第26話 黒い汽笛の亡命者 ~鉄のレヴィアタン~
その日の朝、ミスト・ヘイヴンの港湾地区に立ち込めていたのは、いつものロマンチックな乳白色の霧ではなかった。
もっと質量のある、肺腑を焦がすような亜硫酸ガスと、重油を焚いた煤煙が混じり合った、黒ずんだ煙霧だった。
午前5時。
夜明け前の最も深い静寂の中、ミスト・ヘイヴン中央駅の最も海側に位置する、普段は閉鎖されている「0番線ホーム」。
そこに、隣国である軍事帝國“ガルディア”からの直通線路を通って、一台の巨大な列車が滑り込んできた。
それは客車ではない。
装甲列車だ。
先頭車両には、城壁のような排障器が備え付けられ、リベットが打ち込まれた分厚い鋼鉄のボディは、機関銃の掃射すら跳ね返す強度を誇る。
蒸気機関車特有のシュッシュッという呼吸音は、ここでは「ゴォッ、ゴォッ」という、巨大生物の威圧的な咆哮のように響いていた。
プシュウゥゥゥーーーー……。
断末魔のような蒸気の排出音と共に、鉄の塊が停車する。
その重量感は、駅の石畳を物理的に振動させ、数キロ離れた地点にある家の窓ガラスさえ微かに震わせるほどだった。
ホームには、異例の光景が広がっていた。
ミスト・ヘイヴン市警の制服警官たちが排除され、代わりに黒いロングコートを着て自動小銃を構えた、見知らぬ男たちが警備に当たっていたのだ。
彼らは一言も発さず、彫像のように直立不動で、鋭い視線だけを周囲の闇に走らせている。
帝國大使館の警護隊――通称“黒犬”。
外交特権を持つ彼らの前では、地元の警察権力など無きに等しい。
「……嫌な音だわ」
遠巻きに規制線の外からその光景を見つめる影があった。
セレナ・ヴァレンタイン刑事だ。
彼女は警部からの極秘命令を受け、非公式にこの「国賓」の到着を確認しに来ていた。
目に見えない彼女の感覚器官は、目の前の装甲列車から発せられる情報を、視覚以上に鮮明に捉えていた。
(熱いわ。ボイラーの余熱が、50メートル離れた場所まで届いてくる)
そして、何より彼女を戦慄させたのは“音”だった。
装甲列車から降りてくる男たちの足音。
カツ、カツ、カツ。
数十人が降りてきたはずなのに、まるで一人の巨大な人間が歩いているかのように、足音が完全に揃ってる。
一糸乱れぬ統率。個の感情を完全に殺し、命令の一部と化した兵隊たちの音。
(ラズロやダニエルとは違う。……これは“組織”という名の怪物ね)
やがて、車両の中央部から、車椅子に座る一人の小柄な老人が降りてきた。
周囲を屈強な兵士たちに囲まれ、護送されている――あるいは、連行されているように見える男。
彼こそが、今日の主役である亡命科学者、ドクター・ハインリッヒだ。
帝國の重要人物が、なぜこの中立都市ミスト・ヘイヴンへ逃げ込んできたのか。公式発表では「病気療養」とされているが、その背後にあるきな臭さは、この黒い霧よりも濃厚だった。
セレナは、白杖を握る手に力を込めた。
彼女の並外れた聴覚が、ドクター・ハインリッヒの胸元から聞こえる“異質な音”を捉えたからだ。
ドクン、ドクン、ドクン……。
心拍音。
それは、怯えきった小動物のように早鐘を打ち、今にも心停止しそうなほど乱れていた。
彼は助けを求めている。
護衛されているはずの人間が発する音ではない。それは、死刑台に向かう囚人の音だ。
「……これは、ただの外交問題じゃ済まないわね」
セレナは独りごちた。
巨大な嵐が来る。
それはミスト・ヘイヴンの法も正義も通用しない、国家という暴力の嵐だ。
同刻、古時計店『失われた時間』
午前5時15分。
まだ夜明け前の薄暗い店内で、ヴィクターは作業台に向かっていた。
彼が扱っているのは時計ではない。
高精度の地震計のような、水平器と振り子を組み合わせた特殊な調整器具だ。
その振り子が、先ほどから奇妙な振動を繰り返していた。
揺れは肉眼では見えないほど微細だが、ヴィクターの研ぎ澄まされた感覚にとっては、地響きにも等しい不快感だった。
「……大地が歪んでいるな」
ヴィクターは、淹れたばかりのコーヒーに手を伸ばしたが、カップの水面に立つ波紋を見て飲むのをやめた。
地殻変動ではない。
もっと局所的で、人為的な“重圧”が、この街の敷石を踏みしめている。
港の方角。駅。
そこに、巨大で、無粋で、圧倒的な質量を持つ何かが鎮座した。
その物体から発せられる波動は、ヴィクターが最も嫌悪する「軍事産業」特有の、油と鉄と血の臭いを帯びていた。
「おはよう、ヴィクター。……って、起きてたのか」
2階から、寝ぼけ眼のレオが降りてきた。
彼はあくびを噛み殺しながら、窓の外を見る。
「なんだか、今日は空気が重いな。霧が黒っぽいっていうか……。また誰か、変な爆弾魔でも来たのか?」
ヴィクターは調整器具を片付け、静かに立ち上がった。
彼の脳裏に、古い記憶の引き出しが開く。
20年前。彼がまだ名前を持たない「404番」だった頃、施設に視察に来ていた軍人たちが纏っていた空気。
個人の命を数字としか認識せず、効率と破壊だけを追求する冷徹な論理。
その亡霊が、今まさに、この街の土を踏んだのだ。
「いいや。……爆弾魔などという可愛らしいものではない」
「レオ。今日は店を開けるな」
「えっ? どうして?」
「客が来る。……ただし、時計を直しに来る客ではない」
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
店の表で、重々しいエンジンの音が止まった。
ドアベルなど鳴らさない。
無遠慮なノックの音が、静寂を暴力的に叩き壊した。
ドン、ドン、ドン。
ヴィクターは表情一つ変えず、レオに「奥へ行け」と目線で合図した。
そして、ゆっくりと扉へと歩み寄り。
鍵を開ける。
そこに立っていたのは、軍服のようなかっちりとしたスーツに身を包んだ、鉄面皮の大男だった。
胸元には、帝國の紋章である「双頭の鷲」のバッジ。
男はヴィクターを見るなり、感情のない声で告げた。
「ヴィクター・クロノスだな」
「……ここは時計店だ。名乗る前に用件を言わないのは、この街ではマナー違反だが」
「用件ならある。……『過去の清算』についてだ」
男は懐から、一通の封筒を取り出した。
それは修理の依頼書ではない。
黒い蝋で封印された、国家機密指定の招集状だった。
「同行願おう、技術者殿。……我らが“国宝”であるハインリッヒ博士が、君の腕を見込んでご指名だ」
ヴィクターの瞳が、一瞬だけ鋭く収縮した。
ハインリッヒ。
その名は、かつて矯正施設で、子供たちを使って人体実験を繰り返していた“マッドサイエンティストの筆頭”の名前だ。
ガリヴァーの上司にあたる男。
つまり、ヴィクターにとっては、自分の人生を狂わせた元凶の一つ。
「……私が断ると言ったら?」
「選択権はない。君のこの店の借地権、そして……裏の顧客リスト。全て我々が握っている」
男はニヤリともせず、淡々と脅迫した。
国家レベルの力の前では、一介の時計師の生活など、指先一つで吹き飛ばせる塵に過ぎない。
(……面白い)
ヴィクターの腹の底で、ドロリとした冷たい怒りが渦巻いた。
これは脅迫ではない。挑戦状だ。
彼らは虎の尾を踏んだ。
ミスト・ヘイヴンという街が、ヴィクターにとっての「庭」であり、そこに土足で踏み込むことがどれほど危険かを知らない愚か者たち。
「いいだろう」
ヴィクターは、あえて穏やかな笑みを浮かべ、ジャケットを羽織った。
「ちょうど退屈していたところだ。……その“国宝”とやらのネジがどれほど緩んでいるか、診断してあげよう」
黒塗りの車に乗り込むヴィクター。
その背中を、物陰から心配そうに見つめるレオの姿があった。
装甲列車という「鉄の城」へ向かうその道行きは、過去との決別ではなく、過去との全面戦争の始まりだった。




