第19話 杜撰な模倣犯 ~踊る道化師~
ミスト・ヘイヴン中央駅、時計塔の最上階。
分厚い鉄扉を押し開けた瞬間、セレナの嗅覚を強烈な不快感が襲った。
モワッとした熱気。
何十年も積もった機械油と埃の匂い。それ以上に彼女の感覚を刺戟したのは、強烈な“アンモニアの臭い”と、人間が極限状態に陥った時に発する“脂汗の臭い”だった。
「……そこにいるのね」
セレナは白杖を前に構えず、低い位置で地面を這わせながら慎重に歩を進めた。
巨大な歯車の駆動音が響き渡るこの部屋では、足音を聞き分けるのは困難だ。だが、この強烈な獣の臭いを辿れば、獲物の位置は特定できる。
「ひっ、あ……ああ……!」
部屋の隅、11時の方向から、引きつった悲鳴のような呼吸音が聞こえた。
過呼吸気味の荒い息遣い。
そして、その息遣いに混じって、極めて規則的な電子音が響いている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
セレナはサングラスの位置を直し、その場に立ち止まった。
状況を“音”でスキャンする。
男のうめき声は低い位置から聞こえない。つまり、座り込んでいるのではなく、直立した状態で固まっている。
そして、その電子音の発生源は、男の手の位置――腰の高さあたりで固定されている。
「だ、誰だ……? け、警察か!?」
男の声が震えている。犯人のダニエルだ。
「動くな! 少しでも動いたら、ドカンだぞ! 俺は今、感震装置付きの爆弾を持たされてるんだ!」
爆弾。
その言葉に、セレナの眉が動いた。
彼女は白杖を脇に抱え、ゆっくりと、男を刺激しないように近づいていく。
「……本物の時計師が置いていったの?」
「そうだ! あいつが、俺にこれを! 少しでも傾けたら爆発するって! 心拍数が上がっても爆発するって! 助けてくれ、もう腕の感覚がねえんだ!」
泣き叫ぶダニエルの声には、嘘の色はない。恐怖でパニックに陥っている。
(なるほど。……人間メトロノーム、というわけね)
セレナは男の目の前、わずか数メートルの距離まで近づいた。
そして、集中するために目を閉じる。
男が持たされているその機械の音を“鑑定”するために。
ピッ、ピッ、ピッ……。
内部で回る極小のクーリングファンの風切り音。
幾重にも重なった歯車が噛み合う、シルクのように滑らかな駆動音。
そして、冷徹なほど正確に刻まれるデジタル信号。
(……なんて精密な仕事)
ヴィクターの作った機械だ。間違いはない。
部品の一つ一つが、ミクロ単位の狂いもなく噛み合っている音がする。
先日のゴミ箱爆破事件の、ガタガタとノイズだらけの自作爆弾とは次元が違う。
だが、セレナはある違和感に気づいた。
その音色が、あまりにも“軽やか”すぎるのだ。
以前、燃える屋敷の中で聞いたヴィクターの兵器は、もっと重く、破壊的な殺気を孕んだ低音を響かせていた。
しかしこの装置からは、まるで子供がお気に入りの玩具で遊んでいる時のような、意地の悪い“跳ねるようなリズム”が聞こえる。
「ねえ、あなた」
セレナは口元を緩めた。
「それ、あと何分?」
「な、なんだって?」
「タイマーの残り時間よ。ディスプレイの表示が見えるでしょう?」
「あ、あと……さ、3分だ! いや、2分50秒! カウントダウンが速くなってやがる! 俺の心臓の音に合わせて加速してやがるんだ!」
恐怖でダニエルの呼吸が早くなる。
ピピピピ……!
呼応するように電子音が加速する。
パニックに陥り、ガチャガチャと音を立てて震えるダニエルの前で、セレナは静かに手を差し出した。
「貸して。私が預かるわ」
「はァ!? あんた死ぬ気か!? 水平を保たないと……」
「いいから渡しなさい。……あなたの震える手じゃ、あと1分も持たないわ。私の手の方がマシよ」
セレナの声には、拒否を許さない冷徹な響きがあった。
ダニエルは極限状態だ。思考力は残っていない。
彼は泣きながら、その死の重りと思っている金属の塊を、目の前の女の手探りしている掌へと押し付けた。
ガクンッ。
受け渡しの瞬間、手汗で滑り、装置が大きく傾いた。
水平どころか、ほぼ90度ひっくり返った状態になった。
「あッ!? あああああ終わったァァァ!」
ダニエルはその場に頭を抱えて蹲まり、悲鳴を上げた。
セレナも一瞬、身を固くした。
……シーン。
1秒。2秒。3秒。
衝撃波は来ない。熱風も来ない。
ただ、装置からは相変わらず「ピッ、ピッ」という電子音だけが続いている。
ダニエルが恐る恐る顔を上げた気配がした。衣擦れの音がする。
「ば、爆発しねえ……?」
「当然よ。……この装置の中に、火薬の“匂い”がしないもの」
セレナは、手に持った重厚な金属ケースを振ってみた。
チャプ、チャプ。
中から液体の音がする。これは液体爆薬ではない。ただの水だ。重さを出すためのバラストだろう。
「感知式でもない。こんなに傾けても反応しないなんて、センサーが入っていない証拠だわ。……でも」
セレナは装置を耳元に当てた。
内部で回るゼンマイの音が、カチリカチリと終点に近づいている。
「タイマーは生きているわ。最後の仕掛けが作動する」
ピピピピピ……!
アラート音が最高潮に達する。
10、9、8……。
セレナには数字は見えない。だが、音の間隔でわかる。
ダニエルは再び「ひいいい!」と床をのたうち回る。
セレナは無表情のまま、その時を待った。
3、2、1。
――バチン!
ビヨヨヨ~~~ン……。
間の抜けたバネの音。
爆発音ではない。
セレナの手の中で、厳重な金属ケースの蓋が開き、何かが勢いよく飛び出して震えている振動が伝わった。
彼女は、飛び出した物体にそっと指先で触れた。
フサフサした髪の毛のような感触。プラスチックの赤い鼻。そしてバネ。
道化師の人形だ。
そして、人形の腹に内蔵された安っぽいスピーカーから、ノイズ混じりの合成音声が流れた。
『You are fake.』
『ケケケケ! 残念でしたー!』
それは、ヴィクターがどこかのおもちゃ屋のワゴンセールで拾ってきたであろう、既製品の音声チップだった。
静まり返る時計塔に、その間抜けな笑い声だけが虚しく反響する。




