第17話 杜撰な模倣犯 ~乾いた風と三流のラブレター~
朝、ミスト・ヘイヴンの空は、海からの湿った風がピタリと止んでいた。
霧の街と呼ばれ、一年中濡れた石畳が光るこの街において、それは異常事態と言っていい気象だった。
乾燥注意報。
大気中には工場の煙突から吐き出された煤煙と、乾いた埃が停滞し、空を白茶けた色に染めている。
路地を歩く人々の髪は静電気で逆立ち、喉の奥はイガイガと渇き、誰もが不機嫌そうに咳き込んでいた。
午前7時。
古時計店『失われた時間』。
店内の湿度計は40パーセントを下回ろうとしていた。
店主ヴィクターは、不快感と共に目を覚ました。
シーツが衣擦れを起こす音さえ、今朝は耳障りなノイズに聞こえる。乾燥は精密機械の油を揮発させ、微細な埃を呼び寄せる天敵だ。
(……空気が、ザラついている)
ヴィクターは眉間に皺を寄せたまま洗面台に向かった。
蛇口を捻ると、水はいつもの滑らかさを失っているように見えた。顔を洗っても潤った気がしない。
彼は無言で1階へ降り、日課であるコーヒーの準備を始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
愛用のミルで豆を挽く。
だが、その香りの中に、今日はわずかな焦げ臭さが混じっている気がした。窓の隙間から入り込んだ街の埃のせいだ。
その時。
バンッ!!
ドアベルの繊細な音色を無視して、乱暴に扉が開かれた。
飛び込んできたのは、いつもの雑用係、少年レオだ。
彼は埃まみれのジャケットを払いもせず、血相を変えてカウンターに駆け寄ってきた。その手には、インクの匂いがきつい朝刊が握りしめられている。
「ねえ、大変だヴィクター! これ見てくれよ! 一面トップだ!」
レオの大声が、静謐であるべき朝の空気を切り裂く。
ヴィクターは、ポットから湯を注ぐ手を止めずに、冷ややかに告げた。
「……静かにしたまえ、レオ。乾燥した空気は音を反響させやすい。君の大声は、今の私には削岩機の騒音と同じだ」
「それどころじゃないんだって! あんた、いつの間にこんなこと……いや、あんたじゃないよな? でも名前が!」
レオは新聞をカウンターに広げた。
ヴィクターは仕方なく視線を落とした。
そこには、扇情的な文字で、巨大な見出しが踊っていた。
『市庁舎前広場のゴミ箱が爆発 負傷者3名』
『犯行声明文到着! 謎のテロリスト“時計師”の宣戦布告』
“時計師”。
その単語が視界に入った瞬間、ヴィクターの周囲の温度が数度下がった。
(時計師だと……?)
それは裏社会の一部で、彼を指して囁かれている通称だ。
だが、彼はその名を表舞台で誇示したことは一度もない。影は影であってこそ、その機能美を発揮するからだ。
彼はポットを置き、汚いものを触るかのように新聞の端を摘んで引き寄せた。
記事には、現場写真――ひしゃげたゴミ箱と、黒く汚れた石畳――の横に、新聞社に送りつけられたという“犯行声明文”の写真が掲載されている。
新聞や雑誌の文字を切り貼りして作られた、まるで誘拐犯の脅迫状のような手紙。
そこには、目を覆いたくなるような稚拙な文章が並んでいた。
『我はイ大な“時計師”。ジカンの支配者なり。
今のよのなかにフ満がある。俺を無視するな。だからバクハツさせる。
これは序章にすぎない。次はもっとスゴイ花火があがるぞ。
俺を止められる奴はいなぃ』
――プチッ。
ヴィクターの手が震えた。
恐怖からではない。純粋な、限りなく冷徹な怒りからだ。
ヴィクターの脳内で、何かのヒューズが飛ぶ音がした。
怒りではない。呆れでもない。
それは、一流のシェフが、泥で作ったハンバーグを「あなたの新作料理です」と客に出された時のような、生理的な嫌悪感と屈辱だった。
“偉大”を“イ大”と書く無教養さ。
“時間”がカタカナ混じり。
そして極めつけは、“いない”の語尾を“ぃ”という小文字にする、意味不明な美的センスの欠如。
動機も理念もない。「不満がある」「無視するな」という、幼児が床で駄々をこねるのと同レベルの自己顕示欲だけが、紙面から悪臭を放っている。
「……汚らわしい」
ヴィクターの唇から漏れた声は、絶対零度よりも冷たかった。
「これは犯罪ですらない。ただの排泄行為だ。美学も、技術も、哲学もない。あるのは承認欲求に飢えた野良犬の遠吠えだけ」
さらに記事を読み進める。
爆破に使われた仕掛けは、「スチール缶に工業用肥料とガソリンを詰め、安物の目覚まし時計をガムテープで固定しただけのもの」だったという。
その杜撰な工作のせいで、予定時刻より15分も早く誤作動し、通りがかった清掃員とサラリーマンが火傷を負った。
(これを……私の仕事だと? 私の名前で行っただと?)
ヴィクターは、カウンターの上の新聞を掴み上げ、くしゃりと握り潰した。
普段は新聞紙が手にインクをつけることすら嫌う彼が、今はその汚れすら気にならないほど、内側で青い炎を燃え上がらせていた。
「レオ。……このコーヒーを捨ててくれ」
「えっ? まだ一口も飲んでないじゃないか」
「泥水の匂いがする。……誰かの汚い息がかかったせいで、風味が台無しだ」
ヴィクターは淹れたばかりのカップをシンクへ突き出した。
今回の敵は、過去の因縁ある強敵ではない。
ただの“雑魚”だ。
だが、その雑魚が、ヴィクターの最も侵してはならない領域――“職人としてのプライド”に泥を塗った。その罪は、万死に値する。
◇◇◇
街外れのアパート「サンセット・ハイツ」203号室
カーテンが締め切られた薄暗い一室。
換気扇も回っていない部屋の空気は淀み、カップ麺の腐敗臭と、硝煙のような焦げ臭さが充満していた。
床には無数のコード、ジャンクパーツ、そして飲みかけのエナジードリンクが散乱している。
そのゴミの山の中央で、一人の男がパソコンのモニターにしがみついていた。
ダニエル・ドッグス。28歳。無職。
脂ぎった長髪を掻きむしりながら、彼は血走った目でタイムラインを更新し続けている。
カチャカチャカチャッ、ターン!
「へへ……へへへッ! 来た、来た、来たァ! みんな俺の話をしてる!」
画面には、“時計師とは何者か?”“次の爆破はどこだ”という恐怖と憶測のコメントが滝のように流れている。
ダニエルは、その一つ一つを読むたびに、背筋がゾクゾクするような快感に震えた。
今まで、誰も自分を見なかった。
バイト先では能無し扱いされ、女には相手にされず、社会の底辺で透明人間のように生きてきた。
だが今、俺は神だ。この街の時間を支配しているのは俺なんだ。
「本物は姿を現さない都市伝説……。だったら、最初に名乗り上げたもん勝ちだろ?」
彼はニタニタと笑い、足元のダンボール箱を蹴った。
中には、万引きして集めた安物の時計が大量に入っている。
「あんなゴミ箱のボヤ騒ぎでビビりやがって。……見せてやるよ、俺様の真の芸術を。次はもっと派手に、もっと大勢の人間が吹っ飛ぶような傑作をなァ!」
ダニエルはキーボードを叩き始めた。第二の犯行声明文だ。
『時計師からのお知らせだ。
次は正午。みんなが時間を気にする場所で、時報がわりの花火をあげる。
中央駅の時計台。あそこが俺のステージだ』
エンターキーを押し送信完了。
彼は勝利を確信していた。
だが、この世には「本物」と「偽物」の間には、決して超えられない“技術と覚悟”の深淵があることを、彼はまだ知らない。
そして、本物の怪物が、どれほど執念深く、プライドが高い生き物であるかも。
◇◇◇
同刻、ミスト・ヘイヴン中央駅・広場
駅前の電器店。そのショーウィンドウに並べられた数台のブラウン管テレビの前に、黒山の人だかりができていた。
画面は砂嵐混じりの粗い画質だが、そこに映し出されたニュース速報に、人々は足を止め、ざわめいていた。
『――たった今、ネット上の掲示板に、時計師を名乗る新たな書き込みがありました。警察は、爆破予告と見て警戒を……』
その群衆のさらに後ろ、乾いた風が吹き抜ける広場の端に、一人の女性刑事が立っていた。
セレナ・ヴァレンタインだ。
彼女はサングラスの奥で見えない瞳を閉じ、不快そうに顔をしかめていた。
「……酷い音」
隣にいた警部が、吸っていた煙草を揉み消しながら尋ねる。
「音? 民衆のパニックのことか?」
「いいえ。……街全体の音が、ザラザラしてるの。乾燥した空気のせいもあるけれど……それ以上に、ノイズ(雑音)が混じってる」
セレナは白杖を握りしめた。
彼女には聞こえる。
この事件全体から漂う、リズム感のない、衝動的で幼稚なビート。
ゴミ箱爆破のニュースを聞いた時、彼女の直感は即座に警報を鳴らした。「違う」と。
「警部。……この犯人は、偽物よ」
「偽物? 時計師のか?」
「ええ。本物のなら……こんな、美学のない手紙は書かない」
セレナの脳裏に、あの古時計店での静謐な時間が過ぎる。
あの店主――ヴィクターの指先が奏でる精密な音色。
そして先日、燃える屋敷の中で聞いた、残酷だが論理的な破壊の旋律。
今回の事件には、その“品格”が欠片もない。
「それに、予告場所が中央駅? 正午? ……まるで三流映画の脚本ね。分かりやすすぎて欠伸が出るわ」
セレナは空を見上げた。
埃っぽい白い太陽が、じりじりと肌を焼く。
(怒ってるでしょうね。……ねえ、時計屋さん)
彼女は想像する。あの冷静沈着な職人が、自分の名を騙る泥棒に対して、どれほどの静かな激怒を抱いているか。
警察が動くより早く、彼が動くはずだ。
プライドの高い芸術家が、自分の贋作を放置しておくわけがない。
「行きましょう、警部。……中央駅へ」
「おいおい、犯人はネットに書き込んだだけだぞ。まだ駅にいるとは……」
「いるわ。こういう自己顕示欲の塊は、必ず自分の“作品”を特等席で見に来る。……それに」
セレナは歩き出しながら、不敵な笑みを浮かべた。
「この騒音を黙らせるために、“本物の指揮者”も必ず現れる。……網を張るなら、そこしかないわ」




