第20話 杜撰な模倣犯 ~道化師の退場と雨のにおい~
「…………は?」
ダニエルの、空気が抜けるような声が聞こえた。
「お……おもちゃ……? ただの、びっくり箱……?」
緊張の糸が切れ、その後に押し寄せたのは、猛烈な恥辱だった。
彼は“時計師”として世界を震え上がらせるはずだった。
それなのに、本物に子供扱いされ、小便を漏らし、ありもしない爆発に怯えて泣き叫んでいたなんて。
プライドの崩壊。それは承認欲求の塊である彼にとって、死ぬことよりも屈辱的な拷問だった。
「う、うわあああああっ!!」
ダニエルが獣のような叫び声を上げた。
「馬鹿にしやがって! 俺を誰だと思ってる! 俺は……俺はァッ!」
ドタドタドタッ!
男が駆け出してくる足音がした。不規則で、荒っぽい足音。
そして、シャキッという衣擦れと共に、鼻をつく“安っぽい金属と防錆油の臭い”がした。
(ナイフ……!)
セレナの脳内レーダーが警報を鳴らす。
相手は逆上している。殺気というより、ただ暴れたいだけの衝動。
「死ねェッ! お前も、あの仮面の野郎も!」
真正面からの突進。
だが、見えないセレナにとって、直線の攻撃ほど御しやすいものはない。
その手には、ヴィクターが残していった“最高に重たくて頑丈なプレゼント(金属のびっくり箱)”があった。
「うるさいわね。……ただの雑音のくせに」
ダニエルの足音、呼吸、服の擦れる音。
全ての情報から、彼が右手を振り上げ、自分のみぞおちを目掛けて突っ込んでくる軌道が、ありありと脳内に描かれる。
(距離、1メートル。高さ、胸の位置)
彼女は一歩も動かなかった。
そして、ダニエルがナイフを振り下ろそうとしたその刹那、カウンターの要領で、手に持った金属ケースをフルスイングで横に薙ぎ払った。
ガゴォォッ!!
鈍く、重い衝撃音。
飛び出したままのピエロの人形が、ビヨンビヨンと揺れながらダニエルの顔面を直撃した。
「ぶべらっ!?」
中身は水だが、外装は鋼鉄製だ。
ダニエルは空中で回転し、受け身も取れずに床へ叩きつけられた。
ナイフがカランと音を立てて転がる。
「……言ったでしょう。あなたは偽物だって」
セレナは汚れたおもちゃを床に置き、気絶して痙攣している男の喉元に、白杖の切っ先を突きつけた。
「本物の時計師はね、こんな無粋なリズムで人を襲ったりしないわ。……彼が作るのは、もっと静かで、計算され尽くしたフィナーレよ」
下からは、ようやくゲートをこじ開けた警官隊の足音がドカドカと近づいてくる。
「終わりよ、偽物。……あなたは伝説にはなれない。ただの“失禁した道化師”として、明日のニュースの笑い者になるだけ」
ダニエルはピクリとも動かない。
彼の手からこぼれ落ちたナイフの横で、役目を終えたびっくり箱のピエロだけが、陽光の中で揺れ続けていた。
ゴーン……ゴーン……。
13時を告げる鐘の音が、幕引きの合図のように重々しく鳴り響いた。
◇◇◇
13時過ぎ。
ミスト・ヘイヴン中央駅、駅前広場。
厳戒態勢が敷かれていた現場は、今は別の種類の熱気に包まれていた。
恐怖や緊張ではない。失笑と嘲笑の渦だ。
正面玄関から連行されてくる犯人、ダニエル。
彼は手錠をかけられ、警官たちに両脇を抱えられているが、その足取りはふらつき、股間は湿って黒く染まり、顔面は鼻血と涙でぐしゃぐしゃだった。
かつて彼が夢見た「世界を震撼させるテロリスト」としての姿はどこにもない。
あるのは、大人のおもちゃで遊ばれて失禁した、哀れな道化師の姿だけだった。
パシャパシャパシャッ!
カメラのフラッシュが焚かれる
「おい見ろよ、あれが“時計師”か?」
「ズボンの色が変わってるぞ! 漏らしてるんじゃないか?」
「傑作だ! 世紀の爆弾魔がお漏らしで逮捕だとさ!」
野次馬たちの容赦ない嘲笑。
ダニエルはうつむき、レンズの放列から顔を隠そうと必死だった。
望み通り、彼は有名になった。
だがそれは、恐怖の象徴としてではなく、この街一番の“笑い者”としてのデビューだった。
彼の泣きっ面は明日の朝刊にデカデカと掲載される。
そして、安っぽいインクで印刷された『三面記事の道化師』として、街中の酒場や路地裏で語り継がれる“一生消えない恥”となるだろう。
その様子を、駅舎の柱の陰から見守る人影があった。
セレナ・ヴァレンタイン刑事だ。
彼女の足元には、証拠品として押収された、あの重厚な金属ケース――びっくり箱が置かれている。
「……残酷なショーね」
彼女は白杖でケースをコツンと叩いた。
「警部、この箱。鑑識に回す前に少し触らせてもらったけれど……」
「なんだ、ただの鉄屑だろう? 中身はバネと水だぞ」
警部が呆れたように肩をすくめる。
だが、セレナは首を横に振った。
「いいえ。……たとえ中身がジョークでも、この箱の密閉性と蝶番の噛み合わせは完璧よ。水が一滴も漏れないように計算されているし、飛び出すバネの張力も、人間の顔面の骨を確実に砕く強さに調整されていたわ」
(冗談のために、全力で技術を無駄遣いする……。あの職人さんらしいやり口だわ)
セレナは、鼻の奥で小さく笑った。
彼女だけには聞こえていた。この金属の塊から発せられる、“模倣犯への強烈な皮肉”という名のメッセージが。
『偽物は中身のない空箱だ』という、ヴィクターの冷徹な美学。
「犯人は確保したわ。……本物の怪人は、また霧の中に消えてしまったけどね」
セレナは空を見上げた。
白茶けていた空から、ポツリ、と何かが落ちてきた。
彼女の頬を濡らす、冷たい一滴。
「雨だわ」
乾ききった街に、ようやくいつもの湿り気が戻ってきた。
不快な乾燥と埃、そして浮ついた犯罪者の熱気を洗い流す、ミスト・ヘイヴン特有の冷たい雨。
【夕暮れ、古時計店『失われた時間』】
店内に漂っていた不快な埃っぽさは、降り出した雨と加湿器のおかげで完全に消え去っていた。
湿度60パーセント。気温18度。
ヴィクターにとっての適正環境が戻ってきた。
カウンターの奥で、ヴィクターは静かにコーヒーを啜(っていた。
今朝は捨てたブレンドだが、今は完璧な風味を感じられる。
雑味がない。泥水の味がしない。
「……あーあ、あいつも馬鹿だよなぁ」
向かい側で、レオが夕刊を広げていた。
紙面には、連行されるダニエルの情けない写真と、『偽りの時計師、時限爆弾ならぬ“時限恥限”爆弾で逮捕』という、記者の悪ノリ全開の見出しが踊っている。
「自分で勝手にパニくって、勝手に自爆したんだろ? 本物の時計師からすれば、いい迷惑だったろうな」
レオはケラケラと笑い、ヴィクターの顔色を伺った。
今朝のような、触れれば切れるような殺気は、今の店主からは消えている。
「迷惑ではないさ」
ヴィクターはカップを置き、ページをめくらせた。
「偽物が出回るということは、それだけ本物の価値が高いという証明でもある。……もっとも、質が悪すぎるコピーは市場価格を下げるから、焼却処分が必要だがね」
「へへ、怖い怖い。……でもさ、誰がこの“おもちゃの爆弾”をあいつに渡したんだろうね? 記事には『何者かによって密室に監禁され、手錠をかけられていた』って書いてあるけど」
ヴィクターは答えなかった。
ただ、窓の外を眺める。
雨が石畳を濡らし、街の輪郭をぼやけさせていく。
乾燥しきっていたミスト・ヘイヴンの空気が、再び重く、湿った神秘を取り戻していく。
(……それにしても)
(処理係のお嬢さんも、とんだ災難だったな。……三流の道化芝居に付き合わされて)
彼は知っていた。あの現場に、自分以外にもう一人、同じ憤りを感じていた観客がいたことを。
そして彼女が、ヴィクターの意図――“殺さずに、社会的に抹殺せよ”というシナリオ――を完璧に理解し、あのおもちゃの箱で犯人をKOしてくれたことも。
言葉は交わしていない。
顔も合わせていない。
だが、この雨の音の向こうで、彼女もまた同じように「ようやく静かになった」と安堵している気がした。
「レオ。今日は店じまいだ」
ヴィクターは立ち上がり、入り口の札をCLOSEDに裏返した。
「雨の音を聞きながら、ゆっくりと機械の手入れをするには、良い夜だ」
数百の時計たちが、チクタクと肯定の合唱をする。
その正確無比なリズムの中に、ダニエルのようなノイズが入り込む余地は、もうどこにもなかった。
ミスト・ヘイヴンの夜は、やはり霧と雨に閉ざされているのがお似合いだ。
そしてその闇の奥で、本物の時計師は、今日も誰かの壊れた時間を静かに巻き上げているのだ。




