第29話 黒い汽笛の亡命者 ~蒼き毒と裏切りの銃弾~
装甲列車“皇帝・ヴィルヘルム号”。
急カーブを抜け、車体の傾きが戻ると同時に、ヴィクターの指先が最後のダイヤルを回しきった。
カチリ。
その音は、銃の撃鉄が落ちる音よりも小さく、しかし重く響いた。
数百の歯車が一斉にロックを解除し、黒檀の蓋が、まるで大輪の花が咲くように滑らかに展開していった。
「開いた……! 開いたぞ!」
ハインリッヒ博士が、点滴スタンドを引きずりながら近づく。
50年間、帝國の誰もが開けられなかった“クロノスの遺産”。
その内部は、複雑怪奇なギアの迷宮の底に、一本のシリンダーが鎮座するという構造だった。
厚さ3センチの鉛ガラスで覆われたシリンダーの中には、美しい、目の覚めるような蒼碧色の液体が満たされている。
照明を受けて揺らめくその液体は、宝石のように美しく、そして背筋が凍るほど禍々しいオーラを放っている。
「……これが、帝國の遺産か」
ヴィクターは、美しくも恐ろしいその輝きに目を細めた。
化学薬品特有の臭気は漏れていない。だが、直感が告げている。
これは“兵器の設計図”などではない。
“兵器そのもの”だ。
「おお……美しい……! これさえあれば、亡命の手土産どころではない。私はどの国でも神として迎え入れられる!」
ハインリッヒが震える手でシリンダーを掴み取ろうとした。
その時。
バンッ!!
乾いた破裂音。
狭い執務室の中では、鼓膜を破らんばかりの轟音。
ハインリッヒの身体が、操り糸を切られた人形のように跳ねた。
彼の胸には、風穴が空いていた。心臓を一撃で撃ち抜かれたのだ。
博士はシリンダーに触れることなく、崩れ落ちた。溢れた血がマホガニーを黒く染めていく。
「……何故、だ……ヴォル……コフ……?」
彼は血泡を吹きながら、副官である大佐を見上げる。
ヴォルコフの手には、煙を上げる大口径のリボルバーが握られていた。
「ご苦労だった、ドクター。……貴様の仕事はこれで終わりだ」
ヴォルコフの声には、慈悲も敬意もない。ただ事務処理を終えた役人のような冷淡さだけがあった。
「な、亡命……は……?」
ヴォルコフは冷たい目で屍を見下ろした。
「そんなものはない。これは極秘任務だ」
「この箱は帝國でも危険すぎて廃棄処分が決まっていた。だが、中身を取り出す術がなかった。……そこで貴様という餌を使い、この中立都市一の技術者に開けさせたというわけだ」
つまり、ハインリッヒは利用されたのだ。
箱を開けるための“生体キー”として、そして使い捨ての運搬役として。
ヴォルコフの銃口が、ゆっくりとヴィクターに向け。
「礼を言うぞ、時計屋。……この蒼い液体、『静寂の死』は、気化すれば半径5キロの生物を瞬時に壊死させる神経ガスとなる。処理に困っていたのだが……」
大佐は歪な笑みを浮かべる。
「ここで使えば、事故に見せかけられる。老いぼれの科学者が、亡命に失敗して自暴自棄になり、ミスト・ヘイヴンを道連れにした……というシナリオでな」
彼は最初から、この街でバイオテロを起こし、証拠隠滅するつもりだったのだ。
「……やはりな。珈琲の淹れ方がなっていない連中だ」
ヴィクターは眉一つ動かさず、死の筒の前に立ちはだかっていた。
銃口を突きつけられても、彼の心拍は乱れない。
なぜなら、彼はまだ“作業中”だったからだ。
「撃てるものなら撃ってみろ、大佐。……私の指が離れた瞬間、この箱がどうなるか教えてやろう」
ヴィクターの右手が、箱の内部にある小さなレバーに掛かっていた。
「……デッドマン・スイッチか?」ヴォルコフが警戒する。
「それ以上だ。……製作者であるクロノス一世は、なかなかの皮肉屋だ。箱が開くと同時に、第二の機構が動き出している」
チ、チ、チ、チ……。
箱の奥底から、微かな、しかし加速していく秒針の音が聞こえる。
「これは遠心分離機だ。私が押さえているこの安全装置を外せば、内部のローターが高速回転し、ガラスシリンダーを粉々に砕く。……お前が私を撃てば、コンマ1秒後には、この車両全員があの世行きだ」
ヴィクターは、嘘の中に真実を混ぜた。
確かに内部で何かが動いている。だが、それが破壊装置かどうかは、ヴィクター自身にも分からない。
しかし、ハッタリとしては十分だった。
猛毒を前にして、引き金を引ける正気をヴォルコフが持っているかどうか。
ヴォルコフの額に汗が滲む。
「……小賢しい真似を」
彼らは兵士だ。死を恐れない訓練を受けているが、無意味な自殺は教義に反する。
ヴォルコフが合図を送る。
「なら、貴様ごと列車から放り出すまでだ」
部屋の入り口を固めていた“黒犬”兵士たちが、警棒とスタンガンを構えてジリジリと間合いを詰め始めた。
(……多勢に無勢か)
ヴィクターは計算した。
左手の時計からワイヤーを射出しても、一度に倒せるのは二人まで。残りの三人に抑え込まれれば終わりだ。
出口は一つ。窓は強化ガラス。
完全に詰んでいる。
――ガガガガッ!
その時。
頭上の天井から、何かを引き裂くような金属音が響いた。
全員の視線が上を向く。
ドォォォォンッ!!
天井の通気口のダクトが蹴破られ、一人の人影が降りてきた。
煤と油にまみれ、黒いドレスの裾をボロボロにした“踊り子”――セレナ・ヴァレンタインだ。
「そこまでよ!」
彼女は着地と同時に、手にしたガラス片の入った袋を兵士たちの中央に叩きつけた。
パンッ!
視界を奪う粉塵。
黒犬たちが「うおっ!?」と怯んだ隙を逃さず、彼女は回転しながら二人の兵士の顎を蹴り上げた。
ドサッ、ドサッ。
人間離れした体術。音で見切るカウンター。
「またお嬢さんか……。正規のチケットは持っているのかね?」
ヴィクターが苦笑すると、セレナは背中合わせに立ち、構えを取った。
「無賃乗車よ。……捕まえるなら、その物騒な箱を片付けてからにして」
セレナは見えない瞳で、正面のヴォルコフを睨みつけた。
彼女の聴覚は捉えていた。
ヴォルコフの脈拍が、ヴィクターの脅しによって乱れていること。
そして何より、ヴィクターが押さえているその箱の内部から、破壊音ではなく、ある種の“メロディ”の予兆が聞こえていることを。
「殺せ! 女もろともハチの巣にしろ!」
ヴォルコフが絶叫し、再び銃を構えた。
もはやガスの危険など構っていられない。プライドを傷つけられた獣の暴走だ。
「ヴィクター!」
セレナが叫ぶ。
ヴィクターは、カフスボタンに指をかけた。
音響兵器。この距離ならヴォルコフの脳を破壊できる。だが、同時に手元のガラスシリンダーも砕け散り、全員が死ぬ。
破壊か、防御か。
(……信じよう。100年前の同業者のセンスを)
ヴィクターは、箱の安全レバーから手を離した。
さらに、箱の底にある“最後のスイッチ”を押し込んだ。
「プレゼントだ、大佐。……帝國の“時間”を受け取れ」
彼は箱を、ヴォルコフに向かって滑らせた。
「なっ……貴様ッ!?」
ヴォルコフは反射的に銃を下ろし、飛んできた箱を受け止めてしまった。
箱の中で、高速回転していたローターが限界に達し、ロックが外れる音がした。
カチリ。
死のガスが噴き出す――誰もがそう思った。
だが。
箱から溢れ出したのは、毒ガスではなかった。
――ポロロン……。
音だった。
オルゴールの音色。
それは帝國の国歌でも、軍歌でもない。
100年前、帝國で禁じられていた、古い子守唄の旋律。
「……なに?」
ヴォルコフが呆気にとられる。
オルゴールの音色は、特殊な共鳴板を通じて増幅され、列車内の殺伐とした空気を、優しく、哀切に塗り替えていく。
兵士たちが、困惑して武器を下ろす。
「馬鹿な……。最強の兵器だと……? これが?」
箱の中のシリンダーに入っていた液体は、毒ガスなどではなかった。
ただの、色つきのアルコール――高級なリキュールだったのだ。
『平和な夜に、乾杯を』。
箱の底からせり上がってきた真鍮のプレートには、そう刻まれていた。
クロノス一世は、亡命先で兵器を作れと命じられ、命がけでこの“史上最も高価なオルゴール”を作り上げたのだ。
愚かな戦争屋たちへの、痛烈な皮肉として。




