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時計屋ヴィクターの“修理”報告書 ~ミスト・ヘイヴンの時計師~  作者: ニート主夫


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第2話 ソナタは黒鍵で奏でられる(中編)

 ミスト・ヘイヴン国立歌劇場。

 ヴィクトリア朝の建築様式を模したその巨大な建造物は、夜の闇に浮かぶ幻影のように、豪奢な輝きを放っていた。

 今宵の演目はプッチーニの『トスカ』。

 チケットは数ヶ月前から完売しており、劇場前には着飾った貴族や富豪たちが列をなしている。彼らの目的はオペラそのものというよりも、主役を務める国民的テノール歌手、サルヴァトーレの(こえ)を聴くこと、そして彼と同じ空気を吸ったという優越感に浸ることにあった。


 華やかなロビーの喧騒から離れた、薄暗い2階のボックス席。

 そこに、周囲の煌びやかな雰囲気とは不釣り合いな、静かな影があった。


「……随分と、香水のきつい夜ね」


 呟いたのは、シンプルな黒のパンツスーツに身を包んだ女性だ。

 長い黒髪を後ろで無造作に束ね、目元は濃いサングラスで覆われている。

 セレナ刑事。

 彼女の膝元には、折りたたまれた白杖(はくじょう)が、武器のようにひっそりと置かれていた。


 隣に座っていた恰幅の良い男――ミスト・ヘイヴン市警の警部が、呆れたように肩をすくめた。


「勘弁してくれよ、セレナ。せっかく署長がくれた招待券なんだ。腐敗政治家の接待みたいな匂いもするが、タダより高いものはないってね」


「そうね。でも、私が言ってるのは物理的な“匂い”のことよ、警部」


 セレナはサングラスの奥で見えない目を細めた。

 彼女の感覚器官は、常人のそれとは桁が違う。

 視力を失った代償として研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚は、数メートル先の人間が何を食べたか、どのブランドの煙草を吸っているかさえ暴き出す。

 そして今、彼女の鼻腔をくすぐっているのは、ご婦人方のムスクやバラの香りだけではなかった。


「……オイルの匂いがする」


「オイル? そりゃあ、貴族共の整髪料だろう」


「いいえ。もっと冷たくて、重い匂い。……古びた機械油と、(さび)の匂い」


 セレナは不快そうに鼻を動かした。

 その異臭は微かだが、確実に劇場のどこかから漂ってきていた。それは華やかな芸術の殿堂に混入した、一滴の毒のように彼女の神経を逆撫でする。


「考えすぎだ。お前は最近、現場に出ずっぱりで神経過敏になってるんだよ。今日は休暇だと思って、大人しくあの“神の喉”とやらを楽しめばいい」


 警部は笑って、オペラグラスを覗き込んだ。

 ブザーが鳴り、会場の照明がゆっくりと落とされる。

 満員の観衆が固唾を飲んで静まり返る中、オーケストラの指揮者がタクトを振り上げた。

 重厚な弦楽器の音が、ホールを満たしていく。


(……気のせい、かしら)


 セレナは座席に深く身を沈めた。

 視界は永遠の闇だが、音の世界では、彼女こそが支配者だ。

 バイオリンの旋律、観客の衣擦れの音、咳払い、空調のファンが回る重低音。

 数千種類の音が、色彩を持って彼女の脳内に流れ込んでくる。


 第一幕が始まり、ついに主役のサルヴァトーレが舞台に姿を現した。

 拍手喝采。

 でっぷりと肥えた身体を衣装に包み、サルヴァトーレが第一声を放つ。


「“妙なる調和……!”」


 朗々とした、張りのあるテノール。

 確かに上手い。警部が「神の喉」と崇めるのも無理はない声量だ。

 だが、セレナの眉間の(しわ)は深くなるばかりだった。


(音程は完璧。でも……心が死んでいるわ)


 彼女には聴こえていた。

 声の波形の奥底にへばりついた、傲慢さと脂ぎった自意識のノイズが。

 それは芸術というよりも、磨き上げられた“商品”の音だった。


 そして何より、彼女を不安にさせているのは別の音だった。

 オペラの旋律の裏側で、執拗に聞こえてくる微細なリズム。


 チ、チ、チ、チ……。


(これは……時計?)


 いや、普通の腕時計の音ではない。もっと硬質で、古いゼンマイが解けるような音だ。

 それは舞台上のどこかではなく、もっと高い場所――“頭上”から降ってきているように感じられた。


「ねえ、警部」


 セレナは小声で囁いた。彼女の声はチェロのように低く、よく響く。


「この劇場のシャンデリア……最近、メンテナンスをしたという記録はある?」


「はあ? 何を言い出すんだ、突然」


「音がするのよ。……カウントダウンみたいな、嫌な音が」


 警部は呆れて取り合わない。

 だが、セレナの背筋には冷たい汗が伝っていた。

 その規則的なリズムは、まるで死神が足音を忍ばせて近づいてくる合図のようだった。

 舞台は進み、物語はいよいよ佳境へと向かう。


 ――第三幕。

 サルヴァトーレ演じる画家が、処刑を前にしてアリアを歌い上げる場面だ。


「さあ、来るぞ。ここのハイC(ツェー)が、伝説なんだ」


 警部が身を乗り出す。

 会場の空気密度が変わった。観客全員が息を詰め、英雄の“奇跡”を待ちわびている。


 舞台上、スポットライトを一身に浴びたサルヴァトーレが、大きく胸を反らせて息を吸い込んだ。


「“星は光りぬ……!”」


 悲痛で、甘美な旋律。

 そして、最後の高音が放たれようとした、その瞬間だった。


(……聞こえる!)


 セレナは、何者かの意図を感じ取った。

 歌手が放つ強烈な周波数の“波”が空気を震わせ、一直線に天井へと昇っていく。

 その到達点にあるシャンデリアの留め具。そこから、何かが“噛み合う”音がしたのだ。


 カチッ。


 パズルが完成したような、残酷なほど小さな金属音。

 だが、その微細な音こそが、巨大な質量を支えていた最後のストッパーが外れた音だった。


「危ない!」


 セレナは叫び、反射的に立ち上がった。

 だが、彼女の警告は、ホールを揺るがす大喝采にかき消された。


 ――そして。


 頭上の巨大なクリスタルの塊が、まるで歌手の熱唱に呼応するかのように、重力を取り戻して落下を開始した。


 それは悲劇でありながら、どこか恐ろしいほど美しい、断罪の瞬間だった。


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