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時計屋ヴィクターの“修理”報告書 ~ミスト・ヘイヴンの時計師~  作者: ニート主夫


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第27話 黒い汽笛の亡命者 ~鋼鉄の胃袋と双頭の鷲~

 ヴィクターは革張りのシートに深々と体を預け、流れる車窓の景色――いつも見慣れた街並みが、スモークガラス越しに灰色の廃墟のように過ぎ去っていくのを眺めていた。


 黒塗りの高級リムジンが、ミスト・ヘイヴン中央駅の裏口、一般車両立ち入り禁止の0番線ホームへと滑り込んだ。

 車内は、死体安置所のように冷たく、沈黙が支配していた。


 隣には、先ほどの鉄面皮の大男。

 男の膝の上には、無骨なサブマシンガンが、いつでも火を噴ける状態で置かれている。


「……随分と物々しい歓迎だ。まるで大統領のパレードだな」


 ヴィクターが皮肉を投げると、男は眉一つ動かさずに答えた。


「これはパレードではない。輸送(トランスポート)だ。貴様もまた、貴重な部品(パーツ)の一つに過ぎん」


 車が停止した。

 ドアが開かれると、そこには壁のような“鉄の崖”がそびえ立っていた。

 装甲列車『皇帝(カイザー)・ヴィルヘルム号』。

 リベットが無数に打ち込まれた黒鉄の車体は、全長200メートルを超える動く要塞だ。蒸気機関の熱気が、朝霧を白く濁らせ、シューッ、シューッという呼吸音が、まるで巨獣が獲物を待ち構える息のように響いている。


 ヴィクターが車を降りると、ホームに整列していた“黒犬(ブラック・ハウンド)”部隊が一斉に靴音を鳴らした。

 ザッ!

 完璧な統率。個人の感情を完全に摩耗しきった、殺人機械たちの儀礼。


(……気に入らないリズムだ)


 ヴィクターは、コートの埃を払うふりをして、周囲を観察(スキャン)した。

 狙撃手3名。入り口の左右に重機関銃。そして、車両から漏れ出る微かな“硫黄の臭い”。

 これは亡命者の護衛レベルを超えていた。

 彼らは何かを“持ち込んで”いる。都市一つを灰にできるほどの、危険な何かを。


「入れ」


 背中を小突かれ、ヴィクターは鋼鉄のタラップを昇った。

 その瞬間、気圧が変わった。

 列車の中は、完全に外の世界から隔絶された異空間だった。

 分厚い鉛の壁で遮音され、レールの継ぎ目を渡る音すら聞こえない静寂。空気は循環装置によって濾過され、消毒液と古いブランデー、そして微かな血の臭いが混じった独特の芳香が漂っている。


 長い廊下。

 壁には帝國の英雄たちの肖像画。足元には深紅の絨毯。

 ここは列車ではない。走る宮殿であり、走る処刑場だ。


 ヴィクターは、最後尾にある一等客室――というより、王の執務室のような広間へと通された。

 部屋の中央には、マホガニーの巨大な机。

 その奥に、車椅子に座る一人の小柄な老人がいた。

 頭髪は薄く、顔には死相のような茶色いしみが浮いている。鼻には酸素チューブを通し、呼吸をするたびに胸が苦しげに上下している。


 ドクター・ハインリッヒ。

 かつて帝國の科学技術局長を務め、数千人の孤児を実験材料にして“最強の兵士”開発を指揮した男。

 ヴィクターの幼少期の記憶において、ガリヴァーが現場監督だとするなら、このハインリッヒこそが設計者(アーキテクト)だ。


「……来たか、404(ヨンマルヨン)


 ハインリッヒが、枯れ木のような指を動かした。

 声はかすれ、壊れた蛇腹楽器のように震えている。


「その呼び名は捨てたと言ったはずだが? ドクター」


 ヴィクターは立ったまま、冷徹な視線で見下ろした。

 かつては見上げるほど巨大で恐ろしい存在だった男が、今はこんなにも小さく、死臭を漂わせている。

 時間の流れは残酷だが、時に公平な裁定者でもある。


「フフ……まあいい。ヴィクター・クロノス。この街で一番の腕利きになったそうだな。……教育が役に立ったようで、鼻が高いよ」


「用件を聞こう。私の時間を無駄にするな。ここ(帝國領土)の空気は私には合わない」


「せっかちだな。……まあよい。時間がないのは私も同じだ」


 ハインリッヒは、そばに控えていた副官に合図をした。

 副官――右目に眼帯をした冷酷そうな軍人、ヴォルコフ大佐――が、机の上に(うやうや)しく一つの“箱”を置いた。


 ドン。

 重厚な音がした。

 それは、一見すると大きな宝石箱か、アンティークのオルゴールのようだった。

 黒檀の木箱に、複雑な幾何学模様の銀細工が施されている。だが、異様なのはその鍵穴だ。

 通常の鍵穴ではない。

 無数のダイヤル、歯車、そして天体の運行を模したような、極めて複雑な“機械式暗号鍵クリプテックス”が、箱の表面を埋め尽くしている。


「これを開けてもらいたい」


 ハインリッヒが、血を吐くような咳をしながら言った。


「帝國が50年かけて開発した、国家最高機密の設計図が入った保管箱だ。……中身は、言えん。だが、もしこれが開けば、世界の軍事バランスが一夜にしてひっくり返るほどの代物だ」


「……鍵をなくしたとでも?」


「鍵など最初からないのだよ。これは“時限式の封印”だ。ある特定の時間、特定の天体配列、そして特定の……手順を踏まなければ、中の化学物質が反応して中身ごと溶解する仕組みだ」


 ヴォルコフ大佐が口を挟む。


「我々は帝國のあらゆる電子解析機、ハッカーを総動員したが、開けられなかった。……こいつは電子回路を一切使っていない。純粋な『物理的演算』のみで構成された、狂気のアナログ迷宮だ」


「製作者は?」


「……100年前の時計師、『クロノス一世』だ」


 ヴィクターの心臓が、微かに反応した。

 クロノス一世。

 それは伝説の時計師であり、ヴィクターが今の偽名を名乗るきっかけとなった、彼の憧れの技術者だ。


「私が開発した新型兵器のデータを、その箱に入れた。亡命の手土産としてな。だが……運搬中の衝撃か、私の老いによる記憶の欠落か……ロック機構の歯車が一つ、内部で脱落したようだ」


 ハインリッヒは震える手で箱を撫でた。


「開かない。私の記憶にあるコードを入力しても、拒絶される。……直せ、ヴィクター。中の設計図を無傷で取り出せるのは、帝國広しといえども、お前の指先しかいない」


 ヴィクターは、黒檀の箱に近づいた。

 耳を澄ます。

 ルーペを取り出し、箱の表面に触れる。


 チ……チ……チ……。


 微かだが、聞こえる。

 内部で回る数百、数千の極小歯車の音。それはまるで、小さな宇宙が箱の中に閉じ込められているかのようだ。

 そして、その宇宙のリズムの中に、一箇所だけ、ほんの髪の毛一本分ほどの“ズレ”がある。

 脱落した歯車の音だ。


(……美しい)


 ヴィクターは不覚にも魅入られた。

 中身が大量殺戮兵器の設計図であろうと、箱そのものの機構は芸術品だ。この複雑怪奇なパズルを解きたいという職人としての本能が、疼いてしまう。


「……中身が溶けるまでのリミットは?」


「あと24時間。……それまでに開かなければ、この箱はただの鉄屑となり、私は帝國の追っ手に殺され、この街も……」


 ハインリッヒはニヤリと笑った。死人のような顔で。


「道連れだ。この箱の溶解液は、気化すれば強力な神経ガスになる。ミスト・ヘイヴンくらいなら、住人の半数は死ぬだろうな」


 ヴィクターの目が凍りついた。

 依頼ではない。

 これは、街全体を人質に取った、強制的な解除命令だ。


「……汚い手だ」


「称賛と受け取っておこう。……やれるか?」


 ヴィクターは箱に手を置いたまま、冷たく告げた。


「やれるか、ではない。……やる価値があるかどうかだ」


 一触即発。

 ヴォルコフ大佐の手がホルスターの銃に伸びる。

 空気が、張り詰める。


 その時。

 装甲列車の分厚い鉄壁を隔てた“外の世界”から、微かな異変が伝わってきた。

 ヴィクターにしか感じ取れない、ある種の“気配”の波紋。


(……来ているな)


 あの“耳の良いお嬢さん”が、この鉄の塊の周りを嗅ぎ回っている気配。

 彼女もまた、この黒い霧の中に潜む怪物(リスク)を察知して、無謀にも飛び込んできたのだ。


「いいだろう」


 ヴィクターはフッと力を抜いて、椅子に腰掛けた。


「引き受けよう。……ただし、私の作業場はこの部屋ではない。集中できる静かな場所と、最高のコーヒーが必要だ。そして……観客(ギャラリー)は不要だ」


「好きにせよ。だが逃げ出そうとすれば、外に待機している黒犬たちが、この街を火の海にするぞ」


 契約は成立した。

 ヴィクターは、手元の美しい悪魔の箱を見つめながら、その硬質な表面を指の関節で叩いた。


 コツ、コツ、コツ……。


 それは適当に叩いたのではない。箱の内部構造(空洞の響き)を確かめるための、職人特有の検分動作だ。

 だが同時に、その正確無比なテンポ――リズムは、壁を隔てた外側にいる「彼女」へ向けた、暗号(シグナル)でもあった。


 『ゲーム・スタートだ。……私のリズムに遅れるなよ』



同刻、装甲列車の屋根の上


 カミソリのような風が吹き荒れる中、腹這いになって車体にしがみついている影があった。

 セレナだ。

 彼女は警備の隙――換気扇の排気音に合わせて移動するという離れ業――を突き、列車の屋根へと取り付いていた。


「……聞こえたわ」


 彼女は車両の冷たい鉄板に耳を押し当ててた。

 分厚い装甲を通して、微かに、しかし確実に伝わってくる規則的な振動。


ト……、ト……、ト……。



 それは、ただのノックではない。

 完全に一定の間隔。一分の狂いもない、60BPMのテンポ。


 セレナは無意識に、自分の胸元に手をやった。

 そこにある銀の懐中時計。

 かつて、あの古時計店の主人が「半世紀は狂わない」と言って修理してくれた、彼女の宝物。

 鉄板から伝わる振動と、懐中時計の刻む鼓動が、奇跡のように重なり合っていた。


(……この正確さ。中にいるのね、ヴィクター)


 セレナは確信した。

 彼は捕まっているのではない。戦っているのだ。

 何かしらの交渉(ディール)を行い、外にいる自分に「私はここにいる」と告げている。


「……なら、私は私の仕事をしましょう」


 彼女は懐から、小型の無線機を取り出した。警察用ではない。傍受不可能な周波数に改造された、特殊な通信機。

 相手は、警察内部で唯一信頼できる鑑識官の友人だ。


『……セレナか? おい、今どこにいる。上層部は帝國の介入にビビりまくって、捜査打ち切りを命じてきたぞ』


「想定内よ。……ねえ、調べてほしいの。『黒い箱』について」


『箱?』


「ええ。失われた、帝國のクロノス・シリーズと呼ばれる暗号機。……この列車が運んでいるのは病人じゃない。もっと厄介な時限爆弾よ」


 セレナは白杖代わりのコンバットナイフを抜き、列車の通風孔のボルトに突き立てた。

 中に入って彼を助けるのではない。

 彼が集中できるように、外側の“雑音(邪魔者)”を掃除するのだ。


 装甲列車の屋根の上で、見えない瞳が黒い霧を睨む。

 夜明けは近いが、この街の夜はまだ明けそうにない。


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