第22話 口笛の亡霊と閉ざされた瞳 ~ガラスの庭園と不協和音~
ミスト・ヘイヴン、午後9時。
海から吹き付ける“カミソリ風”は、夜になるとさらにその鋭さを増していた。
普段なら街を包み込んでいる湿った霧は吹き飛ばされ、乾いた寒気が建物の隙間を縫ってヒューヒューと鳴いている。
ヴィクターは、コートの襟を立てて裏路地を歩いていた。
彼が店を出た理由は、あの不吉な悪戯電話だけではない。
風に乗って運ばれてくる、微かな“周波数”が気になったからだ。
(……この不快な高音は、ただの風鳴りじゃない)
一般人の耳には聞こえない、犬や猫だけが嫌がって逃げ出すような、キーンという超高周波音。
ヴィクターは立ち止まり、その音の性質を分析した。
(20キロヘルツ以上の指向性音波。……これは爆発の前兆ではない。特定の“耳”を持つ人間を狩るためだけに設置された、聴覚破壊兵器の起動音だ)
この街で、それほどまでに鋭敏な聴覚を持ち、犯罪者に恨まれている人間。
心当たりは一人しかいない。あの女性刑事だ。
(……標的は、彼女か)
彼は懐から方位磁石型の「音源探知機」を取り出した。針が北西を指して激しく震えている。
北西地区。そこにある音響施設といえば一つしかない。
かつて貴族たちが音楽会を開いていた、総ガラス張りの巨大温室ドーム廃墟――通称“クリスタル・パレス”。
「ガラスの反響を利用して、彼女の耳を潰す気か。……趣味の悪い遊びだ」
ヴィクターは早足になった。
それは単なる正義感ではない。自分の認めた“希少な楽器”が、三流の演奏家によって破壊されることへの、職人としての生理的な拒絶反応だった。
同刻、旧植物園・廃墟“クリスタル・パレス”
バリッ、ジャリッ……。
踏み出すたびに、足元で鋭い音が響く。
セレナは、廃墟と化した巨大温室ドームの中に立っていた。
彼女がここへ辿り着けた理由は、犯人のテープに残されたメッセージにあった。
テープのノイズの裏で鳴っていた、ヒュオオオという風鳴り。そしてカツン、カツンという硬質な音。
彼女の記憶が告げた。これは円形ドーム特有の風の反響と、割れたガラスが擦れ合う音だと。
ミスト・ヘイヴンでそれに該当する場所は、この廃墟しかない。
(ここね……ラズロ。あなたが用意した舞台は)
頭上の錆びた鉄骨組みの天井からは、風が吹くたびにガラス片が降ってくる。
まさに“硝子の雨”だ。
彼女は白杖を低く構え、慎重に歩を進めていた。
だが、ここは盲目の彼女にとって、地獄のようなフィールドだった。
地面一面に散らばったガラス片のせいで、白杖からの反響音が乱反射し、正確な地形が把握できない。
さらに、犯人の予告通り、ここには“罠”がある。
「ようこそ、小鳥ちゃん。……懐かしい足音だ」
ドーム内に設置された無数のスピーカーから、ラズロの声が響き渡った。
エコーがかかり、音源の位置が特定できない。
「姿を見せなさい、ラズロ! 隠れてないで出てきたらどうなの!」
セレナが叫ぶが、返ってくるのは不快な笑い声だけだ。
「焦るなよ。ゲームはまだ始まったばかりだ。……6年前、俺はお前に光を奪われたと逆恨みされたが、今度は平等にいこうぜ」
スピーカーからの声が、ざらついたノイズを帯びる。
「そこはガラスの庭園だ。一歩動けばガラスが鳴る。……俺はその『足音(周波数)』をトリガーにして、会場のいたるところに仕掛けた閃光音響弾を起爆させるようにセットした」
「……っ!?」
セレナは足を止めた。
フラッシュバン。強烈な閃光と170デシベル以上の爆音で、人間の感覚器官を麻痺させる非殺傷兵器。
だが、視力を失い、聴覚が異常発達している現在のセレナにとって、それは鼓膜を引き裂き、脳神経を焼き切る“致死兵器”に等しい。
「ルールは簡単だ。……音を立てずに、俺の元まで辿り着いてみろ。もし大きな音を立てれば……ドカン! お前の耳はおしまいだ」
ヒュ~イ、ヒュイ♪
口笛が響く。
「さあ、ダンスの時間だ。足元のガラスを踏み砕かないように、爪先立ちで踊れよ?」
静寂が訪れた。
風が吹き抜け、頭上の割れた窓ガラスがカタカタと揺れる。
セレナは冷や汗を流しながら、その場に釘付けになった。
一歩も動けない。
靴底でガラスを踏めば、その破砕音をセンサーが感知して爆音が鳴り響く。
彼女の最大の武器である“耳”を人質に取られたのだ。
(落ち着いて……。音を立てなければいい。……呼吸を整えて、風の音に紛れれば……)
彼女が震える足を踏み出そうとした、その時。
パリン。
天井から剥がれ落ちたガラス片が、彼女のすぐ近くで砕けた。
自然落下だ。防ぎようがない。
だが、ラズロの仕掛けたセンサーは、それを慈悲なく拾った。
キュイィィィン――!!
「!?」
ドォォォォンッ!!
数メートル横の柱に仕掛けられた音響弾が炸裂した。
爆風と、鼓膜を突き刺す高周波の衝撃。
「うあああああっ!!」
セレナは耳を押さえて蹲まった。
視界のない彼女の世界が、真っ白な激痛で塗りつぶされる。
耳鳴り。平衡感覚の喪失。
「ギャハハハ! どうした? まだ一発目だぞ! この会場にはあと50個の爆弾がある!」
ラズロの狂った笑い声が、耳鳴りの奥で遠く響く。
セレナは床に手をついた。その手のひらに、鋭利なガラス片が食い込み、鮮血が流れる。
だが、痛みよりも恐怖が勝った。
“音”を失えば、彼女はただの無力な闇の中の遭難者になってしまう。
(だめ……聞こえない……反響が……!)
同刻、廃墟の外周
ヴィクターは、廃墟の入り口にある錆びたゲートの陰に身を潜めていた。
彼の聴覚には、先ほどの爆発音と、セレナの短い悲鳴がはっきりと届いていた。
「……やはりな。品性のない爆音だ」
ヴィクターは懐から一対の耳栓――特製の遮音フィルターを取り出し、装着した。
これで殺人級の高周波はカットされるが、人の声や時計の音は聞こえるように調整されている。
「あのお嬢さんの耳は特別だ。普通の人間なら鼓膜が破れる程度でも、彼女なら脳まで焼かれるかもしれん」
彼は廃墟を見上げた。
ラズロという爆弾魔は、爆弾のプロかもしれないが、音響のプロではない。ただ音量で殴ればいいと思っている三流だ。
ヴィクターは腕時計の竜頭を回し、ワイヤーの準備を整える。
「雑音の掃除には骨が折れそうだが……見過ごすわけにはいかないな」
彼は影のようにゲートをくぐり抜けた。
音響兵器に対して、音を立てずに戦う技術。
これより先は、時計師の独壇場だ。




