第13話 灰色のカナリアと銀の棺 ~古傷を抉るカタログ~
その朝、ミスト・ヘイヴンを覆っていたのは霧ではなかった。
都市の排気ガス、海から吹き付ける風は、腐った藻の臭い……まるで古びた鉄錆が肺の中に入り込んでくるような、澱んだ湿気だった。
古時計店『失われた時間』の二階寝室。
午前6時00分00秒。
目覚まし時計が鳴るよりも早く、ヴィクターは泥のように重い眠りから目を覚ました。
呼吸が荒い。額には脂汗が滲んでいる。
彼はガバと身を起こし、シーツを握りしめた。手のひらに残る感触は、上質なコットンのシーツではない。ザラついた、冷たい石の床の感触だ。
夢を見ていたのだ。
もう何年も見ていなかった、灰色の地下施設の夢を。
(……鉄の味。オイルの匂い。そして、壁を叩く音……)
彼は洗面台に向かい、蛇口を捻った。錆の浮いた水道管から吐き出される冷水を、何度も顔に浴びせる。
だが、鼻の奥にこびりついた“焼けた肉と消毒液の混じった匂い”は消えなかった。
それは記憶の臭い。
今日の異様な低気圧のせいか、それとも運命が告げる凶兆か。彼の中の精密な生体リズムが、朝から不協和音を奏でている。
身支度を整え、重い足取りで1階の店舗へ降りる。
薄暗い店内には、無数の時計がチクタクと時を刻む音が満ちている。普段なら安らぎを与えるその音が、今日だけは、囚人の足首に巻かれた鎖が擦れる音のように聞こえた。
すでに先客がいた。
合鍵を預けている雑用係の浮浪児、レオ。
いつもなら小生意気な軽口を叩く彼が、今日は濡れた野良犬のようにカウンターの陰で怯えていた。その手には、場違いなほど豪華な革装丁の冊子が握られている。
「……おはよう、ヴィクター。今日はコーヒーを淹れてる場合じゃないぜ」
レオの声は震えていた。その視線は、どこか恐怖を感じているようだ。
「どうした。朝から幽霊でも見たような顔だな」
「幽霊の方がマシさ。……これを見て。『真夜中のサロン』の最新カタログ」
『真夜中のサロン』。
この街の富裕層が狂気と背徳を競い合う、伝説の闇オークション。招待状を持つ者だけが足を踏み入れることを許される、悪徳の見本市だ。
レオがおずおずと差し出した冊子を、ヴィクターは眉をひそめて受け取った。
滑らかな仔牛の革で装丁されたそれは、なぜか生き物の皮膚のようで、指先に不快な湿り気を伝えてくる。
「42ページだ。……裏の情報屋から買ったんだ、ヴィクターならこれが何だか分かると思って」
ヴィクターは無言でページをめくった。
盗難された王冠の宝石、出所不明の麻薬、紛争地帯から流れてきた違法銃器。ありふれた欲望のリストが続く。
そして、42ページ……。
――ドクン。
ヴィクターの心臓が、痛いくらいに強く跳ねた。
壁の時計の音も、すべてが遠のき、鼓膜の奥で耳鳴りだけがキーンと響く。
時が止まったかのように。
そこに写っていたのは、歪な形状をした“銀色の首輪”のような器具だった。
人間の喉の湾曲に合わせて成形された金属プレート。そこに複雑に絡み合う極細のパイプ、真鍮のバルブ、そして埋め込み式のアナログ共鳴管。
一見すれば、狂った芸術家が作った前衛的なオブジェに見えるかもしれない。
だが、ヴィクターだけは知っていた。
その一つ一つ
ミクロ単位まで指先で削り出したネジ、まざまざと思い出したからだ。
写真の下には、こんな煽り文句が添えられていた。
『品名:歌う処刑具“ディーバの喉”』
『概要:装着者の悲鳴を、至高のソプラノに変える変換装置。どれほどの苦痛を与えても、聞こえるのは天使の歌声のみ。貴方の拷問室を優雅なオペラハウスに』
『作者:不明(20年前の“矯正施設”収容者による試作品)』
『開始価格:10万ギルダー』
「…………ッ」
ヴィクターの喉から、声にならない音が漏れた。
激しい吐き気。
胃の腑が裏返るような、強烈な自己嫌悪と憎悪がマグマのように込み上げる。
(違う……違う……!)
それは拷問道具などではなかった。断じて違う。
20年前。あの地獄のような強制労働施設で、隣の独房にいた名もなき少女――管理番号405――のためだけに、彼が魂を削って作ったものだ。
当時、工場の有毒ガス漏出事故で喉を焼かれ、声を失った彼女。
暗闇の中で、鉄格子の壁をトントンと指で叩くリズムだけで、少年だったヴィクターと会話していた彼女。
『痛いよ、404。苦しいよ。歌いたいのに、声が出ないの』
『怖い夢を見たの。叫びたいのに、息しか出ない』
壁越しのタッピング信号が、脳裏に焼き付いた過去の記憶として蘇る。
405番は、元々は歌うことが好きな少女だった。彼女の唯一の救いを、あの施設は奪ったのだ。
ヴィクター少年は、彼女に“声”を取り戻してやりたかった。
廃棄場から楽器の残骸と医療用シリコンチューブを盗み出し、夜な夜な監視の目を盗んで布団の中で組み立てた。それは兵器でも拷問具でもなく、純粋な善意と技術の結晶――人工声帯補助装置だったはずだ。
だというのに。
(ガリヴァー……! あの悪魔め、これをあの子に使ったのか!?)
当時の施設長、ガリヴァー・ヴァーン。
彼は完成直前のその装置を没収し、薄ら笑いを浮かべて言ったのだ。『ほう、404。面白いおもちゃを作ったな。では、テストをしてやろう』と。
そしてその夜、405番の房に、その未完成の装置とガリヴァーが入っていった。
壁の向こうから聞こえてきた音を、ヴィクターは一生忘れることはないだろう。
ヒュー、ヒューという空気が漏れる音。
無理やりこじ開けられた少女の喉に、冷たい金属がねじ込まれる音。
そして――、苦痛に満ちた絶叫が、装置を通って美しくも歪んだ“機械仕掛けのソプラノ”に変換されて響き渡った瞬間を。
それは地獄の音楽だった。
ヴィクターの技術が、最も大切だった友人を最も残酷に傷つける凶器となった瞬間だった。
「ヴィクター……? 顔色が真っ青だよ。やっぱりこれ、あんたの……」
レオの言葉は最後まで聞こえなかった。
ヴィクターはカタログをカウンターに叩きつけ、激しく咳き込んだ。
まるで自分の喉に、その呪われた装置がねじ込まれたかのような錯覚。息ができない。空気が毒ガスの味がする。
口の中いっぱいに広がる鉄の味。彼は無意識に唇を噛み切り、血を流していた。
数秒後。
彼が顔を上げた時、その瞳から人間らしい動揺や恐怖は消え失せていた。
あるのは、凍てついた氷河のような、絶対零度の殺意だけ。
「……レオ」
声は低く、酷く渇いて錆びた歯車の音に似ていた。
「店を閉めろ。今日は、仕事にならない」
「え、でも……これからどこへ行くのさ?」
ヴィクターはレオの問いには答えず、普段は客に見せない店の最奥――修理用ではなく、“解体用”の重工具が眠るキャビネットへと歩き出した。
その背中からは、いつもの紳士的で優雅な雰囲気は微塵も感じられない。
そこにいたのは、ヴィクターという名の時計師ではなく、番号で呼ばれていた頃の、傷だらけの復讐者だった。
「回収しに行く。……私の技術が、これ以上“間違った音”を奏でる前に。そして、亡霊を棺桶に戻すために」
彼の握る拳の中で、親指の爪がさらに深く皮膚を食い破る。
痛みなど感じない。
20年前、壁の向こうで彼女が味わった痛みに比べれば、こんなものは痛みですらないのだから。
同刻、ミスト・ヘイヴン・ヒルズ。
オークション会場設営現場
ミスト・ヘイヴンを見下ろす丘の上にある、古いゴシック様式の私有邸宅。
今夜のオークション『真夜中のサロン』の舞台となるその屋敷に、一台の黒塗りの業務用バンが到着した。
ぬかるんだ地面にタイヤが沈む。
荷台から慎重に運び出される木箱の列。
その監視をしているのは、全身を喪服のような黒いドレスで包んだ女性、セレナ・ヴァレンタイン刑事だった。
彼女は今回、いつものような「刑事」としてではなく、裏口から、“運び屋”になりすまして潜入していた。
――『マダム・タランチュラ』。
それが、今日の彼女の偽名だ。
「おい、そこの女。こっちのトランクケース? 重すぎるぞ」
警備の大男が、セレナが足元に置いている小さなトランクを指差して詰問した。
セレナはサングラス越しに冷ややかに微笑み、その場を支配するような圧倒的な威圧感を放った。
「私の“商売道具”よ。中を見るのは構わないけれど……見たら目が潰れる呪いをかけてあるわ。それでもいい?」
低く、チェロの旋律のように響く声。
警備員は一瞬怯み、気圧されたように道を空ける。
「……チッ。勝手にしろ。変なモン持ち込んだらボスに殺されるぞ」
セレナは(……中身は、軍用のプラスチック爆弾だけどね)内心で毒づき、トランクを引きずって屋敷の中へ入った。
彼女がここへ来た理由は一つ。
ここ数ヶ月、ミスト・ヘイヴンの貧民街で多発している“身元不明の少女たちの失踪”。
その糸を辿った先が、このオークションの主催者――15年前に死んだはずの男、「ガリヴァー・ヴァーン」に繋がっていたからだ。
彼女が廊下を歩くたび、屋敷の構造音が靴底を通して伝わってくる。
普通の人間には聞こえない、屋敷全体の軋み。
地下のボイラーの唸り。屋根裏を走るネズミの足音。
そして……換気ダクトの奥から響く、重苦しい空気の流れと、何かが啜り泣くような風切り音。
(聞こえるわ。……この屋敷全体が、大きな棺桶みたいな音をしている)
死の匂い。血の跡を強い香水で上塗りしたような、頽廃的な気配。
セレナは、ドレスの胸元に忍ばせた銀の懐中時計を、服の上から強く握りしめた。
チク、タク、チク、タク……。
あの時計師が直してくれた正確なリズムが、彼女の乱れそうな心拍を整え、恐怖を冷静な怒りへと変えてくれる。
「ガリヴァー。……子供たちを食い物にする亡霊」
セレナは白杖を持たない手で、サングラス越しの見えない闇を睨みつけた。
「私が必ず、その腐った時間を終わらせてやるわ」
彼女は知る由もない。
今夜、その屋敷には彼女の他にもう一人、誰よりも深く過去の地獄を知る男が、血と涙で濡れた切符を持って現れることを。
屋敷の上空に、どす黒い雨雲が垂れ込めてきた。
遠雷が唸る。
それは、これから始まる惨劇の開幕ベルのように、低く、腹の底に響く音だった。
ミスト・ヘイヴンの長い夜が始まる。




