第12話 雨音に消えた火薬 ~修復された刻~
嵐の去ったミスト・ヘイヴンの空は、珍しく高く晴れ渡っていた。
路地裏の水たまりが朝陽を反射し、古いレンガ造りの街並みを鏡のように映し出している。
だが、その明るい陽光も、古時計店『失われた時間』の店内にまでは届かない。ここは常に薄暗く、埃とオイルの匂い、そして無数の歯車が刻む規則的な音だけに満たされている。
午後3時。
ティータイムの香りが漂う時刻。
カラン、コロン。
ドアベルが鳴り、サングラスをかけた女性客が入ってきた。
セレナ・ヴァレンタインだ。
彼女の歩き方には、先日店を訪れた時のような探るような気配はない。また、昨夜の死闘で見せたような殺気もない。
あるのは、長い旅を終えて家に帰ってきた時のような、安堵と確信に満ちた静かな足取りだった。
「いらっしゃい」
ヴィクターはカウンターの奥から顔を上げ、穏やかな声で迎えた。
彼の手にはピンセットもルーペもない。ただ、綺麗に磨き上げられた銀の懐中時計だけが握られていた。
「修理は終わっていますよ、セレナ刑事」
「仕事が早いのね。……昨日の夜は、よく眠れた?」
セレナはカウンターのハイチェアーに腰掛けながら、何気ない調子で訊いた。
それは挨拶代わりの鎌かけだ。
「ええ、雨音も止みましたから。ぐっすりとね」
ヴィクターは表情一つ変えずに嘘を吐く。
昨夜、ずぶ濡れで帰還し、泥のついた靴を手入れしていたことなどおくびにも出さない。
彼は手の中の懐中時計を、カウンター越しに滑らせた。
シュッ……ピタリ。
銀の時計は、セレナの手のひらの直前で正確に停止した。
「確認を。心臓部は新しいパーツに入れ替え、油もすべて交換しました。これで半世紀は止まらない」
セレナは時計を両手で包み込み、耳元に寄せた。
コチ、コチ、コチ、コチ……。
力強く、太く、そしてどこまでも正確な鼓動。
それは、昨夜の死闘の最中、混乱する彼女の頭の中に響いた“あの電子音”と、不気味なほどよく似ていた。
「……良い音だわ。まるで、嵐の中で行き先を照らしてくれる灯台みたい」
彼女はサングラスの奥で目を細め、懐から小さな金属片を取り出した。
昨夜、現場のクレーンの下で拾ったもの。
この懐中時計を巻くための、真鍮製の“ゼンマイ鍵”だ。
「これ、落とし物よ」
彼女は鍵をカウンターに置いた。
カチン。硬い音が店内の空気を凍らせる。
「昨夜、ちょっとした騒ぎがあった場所で拾ったの。……不思議ね。そこは、時計屋さんが散歩に来るような場所じゃないはずなのに」
決定的証拠の提示。
もし普通の犯人なら、ここで動揺してボロを出すだろう。
だが、ヴィクターはそれを、まるで待ちわびていた部品が届いたかのように、自然な手つきで拾い上げた。
「ああ、探していました。やはりポケットから落ちていましたか」
「……否定しないのね?」
「散歩は私の趣味でしてね。特に雨上がりの夜景を見るのは、頭の中のノイズを消すのに丁度いい」
ヴィクターは微笑み、鍵を時計の竜頭に差し込んだ。
カリカリと回る音。
「それで? その場所での“騒ぎ”とやらは、無事に収束したのですか」
「ええ。おかげさまでね」
セレナは一瞬、言葉を詰まらせ、それから意を決したように低い声で続けた。
「……一人の優秀な指揮者のおかげで、耳障りな雑音は消えたわ。その指揮者は、姿も見せずにタクトを振り、私を踊らせてくれた。礼を言いたいけれど、名前も名乗らずに消えてしまったの」
「それは残念だ。……まあ、名乗るほどのことではなかったのでしょう。その指揮者は、単に不協和音が許せなかっただけかもしれません」
「ふふっ……そうかもね」
セレナは小さく笑った。
それはヴィクターが初めて見る、彼女の無防備な笑顔だった。
刑事としての鎧を脱いだ、一瞬の素顔。
「いくら?」
彼女は現実に引き戻されたように、バッグに手を伸ばした。
「初回サービスです。それに……」
ヴィクターは、カウンターに戻ってきた鍵を指先で弾いた。
「落とし物を届けてくれた手間賃もあります。今回はこれで貸し借りなしにしておきましょう」
ヴィクターは知っている。彼女がこれから、警察内部の敵――彼女を罠にハメた汚職警官たち――と戦わなければならないことを。
レッド・ドッグを操っていた建設会社の社長は捕まったが、彼と癒着していた警察上層部の闇は深い。
金銭を受け取るよりも、彼女に「借り」を作らせておく方が、今後のシナリオにとって有益だ。
「……そう。じゃあ、甘えさせてもらうわ」
セレナは蘇った懐中時計を、自分の胸ポケットにしまった。
その心臓に近い場所で、規則的なリズムが彼女自身の鼓動とシンクロしていく。
「でも、これだけは覚えておいて、時計屋さん」
彼女は席を立ち、帰り際に入り口で立ち止まった。
背中越しに投げかけられた言葉は、今までで最も鋭利で、熱のこもった宣戦布告だった。
「私は、借りを作ったままでは終わらない女よ。いつか必ず、その仮面の下にある本当の顔を暴きにくるわ。……私の耳でね」
「楽しみにしていますよ。……私の時計が狂うのが先か、君の耳が音を上げるのが先か」
カラン、コロン。
軽やかなドアベルの音を残して、彼女は光溢れる午後ミスト・ヘイヴンの街へと帰っていった。
店内に残されたヴィクターは、静かにコーヒーミルを回し始めた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
手に伝わる確かな感触。
雨は止んだ。火種も消えた。
だが、この街の霧が晴れることはない。
そして霧がある限り、彼の仕事も、彼女の追跡も終わることはないのだ。
「さて……」
彼は挽きたての香りを胸いっぱいに吸い込み、数百の時計たちに向かって囁いた。
“次の幕は、どんな音色で始めようか”




