第11話 雨音に消えた火薬 ~ノイズの檻~
レッド・ドッグ逮捕から二日後。
雨は上がり、ミスト・ヘイヴンにはいつもの乳白色の霧が戻っていた。
午後10時。
街の北端、再開発予定地に指定されている埋立地。
錆びた鉄条網に囲まれたその広大な敷地には、建設資材や重機が無造作に置かれ、不気味な迷宮を形成している。
そこに、一台の覆面パトカーが停まっていた。
この埋立地までセレナを乗せてきた車だ。
だが今、運転席には誰もいない。
キーは抜かれ、エンジンは停止している。
数分前、運転していた若手刑事は「ちょっと裏を見てきます」と言い残し、闇に紛れて姿を消してしまったのだ。
彼は戻ってこない。いや、最初からセレナをここに置き去りにするのが命令だったのだろう。
助手席のドアが開け放たれ、無線機からは応答のない警察無線の雑音だけが虚しく漏れている。
自分が信じるべき組織に売り飛ばされ、嵌められたのだと。
「……出てきなさい。そこにいるのは分かっているわ」
セレナ・ヴァレンタインは、資材置き場の中心部に立っている。
彼女の黒いコートは夜露に濡れ、白杖を握る手には僅かに力が籠もる。
返答はない。だが、気配はある。
腐った潮風の匂いに混じって、安葉巻の煙と、多勢の男たちの汗の匂い、そしてチャキリという金属音が複数、彼女を取り囲むように点在している。
彼女がここへ来たのは、逮捕した放火魔レッド・ドッグの口を割らせ、黒幕である“ゲイル建設”の不正証拠を掴むためだった。
だが、頼りにしていた警部の姿はなく、彼女は一人でおびき寄せられたのだ。
「警察の嬢ちゃんよォ。……夜道は暗くて危ねえって、ママに習わなかったのか?」
嘲笑うようなダミ声が響いた。
資材の山の上に現れたのは、仕立ての良いスーツを崩して着た男、ゲイル社長だ。放火を指示し、地上げを行っていた元凶。
彼の合図と共に、物陰から10人近い手下たちが姿を現し、鉄パイプやバールで自らの手を叩いた。
「随分な歓迎ね。……それで? 署までご同行願えるのかしら」
セレナは動じない。サングラスの奥の瞳は、見えない代わりに全方位の音響情報を収集していた。
右前方3メートルに二人。背後5メートルに一人。
呼吸音、布擦れの音で、相手との距離と体格を正確に測る。
「連れて行くのは、あの世だ」
ゲイルが指を鳴らした。
その瞬間、セレナにとって最悪の拷問が始まった。
グオオオオオン!!
突然、周囲に設置されていた大型の工業用発電機と、スピーカーが一斉に起動したのだ。
大音量のロック音楽と、エンジンの爆音。
それらが四方八方から轟き、空間を埋め尽くす。
「うっ……!?」
セレナは思わず耳を塞いで蹲まった。
一般人にとっても騒音でしかないその音は、常人の数倍の聴覚を持つ彼女にとっては、鼓膜を千枚通しで突き刺されるような激痛だった。
音による目潰し。
彼女の世界は、ノイズで塗りつぶされた。
「ギャハハ! 聞いたぜ、テメェは耳が良いんだってなァ! これじゃ足音なんか聞こえねえだろ!」
ゲイルの高笑いが騒音に混じる。
敵が近づく気配が分からない。
どこからバールが振り下ろされるのか、距離感すら掴めない。
セレナは白杖を構えるが、その穂先は泳いでいた。
(だめ、聞こえない……情報量が多すぎる!)
男たちの足音が迫る。
右か、左か。
混乱する彼女の死角から、最初の一撃が振り下ろされようとしていた。
その混乱を見下ろす場所があった。
埋立地の隅にそびえる、巨大なガントリークレーン。その地上30メートルの運転席。
ヴィクターは、特等席で、眉間に深い皺を刻んでいた。
彼の手には改造されたトランシーバーと、高指向性の集音マイクが握られている。
「……嘆かわしい。ただの騒音公害だ」
彼は眼下で蹲るセレナを見ても、同情は抱かなかった。
あるのは、稚拙な手段で“良い楽器”を壊そうとするゲイル一味への、音楽家としての憤りだ。
ヴィクターは、放火の一件以降、このゲイルという男がどう出るかを監視していた。そしてセレナが動いたことで、事態が終局に向かうと予測していた。
だが、この状況は美しくない。
才能ある聴者が、下劣なノイズによって押し潰されようとしている。
「リズムも、調和もない。……調律が必要だな」
ヴィクターは、手元の端末を操作した。
眼下で、男の一人がセレナの背後を取り、鉄パイプを振り上げた瞬間。
カチ、コチ、カチ、コチ。
大音量のロック音楽の裏で、奇妙な音が響いた。
それは現場の全員に聞こえる音ではない。ヴィクターが持つ特殊なスピーカーから発せられる、特定の周波数帯のパルス音。
超高周波のメトロノームだ。
耳を塞いでいたセレナの指が、ピクリと反応した。
(……この音は?)
騒音の渦の中で、一筋の細い絹糸のような、純粋な電子音。
チーン、チーン、と規則正しく鳴るその音は、セレナの聴覚フィルターを透過し、脳髄に直接届いた。
それは彼女に“基準点”を与えた。
混沌としたノイズの海における、唯一の灯台。
そして、その電子音が変調する。
右前方、4時の方向、距離2メートル。
パルス音が、まるでソナーのように敵の位置を示したのだ。
「……あそこ!」
セレナは反射的に、見えない敵の方角へ白杖を突き出した。
鋭い突きが、忍び寄っていた男の鳩尾に深々と突き刺さる。
「ぐべぇっ!?」
男が泡を吹いて倒れた。
ゲイルや他の手下たちがぎょっとする。
なぜだ? この爆音の中で、なぜ位置が分かった?
「聞こえる……。リズムが」
セレナは立ち上がった。
もう、耳を塞ぐ必要はない。
謎の支援者が送ってくるリズムに合わせて、周囲の雑音が意味のある情報へと整頓されていく。
爆音の隙間にある、心臓の音。息遣い。服の擦れる音。
「3、2、1。……今」
ヴィクターの指がクレーンのレバーを弾いた。
上空から吊り下げられていた鉄骨のフックが、メトロノームに合わせて揺れ、照明機材にぶつかる。
カーン!!
甲高い音が左側で鳴る。
敵の注意がそちらへ逸れた瞬間、セレナは疾風のように動いた。
白杖が一閃し、二人の手下の膝を砕く。
彼女はもう、迷いなく踊っていた。
顔の見えない指揮者が振るタクトに合わせて、暴力という名の舞踏を。
――そして、騒音は止んだ。
発電機のプラグが抜け、最後に残ったゲイル社長が、セレナの関節技で地面にねじ伏せられたからだ。
静寂が戻ってきた。
転がっているのは、10人の屈強な男たち。全員が急所を正確に打たれ、呻き声を上げている。
「あ、痛てえ……俺の腕が……」
「なんなんだよ、あの女……」
セレナは肩で息をしながら、乱れた髪をかき上げた。
そして、まだ確信の持てない顔で、闇夜の上空――あのクレーンの方角を見上げた。
先ほどまで頭の中に響いていた、あの不思議なガイド音。
正確無比で、冷たくて、でも何よりも信頼できるリズム。
それは敵を倒した瞬間、プツリと途絶えた。
「……ヴィクター?」
彼女は霧に向かってその名を呼んだ。
返事はなかった。
ただ、クレーンの頂上でカラスが一羽鳴き、飛び去っただけだ。
その代わり、彼女のポケットの中の無線機から、ようやく警部や増援のパトカーが近づいてくるサイレン音が聞こえてきた。
彼女は助かったのだ。
姿なき“闇の指揮者”の手によって。
【同刻、撤収する影】
ヴィクターは、騒音に紛れて資材置き場を離脱していた。
手に持っていた即席のパルス発信機を分解し、証拠を海へ投棄する。
チャポン、という小さな水音が、ショーの終幕を告げた。
「……まったく、世話の焼ける女だ」
彼は苦々しく呟いたが、その表情には微かな満足感が漂っていた。
彼女の動きは悪くなかった。
自分が送ったわずかなリズムの意図を瞬時に理解し、完璧に反応した。あの即興のデュエットは、彼の想像以上に心地よいものだった。
「だがああも優秀だと、私が“直した”時計の精度も見抜かれそうだな」
ヴィクターは空を見上げた。
彼は刑事を救った。それは自分の正体が露見するリスクを高める行為だ。
だが、それでも構わなかった。
“良い観客”がいなければ、完全犯罪という芸術は完成しない。
彼女にはまだ、最前列で見ていてもらわなければならないのだ。
彼が去った後、現場の片隅――彼が隠れていたクレーンの梯子の下に、小さなものが落ちていた。
それは彼が落としたのではない。あえて置いたものだ。
一つの、小さなゼンマイ鍵。
『修理は完了した。君の時計を取りに来い』という、無言のメッセージだった。




