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時計屋ヴィクターの“修理”報告書 ~ミスト・ヘイヴンの時計師~  作者: ニート主夫


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第28話 黒い汽笛の亡命者 ~悪魔の飲む珈琲~

 装甲列車“皇帝・ヴィルヘルム号”、最後尾。

 王の執務室さながらの絢爛な部屋に、異質な香りが立ち込めていた。

 最高級のアラビカ豆を深煎りし、90度の湯で丁寧に抽出した珈琲(コーヒー)の香り。


 部屋の中央、重厚なマホガニーの机に、ヴィクターは優雅に座していた。

 目の前には、湯気を立てるマイセン磁器のカップ。

 そして、それとは対照的に不吉なオーラを放つ黒檀の箱、“クロノスの遺産”。


 ヴィクターはカップを口元へ運び、一口(すす)った。

 そして、無言でソーサーに戻す。

 カチン、という磁器の音が、部屋に張り詰めた緊張を震わせ。


「……味は悪くない。だが、抽出温度が高すぎる。これでは豆の持つ酸味が飛び、ただの苦い泥水に近づいてしまう」


 彼はまるで、馴染みのカフェでバリスタに苦言を呈するかのような口調で言った。

 車椅子のハインリッヒ博士と、銃に手をかけたヴォルコフ大佐が顔を見合わせる。この状況で珈琲のダメ出しをする人質など、前代未聞だ。


「……貴様、立場が分かっているのか」


 ヴォルコフが唸るが。ヴィクターはそれを無視し、シルクの手袋をゆっくりと外し、素手になった。

 指先。

 それが彼にとっての目であり、舌であり、神に触れるための器官。


「始めよう。……静粛に願う」


 ヴィクターは両手を、黒い箱の上に置いた。

 指の腹で、複雑な幾何学模様が刻まれた表面をなぞる。

 冷たい。そして、微かに震えている。

 この箱の中には、何百、何千という歯車や発条(ゼンマイ)が封印されており、それらが惑星の公転のように、見えない核を中心にして回り続けていた。


 チチチチ……キリキリ……。


 耳を澄ますまでもない。ヴィクターの指先には、内部の歯車一つ一つの噛み合わせ、摩擦係数、潤滑油の粘度までもが、電流のような情報となって流れ込んでくる。


(……“クロノス一世”。……なんと美しい構造だ)


 ヴィクターは恍惚とした溜息を殺し。

 これは金庫ではない。一つの生命体。

 50年前に作られたとは思えない、現代の精密工学をも凌駕する“失われた技術(ロスト・テクノロジー)”。

 だが、その調和の中に、一箇所だけ致命的なノイズがある。


(3番目の回転盤、ラチェット機構にわずかな歪み。……ここか)


 ヴィクターは懐から、一セットの極細の金属棒――特注のピックツールを取り出した。

 それを、箱の側面にある微細な排気口(ベント)に差し込む。

 0.1ミリの誤差も許されない、神経の手術(オペ)が始まった。


 ハインリッヒが叫ぶ。

「何をしている! そこは鍵穴ではないぞ!」


「黙りたまえ。……この箱は“呼吸”している。通常の解錠手順を行えば、内部の気圧センサーが反応して化学兵器が撒き散らされる仕掛けだ」


 ヴィクターは手を止めずに冷淡に告げた。


「貴方がたが連れてきたハッカーたちは、玄関から入ろうとして爆死したのだろう? ……私は違う。この箱の呼吸のリズムに合わせて、肋骨(フレーム)の隙間から心臓を撫でるのだ」


 カチッ。

 ピックの先が、内部の脱落しかけていた歯車を捉えた。

 ヴィクターの額に一筋の汗が流れる。

 ここからが正念場だ。歯車を正しい位置に戻すには、箱自体の回転運動を利用しなければならない。


 唐突に、ヴィクターが命じた。

「列車を出せ」


「……は?」


「走らせろと言っているんだ。今の停車状態では、重力が安定しすぎている。カーブを曲がる時の“遠心力(G)”を利用して、内部の振り子を誘導する」


 ヴォルコフがハインリッヒを見る。博士は脂汗をかきながら、無言で頷いた。


「……出発進行! 総員、配置につけ!」


 ブシューッ!

 巨大な蒸気排出音と共に、鋼鉄の要塞“皇帝・ヴィルヘルム号”が唸りを上げた。

 ガタン、ゴトン。

 車輪が回転を始め、数百トンの質量がゆっくりと、しかし確実に動き出す。


 ◇◇◇


装甲列車の屋根の上


 急激な加速G(ジー)が、屋根に張り付くセレナの体を襲った。

 風圧。そして振動。

 彼女はマグネットのように車両に密着しながら、心の中で舌打ちした。


(動き出した……! 港から離れる気ね)


 装甲列車は、海沿いの貨物線を経由して、山岳地帯へと抜けるルートを走るはずだ。

 加速すればするほど、振り落とされるリスクは高まる。

 さらに悪いことに、前方から複数の“足音”が近づいてくるのが聞こえた。


 ザッ、ザッ、ザッ。


 強風の中でも乱れない、機械のような行進音。

 帝國の親衛隊、“黒犬(ブラック・ハウンド)”の見回りだ。彼らは防風ゴーグルとマグネットブーツを装備し、揺れる車上でも平地のように歩く訓練を受けている。


「……3人」


 セレナは白杖を持たず、腰のベルトにナイフを吊るしていた。

 ここは戦場だ。確保や逮捕ではない。排除か、死か。

 彼女は風下にある通風ダクトの陰に身を隠した。

 カミソリ風が、彼女の体臭や衣擦れの音を後方へと消し去ってくれる。


(……外の掃除は、私の仕事よ)


 先頭の兵士が、ダクトの横を通り過ぎようとした瞬間。

 セレナは煙のように立ち上がった。

 音はない。殺気さえも風に乗せて消した。


 彼女は兵士の首に後ろから腕を回し、頸動脈(けいどうみゃく)を正確に圧迫した。

 声帯を潰すように絞める。悲鳴は出ない。

 カクン、と兵士が意識を落とす。

 倒れる前に身体を支え、音もなく屋根の上に寝かせる。


 ――1人。


 だが、そのわずかな異変に、後続の2人が気づいた。

 

「敵襲! 12時方向!」


 無線のノイズと同時に、ライフルの銃口が向けられる。


 セレナは懐から“ある物”を取り出し、彼らの足元へ投げつけた。

 それは爆弾ではない。

 先日、事件の現場で回収した、大量のガラス片――を粉々に砕いた“ガラスの粉”が入った袋だ。


 パンッ!

 袋が破裂し、強風に乗ってガラスの粉塵が舞い上がった。

 それは目に見えない散弾となって、兵士たちの顔面を襲う。防風ゴーグルの隙間から入り込んだ微細なガラス粉が、彼らの眼球を傷つけ、激痛を与えた。


「ぐアアッ! 目が!」


 視界を奪われた兵士たちが怯んだ隙に、セレナは間合いを詰めた。

 彼女にとって、目が見えないことはハンデではない。常在戦場(デフォルト)だ。

 視界に頼って生きる彼らが闇に落ちた時、勝敗は決していた。


 ドガッ! バキッ!


 鳩尾(みぞおち)への掌底。膝関節へのローキック。

 的確に急所を破壊された兵士たちが、声もなく崩れ落ちる。

 彼女は彼らを車両から突き落とすことはしなかった。線路脇に死体をばら撒けば、騒ぎが大きくなるからだ。ワイヤーでダクトに縛り付け、無力化する。


「……あと、何人?」


 彼女は乱れた髪をかき上げ、風上(前方)を見据えた。

 列車は加速し、轟音を上げて鉄橋へと差し掛かろうとしている。

 その先頭車両から、今までとは違う、重く、そして異様に静かな“殺気”が漂ってくるのを、彼女の肌は感じ取っていた。


 ◇◇◇


装甲列車内部・執務室


 ゴオォォォォ……!

 列車が急カーブに差し掛かり、遠心力で車体が大きく傾く。

 固定されていない調度品がガタガタと震える中、ヴィクターの手元だけは、真空の中にいるかのように静止している。


「……今だ」


 傾斜角15度。

 この(重力)を利用して、内部の脱落した歯車をスライドさせる。

 ヴィクターは左手のピックで内部のラチェットを抑え、右手で箱の側面を軽く叩いた(タッピング)。 コン。


 その衝撃と遠心力が完全に調和した瞬間。

 箱の内部から、カチリ、という微小な、しかし決定的な音が響いた。


「ハマったぞ……!」


 ハインリッヒ博士が車椅子から身を乗り出す。

 だが、ヴィクターの表情は険しいままだ。

 まだ第一段階。物理的な破損は修復できたが、ここからが“クロノスの迷宮”の本番だ。


 ヴィクターが問う。

「解除コードは?」


 ハインリッヒが暗唱する。

「『皇帝の涙は真夜中に凍る』……これを数値化したものだ。ダイヤルを右に12、左に0、右に0、左に……」数字に合わせて、ヴィクターは表面のダイヤルを回す。


 だが、ヴィクターの指先は感じていた。

 この箱には、表面的なロックの下に、もう一つ、製作者(クロノス一世)が仕掛けた“意地悪な罠”が潜んでいることを。


(ダイヤルの感触が軽すぎる。……これは偽のゲートだ)


 もし、博士の言う通りの数字で最後まで回しきれば、その瞬間に防衛機能が作動し、溶解液が噴き出すだろう。

 帝國軍の最高機密を守るための、裏切り防止用の二重トラップ。


「待て。……何かがおかしい」

 ヴィクターはダイヤルを回す手を止めた。


「何をしている! あと5分で第一リミットが来るぞ! 止めれば爆発する!」

 ヴォルコフ大佐が銃口をヴィクターの頭に突きつける。


 冷たい銃口の感触。

 だが、ヴィクターは無視して、箱に耳を押し当てた。


 チク、タク、チク、タク……。


 規則的な時計の音。

 そのリズムの中に、モールス信号のような不規則なスキップが混じっている。

 ――短・短・長・短……。(……このリズムは、“(ポエム)”か?)


 伝説の時計師、クロノス一世。

 彼は晩年、祖国を追われ、亡命先でこの箱を作ったとされている。

 彼が本当に守りたかったのは、兵器の設計図か? それとも、別の“想い”か?


「……ふっ、そうか。アンタも、ロマンチストだったというわけか」

 ヴィクターは口元を緩めた。

 彼はハインリッヒの指示した数字を無視し、全く別の座標へダイヤルを回し始めた。


「貴様! 気でも狂ったか!?」


「黙っていろ。……葬送行進曲(デス・パレード)を聞きたくなければな」

 ヴィクターは賭けに出た。

 自分の職人としての勘と、100年前の天才との“対話”に命を預けたのだ。


 カチ、カチ、カチ……。

 ダイヤルが回る。

 汗一滴流さず、死の箱と戯れるその姿は、ハインリッヒの目には悪魔のようにも、神のようにも映った。


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