第23話 口笛の亡霊と閉ざされた瞳 ~静寂の侵入者~
ミスト・ヘイヴン、旧植物園廃墟“クリスタル・パレス”。
ヒュオオオオォォォ……。
カミソリ風が、錆びた鉄骨とガラスの隙間を通り抜けるたびに、巨大なパイプオルガンのような音が響く。
そのドームの天井近く、点検用通路に潜むヴィクターは、眼下の惨状を冷徹に見下ろしていた。
床一面に散乱するガラス片。
その中心で、耳を押さえて蹲まる女性、セレナ。
彼女の周囲の柱には、無骨な黒い箱――指向性音響爆弾が蜘蛛の卵のようにへばりついている。
(……粗雑な配線だ。センサーの感度は最大。猫が歩いても反応するな)
ヴィクターは、ポケットから銀色の棒を取り出した。
Y字型の金属、「音叉」だ。
だが、これは楽器の調律用ではない。特定の周波数を打ち消すための“アンチ・バイブレーション・フォーク”。
彼は手すりから身を乗り出し、最も近くにあるセンサーに向けて、軽く音叉を弾いた。
――キーン。
人間には聞き取れない超高周波の共鳴音。
それがセンサーのマイク膜に干渉し、わずか数秒間だけ、機械の“聴覚”を麻痺させる。
「3、2、1」
ヴィクターはその隙を突き、音もなくドーム内へ飛び降りた。
着地点は、センサーの死角になっている太い鉄骨の上。
スタッ。
猫のような着地。靴底が金属に触れる音さえ、風の音に同化させて消し去る。
彼はそのまま影のように移動した。
セレナの元へ。
彼女はもう限界だった。耳から血を流し、意識が朦朧としている。
「あ、う……」
セレナがうめき声を上げ、手がふらりとガラスの破片に触れそうになった。
ガシャッ!
ガラスが動く。センサーの赤いランプが点灯した。
キュイィィ――!!
第二波の衝撃波が放たれる直前。
ヴィクターの手が伸びた。
「動くな!」
彼は背後からセレナを抱きとめると同時に、彼女の耳に何かを押し込んだ。
高性能遮音耳栓。
そして、自分の両手で彼女のヘッドフォンのように覆い、さらに自身の身体を盾にして音波をブロックした。
ドォォォォンッ!!
爆音。
衝撃がヴィクターの背中を叩くが、彼は眉一つ動かさない。
「……っ?」
セレナは目を開けた。
世界が静かになった。
キーンという耳鳴りは続いているが、あの脳を焼かれるような拷問的な轟音が消えたのだ。
そして、感じる。
背中から伝わる、温かい体温。
鼻をくすぐる、あの懐かしいコーヒーとインクの香り。
「あなた……なの?」
震える声で彼女が問う。
ヴィクターは、彼女の耳元――遮音装置の隙間に向かって、骨伝導のように低く囁いた。
「喋るな。振動が伝わる」
その声は、冷徹だが、どこか安心感を与える響きを持っていた。
「私の指示に従え。……今の君は、調律の狂ったピアノだ」
スピーカーからラズロの驚愕の声が響く。
「あァ!? なんだお前、どこから入ってきた!? 俺のセンサーを掻い潜っただと!?」
監視カメラ越しに見ているラズロには、黒衣の男が魔法のように現れたようにしか見えなかっただろう。
「チッ、ネズミが増えたか! なら、二人まとめて吹き飛べ!」
ラズロがスイッチを入れた。
ドーム内の全センサーがアクティブになる。もはや、呼吸音ひとつで起爆しかねない状態だ。
ヴィクターはセレナの耳を塞いだまま、状況を計算した。
出口までは50メートル。
床はガラス片だらけ。
自分一人なら抜けられるが、聴覚を封じられたセレナを連れて、音を立てずに脱出するのは不可能だ。
「……仕方ない」
ヴィクターは懐から腕時計のワイヤーを伸ばし、その先端の金具を、セレナのコートのベルトバックルに連結した。
命綱だ。
これで万が一、彼女がバランスを崩しても、彼が支えることができる。
「セレナ、聞こえるか」
彼は短く呼びかけた。耳栓をしていても、彼のバリトンボイスは不思議と通る。
「私の足の上に、君の足を乗せろ」
「えっ……?」
「いいから早くしろ。君が地面を踏めば、そのガラスの破砕音で爆発する。……私が君の足になる」
セレナは躊躇いながらも、自分の華奢な足を、ヴィクターの革靴の上に乗せた。
まるでダンスのレッスンだ。
「私がリードする。君は全身の力を抜いて、私に委ねればいい」
ヴィクターが動いた。
右、左、ターン。
彼はガラス片の無い、わずかな隙間を選んでステップを踏む。
セレナの体重を支えながらも、その動きには一ミリのブレもない。
二人は、まるで透明な氷の上を滑るように、音もなく爆弾の森を進んでいく。
その優雅さは、モニター越しのラズロを激昂させた。
「なめるな! ふざけるな! そこで死ねええッ!」
ラズロが遠隔操作で、通路にあるいくつかの音響弾を強制起爆させる。
ドカン! ドカン!
爆風が二人を襲う。
ヴィクターは足を止めず、コートを翻して爆風を受け流した。
破片が頬を切り裂き、血が流れるが、彼のリズムは狂わない。
(この男……守ってくれてるの?)
セレナの頬に、ヴィクターの血が落ちた。
熱い。
冷徹な犯罪者だと思っていた男が、今は自分の盾となり、傷つきながら踊っている。
その事実が、恐怖で凍りついていたセレナの心に火を灯した。
「……ねえ、時計屋さん」
セレナは彼の肩を掴み、囁いた。
「守られるだけのヒロインは柄じゃないの」
彼女は懐から、愛用の拳銃を抜いた。
普段は聴覚で照準をつける彼女だが、今は耳が使えない。
だが、彼女には最強のガイドがいる。
「敵の位置を教えて。……あなたの目と、私の銃で、このふざけた演奏会を終わらせましょう」
ヴィクターは仮面の下で、獰猛に笑った。
そう来なくては。
ただ守られるだけの女なら、そもそも助けには来なかった。
「……了解した。パートナー」
ドームの最奥、ステージ跡地に鎮座する、防弾ガラス張りの放送ブース。
そこにラズロ・ケインは潜んでいた。
安全圏から二人を甚振る愉悦に浸っていたが、今の彼の顔には焦りが見えた。
「くそっ、なんで当たらない! なんで死なないんだよ!」
爆弾を躱し、迷路のような廃墟を真っ直ぐに向かってくる二人組。
男の完璧な足運びと、それに呼応する女の信頼関係。
まるで一心同体だ。
「見えたぞ。……12時方向、距離30メートル。高さ5メートルのブース内だ」
ヴィクターが囁く。
セレナは目を閉じ、イメージを構築する。
彼の言葉が、そのまま彼女の視界になる。
「壁の厚さは?」
「強化ガラスだ。普通の弾丸じゃ貫通しない」
「……音響弾の『起爆スイッチ』は?」
「奴の手元にある。……狙えるか?」
セレナは銃口を向けた。
見えない標的。距離30。遮蔽物あり。
普通なら不可能だ。
だが、今、彼女の背中を支えているのは、この世界で最も正確な時計師だ。
「リズムをちょうだい」
「……いいだろう」
ヴィクターは、ワイヤーで繋がれた手首を通じて、指先でトン、トン、と合図を送った。
それは心拍のリズム。
風の止む瞬間。
そして、ラズロが次のスイッチを押そうと身を乗り出す瞬間。
――今だ。
ヴィクターの指が強く脈打つと同時に、セレナはトリガーを引いた。
ズドン!!
放たれた38口径の弾丸は、ラズロに向かって――は飛ばなかった。
弾丸は、頭上の鉄骨に吊るされていた巨大な照明器具の金具に命中した。
ガキンッ!
金具が弾け飛ぶ。
数トンの鉄塊となった照明が、振り子のように落下し、ラズロの潜むガラス張りのブースを直撃した。
ガシャァァァァァン!!
防弾ガラスが粉々に砕け散り、ラズロの悲鳴が上がる。
同時に、彼の手から起爆リモコンが弾き飛ばされ、床に転がった。
「チェックメイトだ」
ヴィクターはセレナの身体を抱きかかえ、最後の一歩を踏み出した。
二人はガラスの雨の中を駆け抜け、崩壊するブースへと躍り込む。




