第21話 口笛の亡霊と閉ざされた瞳 ~北風が運ぶ古傷~
季節が変わろうとしていた。
ミスト・ヘイヴンの港から吹き付ける風が、湿った潮の香りではなく、皮膚を切り裂くような冷たい北風へと変わる時期。
「カミソリ風」と呼ばれるその風は、街を包む霧を一時的に吹き散らすが、代わりに人々の心に冷たい不安の種を植え付ける。
午後8時。
古時計店『失われた時間』。
店の外では、風が電線を揺らし、ヒュオオォォ……という口笛のような音が絶えず響いていた。
だが、二重の防音ガラスに守られた店内は、相変わらず時計の秒針音だけが支配する聖域だ。
カウンターの奥で、ヴィクターは一台の置き時計と向き合っていた。
真鍮の装飾が施された、18世紀フランス製のエレガントな置時計。
だが、そのゼンマイは完全に断裂していた。
(……金属疲労か。無理な巻き上げを繰り返されたな)
ヴィクターはルーペ越しに、引きちぎれた鋼鉄の断面を見つめた。
金属にも寿命がある。どんなに精巧なバネも、限界を超えた負荷をかければ、ある日突然、悲鳴を上げて弾け飛ぶ。
人間と同じだ。
「……嫌な風の音だ」
彼は独り言つと、ふと作業の手を止め、店の入り口を見た。
今日は客が来ない。
常連のパン屋のマーサも、雑用係のレオも。
嵐の前の動物たちのように、街の住人たちは本能的に家にこもっているのかもしれない。
その時。
不意に店の電話が鳴った。
客からの修理依頼用のアナログ電話だ。
ジリリリン、ジリリリン……。
黒電話のベルが、静寂の中で不吉に鳴り響く。
「はい。『失われた時間』です」
ヴィクターが受話器を取る。
しかし、向こうからは誰の声もしない。
ただ、ザザッ、ザザッというノイズと……口笛の音が聞こえてきた。
それは風の音ではない。人間が吹く、陽気で、どこか狂気を孕んだ『きらきら星』のメロディ。
『…………』
数秒後、プツリと電話は切れた。
ヴィクターは眉をひそめ、受話器を置いた。
(悪戯電話か? ……いいや)
彼の中の警戒アラートが鳴った。
あの口笛の音色。肺活量が異常に多く、空気を肺に溜め込む際のブレス音が大きい。興奮状態にある人間の呼吸だ。
そして何より、電話の向こうから微かに聞こえた背景音。
「ガチャリ」という金属音は、時計店の近所にある“刑務所”の重いゲートが開く音によく似ていた。
「何かが、解き放たれたようだな」
彼は修理中の時計に視線を戻したが、断裂したゼンマイの鋭利な断面が、何かの予兆のようにギラリと光った。
同刻、ミスト・ヘイヴン市警・本部
蛍光灯の明かりが寒々しいオフィス。
セレナ・ヴァレンタイン刑事は自身のデスクで、音声入力用のタイプライターに向かっていた。
カチャ、カチャ、カチャ……。
彼女はブラインドタッチで報告書を作成している。見えない指先がキーボードの上を滑るように動くが、今日だけはそのリズムが何度も狂い、止まった。
指先が微かに震えている。
カチャ。
隣の席の同僚刑事がコーヒーを置く音が、彼女には爆音のように響いて、ビクリと肩を跳ねさせた。
「おい、大丈夫かセレナ? 顔色が悪いぞ。いつもの幽霊みたいな青白さじゃなくて、今日は石膏像みたいだ」
声をかけてきたのは、彼女の良き理解者である中年警部だ。
セレナは作業の手を止め、サングラスの位置を直した。
「……平気よ、警部。気圧の変化で、古傷が痛むだけ」
古傷。
彼女は無意識に、サングラスの下にある両目に手をやりかけた。
6年前。彼女がまだ「見える」刑事だった頃。
ある事件の現場で負った傷。それが彼女から光を奪い、代わりに闇と鋭すぎる聴覚を与えた。
暗闇の中で感覚を研ぎ澄まし、音だけで世界を見る技術を身につけるまでに、長いリハビリの歳月が必要だった。
「そうか。ならいいんだが……。ああそうだ、お前に知らせておくことがある」
警部が言いにくそうに、分厚いファイルをデスクに置いた。
バサリ。
その紙束が落ちた音の質量で、セレナは事態の重さを察知した。
「今日、仮釈放の認可が降りた囚人がいる。……ラズロ・ケインだ」
その名前を聞いた瞬間。
セレナの頭の中で、鼓膜が破れるような轟音と閃光の記憶が炸裂した。
6年前の廃倉庫。
追い詰めた犯人のニヤけた笑顔。
『歌ってごらんよ、小鳥ちゃん』という嘲笑。
そして、仕掛けられた閃光音響手榴弾のゼロ距離での爆発。
「……ラズロが、出てきたの?」
セレナの声から温度が消えた。
ラズロ・ケイン。通称“口笛のラズロ”。
音と光を使った罠を好む、快楽主義の爆弾魔。
彼こそが、セレナの視力を奪い、刑事生命を絶とうとした張本人だ。
「本来なら懲役20年コースだが、司法取引で刑期が短縮されたらしい。……だが、俺たちは奴をマークし続ける。お前に近づかせはしない」
警部は励ますようにセレナの肩を叩いた。
だが、セレナの耳には届いていなかった。
彼女の聴覚が捉えているのは、もっと物理的な脅威だ。
彼女のデスクの上に置かれていた郵便物の束。
その中の一通、茶封筒から微かな“駆動音”が聞こえる。
チリ……チリ……。
爆弾ではない。もっと小さな、磁気テープが回るような音。
「警部。……そこの封筒、開けないで」
「えっ? これか?」
「私が開けるわ」
セレナは震える指を押さえつけ、封筒の口をペーパーナイフで裂いた。
中から出てきたのは、1本の古いカセットテープと、黄色い羽根が一枚。
カナリアの羽根だ。
彼女は引き出しからポータブルプレイヤーを取り出し、テープをセットした。
再生ボタンを押す。
『――よう。元気にしてるか、俺の可愛い小鳥ちゃん』
スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの、しかし記憶の中のそのままである、あの嘲笑うような男の声だった。
オフィスが一瞬で凍りつく。
『外の空気はうめェよ。……なあ、6年前の続きをしようぜ。お前は光を失ったが、まだ絶望し足りない顔をしてる』
ヒュ~イ、ヒュイ、ヒュイ♪
不快な口笛の音が続く。
『ゲームだ。この街のどこかに、お前だけに聞こえる“目覚まし時計”を仕掛けた。止められるかな? もし止められなければ……今度こそ、お前のその耳も、命も、俺がもらう』
ガチャリ。
テープが終了し、ボタンが戻る音が響いた。
周囲の刑事たちが騒然となり、怒号が飛び交う。
だが、セレナだけは静かだった。
恐怖は通り越していた。
冷たい風が、心の空洞を吹き抜けていく。
(また、私が壊される。……今度は、本当に)
彼女は無意識に胸元の懐中時計を握りしめた。
チク、タク、チク、タク。
あの時計屋が直してくれた正確なリズムだけが、パニックになりそうな彼女の精神を、ギリギリのところで繋ぎ止めていた。
「……行くわ」
セレナは立ち上がり、白杖を強く握り直した。
「ラズロは私を狙ってる。私が動けば、被害は最小限で済むわ」
「待て! 一人で行かせるわけにはいかん!」
警部の制止を振り切り、彼女は風のようにオフィスを出ていった。
警察官としてではなく、6年前に置き去りにしてきた恐怖と決着をつけるために。
だが、その背中は今までになく小さく、脆く見えた。




