第14話 灰色のカナリアと銀の棺 ~葬送へのタキシード~
古時計店『失われた時間』。
表のシャッターは下ろされ、雨上がりの湿った空気だけが換気扇から忍び込んでいる。
店内の最奥、普段は厳重な錠前で封印された“開かずの間”で、ヴィクターは静かに儀式を行っていた。
そこは修理工房ではない。武器庫だ。
ただ、銃やナイフといった野蛮な品は一つもない。並んでいるのは、彼が時計職人としての技術の全てを“逆向き”に応用して作り上げた、美しくも残酷なガジェットたち。
ヴィクターは、姿見の前で漆黒のタキシードに袖を通した。
シルクの鈍い光沢を放つ。祝祭の黒ではなく、完全なる喪服の黒だ
(……20年前。私はあの子を守れなかった。作るべきものを間違え、救うべき手で彼女を壊す手伝いをしてしまった)
彼はカフスボタンのケースを開けた。
そこに鎮座しているのは、黒曜石で作られた一対のカフス。
彼はそれを指先で摘み上げ、シャツの袖口に慎重に通す。
“共鳴破壊子”。
この小さなボタンの中には、特殊な水晶振動子が組み込まれている。特定の周波数の超音波を指向性放射し、ガラス、水晶、そして“薄い金属板”を、接触せずとも粉砕する音響兵器だ。
一度起動すれば、周囲10メートル以内の「音の鳴るもの」はすべて沈黙させる。
「今日は、これを使おうか」
彼は鏡の中の自分に向かって呟いた。
冷徹な理性の奥で瞳には、消えることのない青白い炎が揺らめいている。
次に、彼は左腕に腕時計を巻いた。
文字盤には装飾がなく、針が露出した無骨な機械式時計。
竜頭には安全装置がかかっている。これを引き抜けば、内蔵された強力なゼンマイが一気に解放され、10メートルの鋼鉄製ワイヤーが射出される仕組みだ。
かつては高所の時計塔を修理するための命綱として設計したものだが、今夜は、獲物を絡め取り、絞め上げるための“蜘蛛の糸”となる。
最後に、胸ポケットへ深紅の薔薇を一輪。
鮮血のように赤い花弁が、黒いタキシードの上で唯一の色彩として浮かび上がる。
これは飾りではなく、鎮魂のための献花だ。
準備を整へ。
1階へ降りると、レオが不安そうな顔で待っていた。
「……行くの、ヴィクター。止めはしないけどさ」
レオは言葉を詰まらせた。
普段の偏屈だが知性的な店主の姿はそこになかった。目の前に立っているのは、死神が紳士の皮を被ったような、研ぎ澄まされた刃物そのものだったからだ。
近づくだけで肌が切れそうなほどの殺気。
「レオ。店を頼む」
ヴィクターは懐から金貨を一枚取り出し、親指で弾いた。
放物線を描いた金貨が、レオの手のひらにピタリと収まる。
「店番の特別報酬だ。……いいか、もし夜明けまでに私が戻らなければ、金庫の中身と、棚にあるロレックスやパテック・フィリップを全て持って逃げろ。そして二度と、この街には戻るな」
「なっ……何言ってんだよ! 死ぬ気かよ!?」
「死にはしない。……ただ、亡霊を殺しに行くだけだ。墓穴を二つ掘る必要があるかもしれないがな」
ヴィクターはそれだけ言い残し、裏口の扉を開けた。
冷たい風が吹き込み、彼のコートの裾を煽る。
ミスト・ヘイヴンの血と鉄の味がする闇夜へ。
そこは、彼が捨てたはずの、場所だった。
同刻、オークション会場『カラスの館』・搬入口
丘の上に建つ屋敷は、地元民から“カラスの館”と呼ばれていた。
漆喰が剥がれ落ちた黒い外壁。尖塔に群がるカラスたち。
その裏手にある業務用搬入口は、今夜のオークションのために運び込まれる“商品”と、業者の出入りで慌ただしさに包まれていた。
その喧騒の中、一人の女性が重たいトランクケースを引きずって廊下を進んでいた。
全身を喪服のようなドレスとベールで覆ったセレナ――偽名『マダム・タランチュラ』だ。
彼女の額には、脂汗が滲んでいた。
白杖はない。
杖を持って歩けば、一発で「盲人」だとバレる。そうなれば、警備員たちは彼女を弱者と見なし、この場で排除するか、あるいは玩具にするだろう。ここは法の外なのだ。
彼女は左手で重いトランクのハンドルを強く握りしめていた。
ゴロゴロ……。
キャスターが床を転がる振動。それが今の彼女の“目”だった。
トランクを通して伝わる床のタイルの継ぎ目、傾斜、絨毯の厚み。それらの情報を指先で読み取りながら、彼女は慎重に歩を進める。
(右側の壁まで、あと3歩。……廊下の突き当たりからは、空調の低い唸り音が聞こえる)
チッ、という小さな舌打ち。
反響定位。舌打ちの音が壁に跳ね返ってくるまでのコンマ数秒の遅延を聞き分け、空間の広さと障害物の位置を把握する。
「おい、そこの女。遅いぞ! 会場の準備はもう始まってるんだ!」
背後から怒号が飛んだ。警備主任らしき男だ。
セレナは一瞬身を固くしたが、すぐにサングラス越しに妖艶な笑みを浮かべて振り返った。
「あら、ごめんなさいね。……この商品はデリケートなの。振動を与えすぎると、このお屋敷ごと吹き飛んでしまうわ」
脅し文句と共に放たれた彼女の声は、低く、腹の底に響くような迫力があった。
男が一瞬たじろぐ。その呼吸の乱れを聞き逃さず、セレナは男の立ち位置を正確に把握し、ぶつからないように身体を捌いてみせた。
その動きは、とても目が見えていない人間のそれではない。
「……チッ。ふざけた女だ。さっさと行け! “ガリヴァー様”がお待ちだ」
ガリヴァー様。
その名が出た瞬間、セレナの鼓膜が痛いほど脈打った。
(やっぱり、本人が仕切っているのね)
彼女は再びトランクを引き始める。
視界は闇。頼りは音と感触だけ。
それは地雷原を目隠しで歩くような極限の緊張感だったが、彼女の胸元には、懐中時計があった。
チク、タク、チク、タク……。
正確無比なリズム。それが彼女に、進むべき時間の速さを教えてくれている。
やがて、彼女は巨大な観音開きの扉の前へ辿り着いた。
中から漏れ聞こえてくるのは、弦楽器の調律音と、複数の人間の期待に満ちたさざめき。
そして――何かが腐敗したような、甘ったるい死の香り。
(ここが、会場(地獄)の入り口……)
警備員が重い扉を開け放つ。
セレナは覚悟を決め、その光のない瞳を見開いたまま、悪意の渦巻くホールへと足を踏み入れた。
同刻、メインホール『虚栄の広間』
シャンデリアの光が降り注ぐ広大なホールには、仮面をつけた100人以上の参加者たちが集っていた。
シルクハットの紳士、宝石を散りばめたドレスの淑女。
彼らは手にシャンパングラスを持ち、談笑している。
一見すれば優雅な社交界だが、交わされている会話の内容はあまりに異質だった。
「聞いたかね? 今夜の目玉商品は、20年前の“伝説の拷問具”だそうだ」
「ああ、“ディーバの喉”だろう? 喉を焼かれた囚人が、死ぬ瞬間に歌を歌うというアレだ」
「なんと風流な。ぜひ我が家の地下室に迎え入れたいものだ」
笑い声。グラスが触れ合う乾いた音。
ホールの隅、大きな柱の陰に、銀色の仮面をつけたヴィクターが立っていた。
彼はシャンパングラスを手にしていたが、口をつけることなく吐き気を堪えていた。
彼らの会話が、ヴィクターの耳には、かつて施設の壁越しに聞いた仲間の断末魔よりもおぞましく響いた。
彼らは“消費”しているのだ。
他人の苦痛を。絶望を。そして、ヴィクターが込めたはずの祈りを、歪んだ娯楽として消費しようとしている。
(……やはり、ここは墓場だ)
ヴィクターはカフスボタンに手を添えた。
いつでもやれる。このボタン一つで、この会場にある全てのクリスタルガラスを粉砕し、彼らを血の海に沈めることができる。
だが、まだだ。
元凶が現れていない。
ブー……。
不快なブザー音が鳴り、会場の照明がゆっくりと落ちた。
ステージ中央に、一本のスポットライトが突き刺さる。
カーテンが揺れた。
現れたのは、美しい司会者ではない。
車輪の軋む音と共に登場した、一台の巨大な電動車椅子だった。
ギイ……、ゴト。
ギイ……、ゴト。
乗っているのは、枯れ木のような身体をした老人。
顔の右半分は赤黒く焼け爛れ、皮膚が引きつっている。右目はカメラのようなレンズが埋め込まれた義眼、左手は無機質な鋼鉄製の義手。
まるで彼自身が、壊れた部品で無理やり生かされているガラクタのようだった。
「……フォフォフォ。ようこそ、親愛なる“共犯者”諸君」
老人が喋り始めた。喉元に埋め込まれた発声補助装置が、ザラザラとした機械音声を増幅して会場に響かせる。
「今宵は特別だ。……私のコレクションの中から、最も美しく、そして最も“教育的”な逸品をお見せしよう」
ガリヴァーが義手で指を鳴らす金属同士がぶつかるカチンという硬質な音。
舞台袖から、二人の屈強な男たちに引きずられるようにして、何かが運ばれてきた。
襤褸布のような服を着せられ、両手足に鎖を繋がれた、生きた人間――痩せ細った少女だった。
彼女の口には、猿轡の代わりに、あの悪趣味な銀色の装置が無理やり装着されていた。
――『歌う処刑具・ディーバの喉』
会場がどよめく。
ヴィクターの呼吸が止まる。
彼が作ったはずの医療器具は、醜悪な装飾と拘束具を追加され、少女の顔半分を覆う不気味なマスクへと改造されていた。
「この娘は、裏通りの孤児院から買い取った名もなきゴミだ。声帯は……まあ、この装置のために“加工”させてもらったよ」
ガリヴァーが淡々と説明する。少女は恐怖で目を見開き、ガタガタと震えているが、声を出そうとしても装置のバルブが空気音を吸い込むだけで、悲鳴すら上げられない。
「では、デモンストレーションといこうか。……少し痛いが、良い声を出してくれよ?」
老人は、隠し持っていた鞭を高く振り上げた。
革の鞭ではない。先端に小さな鉄球がついた、通電式の拷問鞭だ。
ピシャァッ!!
乾いた打撃音が響くのと同時に、少女の身体が跳ねる。
「――――――ッ!!!!」
耐え難い激痛。彼女は叫ぼうとして、大きく口を開け、肺の空気をすべて吐き出した。
だが、そこから響いたのは、人間の悲鳴ではなかった。
装置の中の共鳴管とリードが震え、人工的な、しかし恐ろしく透き通った“ソプラノの歌声”が会場中に響き渡ったのだ。
アァァァ……♪
それは『アヴェ・マリア』の旋律に似ていた。
苦痛が強ければ強いほど、その音色は高く、美しく、天上の音楽のように響くように設計されていた。
「おお……素晴らしい!」
「なんて音色だ! ブラボー!」
拍手喝采。
少女が涙を流して苦しむたびに、観客たちはその“歌声”に酔いしれ、歓声を送る。
――バキッ。
ヴィクターの手の中で、シャンパングラスが粉々に砕け散った。
ガラスの破片が掌に突き刺さり、血が滴り落ちるが、彼は微動だにしなかった。
(……殺す)
理性が消し飛んだ。
あの日、自分が405番のために込めた「祈り」が、今は「呪い」となって目の前の少女を苦しめている。
この光景を作ったのは誰だ? ガリヴァーか? 観客か?
いいや、根本的な原因は――あの装置を作った、自分自身だ。
ヴィクターは血のついた手で、カフスボタンを起動しようとした。
躊躇はない。
会場ごと吹き飛ばす。少女もろとも、この地獄を瓦礫に変える。
それが、製造者としての最後の責任だ。
だが、その指がスイッチに触れる直前。
彼の視野の端に、群衆をかき分けてステージへ向かおうとする黒い影が映り込んだ。
マダム・タランチュラに扮した、セレナだ。
彼女はサングラスの奥で見えない目を見開き、肩を震わせていた。
ヴィクターには見えている。彼女が白杖を持っていないことを。
そして聞こえているはずだ。彼女の鋭敏な耳には。
あの美しい歌声の裏側にある、少女の喉が潰れる音、空気が漏れる音、そして絶望的な心拍音の乱れが。
セレナは、ヴィクターが発動させようとした「破壊」よりも先に、己の肉体を使って「救出」へ動こうとしていたのだ。
(馬鹿な……! 丸腰で飛び込む気か!?)
ヴィクターの思考が停止し、そして再起動する。
計算が変わる。
今ここでボタンを押せば、セレナも巻き込む。
壊すか。救うか。
過去のために現在を犠牲にするか。
時計の秒針が進むよりも短い、決断の刹那が訪れた。




