第16話 灰色のカナリアと銀の棺 ~午前0時の鎮魂歌~
深夜、ミスト・ヘイヴンの丘陵地帯。
豪奢な悪夢の舞台だった『カラスの館』は、今や巨大な焚き火と化していた。
ドオオォォォ……!
屋根が崩落し、火の粉が夜空へ舞い上がる。
ガリヴァーが最期に起動した自爆装置と、地下のボイラーの誘爆によって、屋敷は完全に崩壊したのだ。
かつて矯正施設の子供たちの血を啜った怪物は、二度と蘇ることのないよう、瓦礫と鉄屑の棺桶の中で完全に灰になった。
燃え盛る屋敷を背に、離れた森の木立の中に二つの人影があった。
ヴィクターとセレナだ。
ヴィクターの腕の中には、気絶しているあの被害者の少女が抱かれている。
「……ここでいい」
ヴィクターは、仮面の奥で静かに言い、少女を濡れていない草の上にそっと寝かせた。
首からは、あの忌まわしい銀の装置が外され、呼吸は安らかだ。彼女の声帯は傷ついているが、ヴィクターが外した際に最低限の処置は施してある。時間はかかるだろうが、また自分の声で――機械のソプラノではなく、人間の声で泣き、笑えるようになるはずだ。
ヴィクターは立ち上がり、背を向けた。
「待って」
呼び止めたのはセレナだ。
彼女はドレスの裾が破れ、顔は煤だらけだったが、サングラスの奥の瞳はヴィクターを真っ直ぐに捉えていた。
「この子は、どうするつもり?」
「君が保護しろ。……爆破テロの唯一の生存者としてな。孤児院の手配も、君ならできるだろう」
「テロ? ……そうね。屋敷を吹き飛ばしたのは、“正体不明の爆弾魔”ということにしておくわ」
セレナは足元のトランク――を見下ろし、皮肉っぽく笑った。
もしガリヴァーが自爆していなければ、彼女自身がこの屋敷を爆破していただろう。
「一つだけ、聞かせて」
セレナが一歩、彼に近づいた。
「あの会場で、あなたが演奏を始める前……私が彼に焼き殺されそうになった時。破壊音波でガリヴァーの目を潰したのは、あなたね?」
「…………」
「どうして助けたの? あなたにとって、私は邪魔な目撃者のはずよ」
ヴィクターは沈黙した。
夜風が吹き抜け、彼の纏うタキシードの裾を揺らす。そこからは、火薬の匂いと共に、微かなインクと古紙の匂いが漂ってくる。
彼は振り返らずに、低く答えた。
「……良い観客がいなければ、どんな完璧なショーもリハーサルに過ぎない」
「観客?」
「君の耳だ、刑事殿。……君だけが、私の奏でる不協和音の中にある、本当の意図を聞き分けることができた。それだけの話だ」
ヴィクターは夜の闇に溶け込むように歩き出した。
「帰りたまえ。警察(同業者)が来るぞ。……爆弾を持ったままでは、君も容疑者だ」
その背中が見えなくなるまで、セレナは動かなかった。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
彼女は、草の上で眠る少女の肩に自分のコートを掛けながら、夜空に向かって小さく呟いた。
「……不器用な指揮者さん。あなたの正体、いつか必ず暴いてみせるわ」
しかしその声色は、犯人を追う刑事のものではなく、同じ秘密を共有した共犯者のような温かさを帯びていた。
【翌朝、古時計店『失われた時間』】
雨上がりのミスト・ヘイヴンには、清々しい朝の光が差し込んでいた。
昨夜の喧騒が嘘のように、店の中には穏やかな時間が流れている。
カウンターの奥で、ヴィクターは静かに作業をしていた。
彼の手元にあるのは、昨夜、あの地獄から持ち帰った「ある物」だ。
『歌う処刑具・ディーバの喉』。
少女から外した、その呪われた装置。
ヴィクターはそれを、溶接バーナーで炙り、ハンマーで叩き、完全に解体していた。
かつての技術の結晶は、見る影もないただの銀塊へと戻っていく。
そして彼は、その銀塊を型に流し込み、冷却し、ヤスリで削り始めた。
キリ、キリ、キリ……。
数時間後。
彼の手のひらに残ったのは、一台の小さな、しかし美しい銀製のオルゴールだった。
カラン、コロン。
正午。ドアが開いた。
飛び込んできたのはマーサだ。彼女はいつもの焼きたてパンではなく、一枚の号外新聞を興奮気味に振っている。
「大変だよヴィクター! 『カラスの館』が全焼だって! しかも、焼け跡から大量の……あの行方不明だった子供たちのリストが見つかったらしいよ!」
「ほう。……それは良かった」
「反応が薄いねえ! 警察発表じゃ、内部抗争による爆破事故らしいけど……まあ、天罰ってやつさ!」
ヴィクターはコーヒーを啜りながら、マーサの話をBGMのように聞き流す。
内部抗争。セレナがうまく処理したらしい。
天罰。そうかもしれない。だがその罰を下したのは神ではなく、時間を操る一人の職人だ。
マーサが嵐のように去った後、入れ替わりにレオが欠伸をしながら階段から降りてきた。
「ふわぁ……おはよう。結局、昨日は店番だけで終わったね」
「ご苦労だった、レオ」
ヴィクターは完成したばかりの銀のオルゴールを、カウンターの上に置いた。
装飾は何もない、シンプルな箱。
「レオ。これを、教会へ届けてくれないか」
「これ? 綺麗な箱だけど……中身は何?」
「……希望だ」
ヴィクターはゼンマイを少しだけ巻いた。
指を離すと、オルゴールは静かに旋律を奏で始めた。
それはかつて、あの矯正施設の壁の向こうで、405番の少女が指で叩いて伝えてきた、あの悲しくも優しいメロディだった。
機械仕掛けの絶叫は、もう聞こえない。
ここにあるのは、純粋な音色だけだ。
「誰宛にすればいい?」
「名はいらない。……ただ、声が出なくても歌いたいと願う、すべての子供たちへ」
レオは不思議そうな顔をしたが、何かを感じ取ったように黙ってオルゴールを受け取った。
少年が店を出て行くと、ヴィクターは一人、窓の外を見た。
霧が薄れ、遠くに青空が見える。
20年前の自分。
壁の向こうの少女。
そして昨夜、自分と同じ場所に立ち、自分と同じ憤りを感じていた盲目の刑事。
過去は消せない。だが、修理することはできる。
壊れた時間も、砕けた心も、正しい技術と想いがあれば、いつかはまた動き出すのだ。
ヴィクターは懐から懐中時計を取り出し、その銀の蓋を弾いた。
現れた文字盤の上で、秒針は淀みなく、正確に未来へと進んでいる。
彼は小さく頷くと、カチリ、と蓋を閉じた。
その乾いた音は、今日からまた新しい時間が始まる合図だ。
孤独な修理屋の休日が終わる。
また明日からは、壊れた時計を抱えた客たちが、この扉を叩くだろう。




