第25話 口笛の亡霊と閉ざされた瞳 ~調律された午後~
数日後。
嵐が過ぎ去ったミスト・ヘイヴンには、再びいつもの穏やかな、乳白色の霧が戻っていた。
古時計店『失われた時間』。
店主のヴィクターは、カウンターで修理上がりの柱時計の振り子を調整していた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
一定のリズム。完璧な調和。
先日までの、耳を刺すような高周波のノイズは、もうこの街にはない。
カラン、コロン。
ドアベルが鳴り、一人の客が入ってきた。
黒いトレンチコートに、サングラス姿の女性。
セレナ・ヴァレンタインだ。
彼女の耳には、まだ白い包帯が見えるが、その足取りは力強く、迷いがない。
「いらっしゃいませ。……修理のご依頼ですか?」
ヴィクターは作業の手を止めずに言った。
セレナはカウンターまで歩み寄ると、ポケットから“ある物”を取り出し、ことりと置いた。
一本の、銀色の音叉。
「落とし物よ、店主さん」
彼女は微笑んだ。
「数日前の夜、ひどい騒ぎがあった廃墟で拾ったの。……あなたなら、これが何に使うものか知ってるかと思って」
「……さてね。音楽家が忘れたものでしょう」
ヴィクターは音叉をハンカチで摘み上げた。
指紋など残っていないことは分かっているが、それでも素手では触れないのが彼の流儀だ。
「そうかもね。……おかげで、私の耳鳴りは止まったわ」
セレナはカウンター越しに、ヴィクターの方へ顔を近づけた。
サングラスを少しずらし、まだ傷の癒えきっていない、しかし光のない美しい瞳で彼を見据える。
「あの夜。私の他にもう一人、音を嫌う誰かがいた気がするの。……その人は、私に耳栓をくれて、私をダンスに誘ってくれた」
「奇遇ですね。私もその夜は、妙な悪戯電話に悩まされていましてね」
ヴィクターは音叉を引き出しにしまいながら、独り言のように語った。
「『きらきら星』の下手くそな口笛と、ノイズ混じりの不快な電話だ。……おそらく、自分の縄張りを荒らされたくないチンピラの警告だったのだろうが」
「……口笛?」
セレナが反応する。
ヴィクターは表情を変えずに続ける。
「ああ。だが、もう鳴らなくなったよ。……誰かが、その口笛の主を黙らせてくれたおかげでね」
セレナは、はっとした顔をして、それから深く息を吐き出した。
理解したのだ。
ラズロがあの夜、セレナを誘き出すだけでなく、ヴィクターにも宣戦布告の電話をかけていたことを。
そしてヴィクターがここから動いたのは、彼女のためであると同時に、彼自身の“平穏な時間”を守るための戦いでもあったことを。
「……そう。なら、お互い様ね」
セレナは体を起こし、穏やかな表情に戻った。
「犯人のラズロ・ケインは、重度の平衡感覚障害で入院中よ。一生、めまいと吐き気に悩まされるそうだけど……命に別状はないわ」
彼女は、これで全てが終わったというように、小さく伸びをした。
「ありがとう。……コーヒーのいい香りがするわね」
「飲みますか?」
「いいえ。今日は仕事中だから」
彼女は踵を返した。
だが、去り際に一言だけ、背中越しに言葉を投げた。
「また来るわ。私の時計が狂った時には……直しにね」
カラン、コロン。
ドアが閉まり、静寂が戻る。
ヴィクターは、淹れたばかりのコーヒーを自分のカップに注いだ。
立ち上る湯気。
店の外、霧に煙る街並みを見やりながら、彼は微かに口元を緩めた。
「やれやれ……。手のかかる楽器だ」
だが、その声色には、かつてのような冷徹さだけではない、確かな体温が宿っていた。
孤独なカナリアはもう籠の中にはいない。
そして、硝子の雨も止んだ。
時計師は再びルーペを目に嵌め、己の世界である小さな歯車の海へと潜っていく。
だが、彼らはまだ知らない。
霧の向こうから、国境を越えてやってくる“黒い怪物”の足音が、もうすぐそこまで迫っていることを――。




