第24話 口笛の亡霊と閉ざされた瞳 ~割れた鏡像~
瓦礫とガラス片の山と化したブースの中で、男の悲鳴が上がった。
「あ、足が……! 俺の脚があぁぁぁ!」
ラズロ・ケインは、崩れ落ちた鉄骨の下敷きになり、無様に這いずり回っていた。
かつて爆弾の芸術家を気取り、警察を翻弄した男の見る影もない姿だ。
粉塵が舞う中、二つの靴音が近づく。
一つは重厚でリズムカルな革靴の音。
もう一つは、鋭く地面を叩くハイヒールの音。
「……随分と小さくなったわね、ラズロ」
セレナがラズロを見下ろした。
彼女はまだヴィクターから渡された耳栓を付けていたが、骨伝導で伝わる男の情けない振動だけで、相手の居場所と状態を完全に把握していた。
「セ、セレナ……!? くそっ、見えないくせに!」
ラズロは血走った目で悪態をつき、懐から予備の閃光音響弾を取り出した。
安全ピンに指をかけ、最期の悪あがきをしようとする。
「道連れだ! その耳ごと吹き飛べ!」
バキッ。
だが、ピンを抜くよりも速く、ヴィクターの革靴がラズロの手首を踏み砕いた。
「ぎゃあああっ!!」
「……騒々しい男だ」
ヴィクターは表情一つ変えずに靴底に体重を乗せた。
その視線は、害虫を見る冷たさそのものだ。
「君は音を“凶器”としてしか扱えないようだな。音圧で鼓膜を破り、大音量で恐怖を与える……。実に野蛮で、想像力が欠如した三流のやり方だ」
ヴィクターは、ラズロの手から転がり落ちたグレネードを蹴り飛ばした。
「本当に人を壊したければ、音量などいらない。……ほんの少しの、狂った周波数があればいい」
ラズロはヴィクターを見上げた。銀色の仮面。喪服のような黒いスーツ。
恐怖が本能を叩く。こいつは刑事とは違う。逮捕しに来たのではない。
もっと根源的な、“処分”をしに来た捕食者だ。
「だ、誰だてめぇ……! 俺を知らねえのか!? 俺は“口笛のラズロ”だぞ! 爆破テロのカリスマだ!」
「知らんな。私の知る限り、カリスマとはもっと静かなものだ」
ヴィクターはセレナに向き直った。
彼女は、血の滲むような力で拳を握りしめ、ラズロの方を向いている。6年前の亡霊と対峙しているのだ。
(終わらせるのは、私ではない。彼女だ)
ヴィクターは一歩下がった。
そして、セレナの耳から、そっと耳栓を外した。
「……聞こえるか、セレナ」
「ええ。……風の音。ガラスの音。そして、怯えた獣の呼吸音」
セレナはサングラスを外し、その見えない瞳を露わにした。
美しいが、光のない瞳。
だが、その瞳孔は真っ直ぐにラズロを捉えていた。
「ひっ……!」
ラズロは息を呑んだ。
6年前、自分が爆弾で焼き尽くしたはずの女の目が、今は深淵のような静けさで自分を見下ろしている。
盲目のはずなのに、まるで心臓の裏側まで見透かされているような錯覚。
「6年前、私はあなたに光を奪われた。……毎日、暗闇の中で泣いたわ。あなたの嘲笑うような口笛が耳から離れなかった」
セレナは一歩踏み出した。ガラスがジャリ、と鳴る。
「でもね、今は感謝しているの」
「は、はあ!?」
「あなたが光を奪ってくれたおかげで、私はもっと多くのものが見えるようになった。人の嘘。恐怖の匂い。そして、あなたのような“中身のない人間”が立てる、空虚な音」
彼女はラズロの胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「あなたは怪物なんかじゃない。ただの、音の大きい目覚まし時計よ」
彼女の言葉は、ラズロのプライドを粉々に打ち砕いた。
恐怖の象徴でありたかった男が、被害者に「ただの時計」呼ばわりされたのだ。
「ふ、ふざけるな……! 俺は……俺はァッ!」
ラズロは隠し持っていたナイフを抜こうとした。
だが、その腕は上がらなかった。
背後に控えていたヴィクターが、いつの間にかラズロの首筋に“何か”を押し当てていたからだ。
「……動くな。君の演奏時間はもう終わりだ」
ヴィクターの手に握られていたのは、小さな銀色の音叉。
彼はそれを、ラズロの耳の裏にある三半規管に近い骨に強く押し当て、指先で弾いた。
キィィィィン……。
超高周波の振動が、頭蓋骨を伝ってラズロの脳髄を直撃した。
「あ、あ、が、がが……!?」
ラズロの世界が回った。
平衡感覚をつかさどる内耳のリンパ液が、音波共振によって激しく泡立ち、かき乱されたのだ。
地面が垂直になり、天井が落ちてくるような強烈なめまいと吐き気。
「オエェッ!?」
ラズロはその場に嘔吐し、白目を剥いて痙攣した。
もはやナイフを握るどころではない。自分が上を向いているのか下を向いているのかさえ分からないのだ。
「私が与えたのは“永遠の船酔い”だ」
ヴィクターは冷徹に告げた。
「その耳鳴りは消えない。君が一生をかけて償うべき罪の重さだ。……二度と、安定した地面を歩けると思うな」
ラズロは泥のように崩れ落ち、うめき声一つ上げられなくなった。
完全なる無力化。
音によって人を壊した男が、音によって平衡を奪われ、自分の足で立つことさえできなくなったのだ。
「……終わったわ」
セレナは大きく息を吐き出し、手錠を取り出した。
遠くから、ようやく彼女の同僚たちが乗るパトカーのサイレンが近づいてくる。
ヴィクターは、音もなく一歩下がった。
闇の中へ溶け込むように。
「……ねえ、あなた」
セレナはラズロに手錠をかけながら、背後の気配に問いかけた。振り返りはしない。
「どうして助けてくれたの? これは私の個人的な戦いだったのに」
「人助けなどではない」
闇の奥から、ヴィクターの低い声だけが響いた。
「ただ、不快だっただけだ。リズム感のない演奏と、破壊されるためだけの騒音がな」
彼は少しだけ沈黙し、付け加えた。
「それに……調律の狂った楽器を放置するのは、職人の美学に反する。それだけだ」
セレナが振り返った時、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、割れた天窓から吹き込む風と、カツン……という小さな金属音が残されただけ。
彼女の足元には、ヴィクターがラズロを無力化した時に使った、一本の銀色の“音叉”が転がっていた。
「……フフッ、素直じゃない時計屋さんね」
セレナは音叉を拾い上げ、ポケットにしまった。
もう、ヴィクターのリードがなくても、彼女は一人で歩ける。
彼女は近づいてくる警官隊の足音に向かって、堂々と顔を上げた。




