦中で、ひとりだけ逆流するように動く影があった。

 セレナだ。


「おい、待てセレナ! 危険だ、戻れ!」


 隣にいた警部が彼女の腕を掴もうとしたが、彼女はそれをひらりとかわした。

 視界はゼロ。周囲は暴走した牛の群れのような群衆。

 だが、彼女には見えている。

 床板の(きし)み、人々の心臓の鼓動、空気の流れ――それらが反響定位(エコーロケーション)となって、障害物の位置を正確に脳内に描画(びょうが)する。

 彼女は白杖を短く持ち、人混みの隙間を縫うようにして、迷うことなくステージへと降りていった。


 ステージ上は悲惨だった。

 幸か不幸か、サルヴァトーレは直撃を免れていた。シャンデリアは彼のわずか数センチ手前に落下し、床を粉砕していたからだ。

 だが、その衝撃は決定的だった。

 粉砕されたクリスタルの破片が散弾銃のように彼の全身を襲い、そして何より、落下の風圧と恐怖で彼は腰を抜かし、泡を吹いて失禁していた。


「あ……あう、ああ……」


 伝説のテノール歌手は、ガラスの破片に埋もれながら、(ニワトリ)が絞め殺されるような汚い(かす)れ声を上げていた。

 喉にガラス片が入ったのか、それとも恐怖による心因性のショックか。

 いずれにせよ、あの黄金の声は二度と戻らないだろう。

 彼は命と引き換えに、歌手としての“死”を与えられたのだ。


「……酷い」


 遅れて追いついてきた警部が、惨状を前に顔を覆った。


「なんてことだ……。老朽化か? 整備不良か? まさか天下の国立劇場でこんな事故が起きるとは」


「事故じゃないわ」


 セレナの声は冷ややかだった。

 彼女は瓦礫の前にしゃがみ込むと、サングラスの位置を直し、手袋を()めた指先で慎重に地面を探った。


「なんだって? おい、現場を荒らすな」


「静かにして。……聞こえるのよ、“余韻”が」


 セレナの指先が、粉々になったシャンデリアの中心部、天井との接続金具(フック)だった金属の塊に触れた。

 一見、金属疲労でちぎれただけの鉄クズに見える。

 だが、彼女の指先は、その断面にある“不自然な滑らかさ”を感じ取っていた。


(断面が綺麗すぎる。これは自然に割れたんじゃない。……外されたのよ)


 彼女はさらに奥、金具の隙間に指を滑り込ませた。

 そこで指先が何かに触れた。

 ひどく小さく、冷たく、そして精巧な感触。


「……見つけた」


 彼女が瓦礫の中から摘み上げたのは、直径5ミリにも満たない、歪んだ真鍮(しんちゅう)の部品だった。

 それは粉砕されたシャンデリアの中で、唯一原型を留めている異物。


 ――小さな、歯車だ。


「なんだそれは。時計の部品か?」


 警部が怪訝そうに覗き込む。

 セレナはその歯車を耳元に近づけ、爪先で軽く弾いた。

 チン……という微細な音が、まだ僅かにオイルの湿り気を帯びて響く。


「これはスイッチよ。特定の振動――おそらく、サルヴァトーレの歌う“ハイC”の周波数にだけ共鳴して、ロックを外すように設計されたストッパーだわ」


「周波数だって? 馬鹿な。そんな漫画みたいな芸当ができる職人が、この街のどこにいるって言うんだ」


「いるわ」


 セレナは確信を持って断言した。

 彼女の脳裏に、開演前に感じたあの違和感――機械油と古錆の混じった冷たい匂い――が蘇る。

 犯人はこの場所にいた。そして、全てを計算して“時間を殺した”のだ。

 これほど美しく、これほど悪趣味で、かつてないほど精密な犯罪脚本(シナリオ)を書ける人間は、彼女の知る限り一人しかいない。


「……姿なき脚本家。“時計師(クロックメーカー)”」


 彼女は誰に聞かせるでもなく、その忌むべき、しかしどこか魅惑的な呼び名を口にした。


 握りしめた歯車の冷たさが、彼女の手のひらを焼き焦がすように熱く感じられた。


 ***


 同時刻、港の古時計店『失われた時間(ロスト・タイム)』。

 ヴィクターは、静まり返った店内で、一枚のレコードに針を落としていた。

 外から聞こえる遠雷のような救急車のサイレンが、霧に包まれた街のあちこちで響き渡っている。

 だが、この店内だけは別世界のように時間が()いでいた。


 やがて、空が白み始めた夜明け前。

 カラン、コロン。

 人々が寝静まる隙間を縫うようにして、ドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、あの依頼人の男だった。

 だが、その表情は劇的に変わっていた。

 入店時は雨に濡れた捨て犬のようだった彼が、今は興奮で頬を紅潮させ、目の奥に暗い炎を宿している。


「あ……あんた、あんたは魔法使いか!」


 男はカウンターに駆け寄ると、震える声でまくし立てた。


「見たか!? ニュースを見たか! 完璧だ……本当に、奴が歌った瞬間に落ちやがった! 奴は腰を抜かして、クソを垂れ流して……ざまあみろだ! 一生笑い者だ!」


 ヴィクターは紅茶のカップをソーサーに置き、冷ややかな視線を男に向けた。

 男の歓喜や興奮には微塵も関心がない。彼が興味あるのは、取引の履行だけだ。


「……私は言ったはずだ。“ターゲットが破滅した瞬間の表情”を見るのが報酬の一部だと。ここからは見えないが、君のその下品な高笑いが、成功の証拠というわけだね」


「あ、ああ、そうだ。感謝するよ!」


「ならば、約束のものを」


 男はハッとして、コートのポケットを探った。

 取り出したのは、血と脂と埃にまみれた、一粒のダイヤモンドのタイピンだった。

 サルヴァトーレの象徴だった輝きは、今や(けが)れきっている。


 ヴィクターは懐から懐から純白のシルクハンカチを取り出し、まるで汚物を扱うかのように、ハンカチ越しにそのピンを摘み上げた。

 左目に嵌めたルーペで、じっくりと観察する。

 ダイヤの価値を見ているのではない。そこに刻まれた“転落の痕跡”という芸術性を鑑定しているのだ。


「……悪くない」


 ヴィクターは短く呟き、ピンを丁寧に拭うと、ショーケースの隅にある保管箱へと放り込んだ。

 カラン、という軽い音が、取引終了の合図だ。


「帰りたまえ。そして二度とここへは来ないように。……君のような素人が何度も同じ扉を叩けば、警察(あの無能な観客)たちの耳にも届くことになる」


「わ、分かった。……あんたの名は? せめて名前だけでも」


 男の問いに、ヴィクターは再び作業台に向き直り、背中で答えた。


「ただの時計屋さ。少し、ネジの扱いに詳しいだけのね」


 男が出ていくと、店には再び数百個の時計が刻むリズムだけが残された。

 ヴィクターは微細な歯車をピンセットで挟みながら、ふと、あの国立劇場の方角へ視線を流した。


 自分のシナリオに狂いはない。警察がこれを事故以外で処理することはないはずだ。

 ――ただ一人を除いては。


「さて、刑事(あのお嬢さん)は、この旋律(ノイズ)を聞き取れたかな」


 彼は独り言つと、うっすらと口元を緩めた。

 その笑みは、新しいおもちゃを見つけた子供のように、無邪気で残酷なものだった。


 ミスト・ヘイヴンの霧は、今夜も深く、そして濃い。

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