第10話 雨音に消えた火薬 ~氷結するカタルシス~
製粉工場跡地の暗闇に、小さな火花が咲いた。
大男レッド・ドッグがライターのフリントを擦った、その刹那の輝き。
それは瞬く間に気化したガソリンに引火し、ボッ!という不吉な破裂音と共に、紅蓮の炎柱となって立ち上った。
「ヒャハハハッ! 燃えろ! ダンスの時間だァ!」
レッド・ドッグが狂喜乱舞し、両手を広げる。
工場の床に積み上げられた廃材が一気に燃え広がり、凄まじい熱波が工場の冷気を食い破って上昇する。
熱い。熱気は物理的な暴力となって空間を歪めた。
梁の上に潜むヴィクターの頬にも、その熱風は届いていた。
だが、彼の瞳は炎の色に染まるどころか、永久凍土のように冷たく凪いでいる。
「……3、2、1。……おやおや、想定よりも温度上昇が早いな。野蛮な燃料の使いすぎだ」
ヴィクターが懐中時計を閉じる音が、始まりの合図だった。
彼が直結したスプリンクラーのセンサー――市販品よりも10倍敏感に調整されたバイメタル式感熱板――が、立ち上る熱気を感知してカチリと反った。
ズドンッ!!
次の瞬間、天井全体が爆発したかのような轟音が響いた。
錆びついた配管が唸りを上げ、数十年ぶりに覚醒したノズルが一斉に口を開く。
だが、そこから噴き出したのは透明な水ではない。
白濁した、重く粘り気のある“泡状の豪雨”だった。
「あぁン!? なんだ、水か!? こんな焚き火、水なんかじゃ消せ……な……!?」
レッド・ドッグの罵声が悲鳴に変わるのに、5秒とかからなかった。
頭上から降り注ぐその白い液体は、触れた瞬間に熱を奪い、猛烈な勢いで膨張し、そして――“硬化”した。
ジュワァアアア……!!
炎が消える音ではない。まるで巨大な氷塊をマグマに放り込んだような、不気味な冷却音。
ヴィクターが調合したのは、特殊な消火薬剤と速乾性セメント、そして液体窒素の成分を配合した、特製の“瞬間冷却凝固剤”だった。
「ぐ、ぐわあああ!? 冷たっ! なんだこれ、動け……動けねえ!?」
足元から急速に固まっていく白い泡。
それはレッド・ドッグの両足を床に縫い付け、撒き散らされたガソリンごと炎を物理的に“窒息”させていく。
燃え上がろうとした炎は、白い繭に閉じ込められたように瞬時に石化し、燻ることすら許されず鎮圧された。
無慈悲に。梁の上から、ヴィクターは静かにその様を見下ろしていた。
「熱すぎると料理は焦げるし、冷ましすぎると味が落ちる。……まあ、君にはその中途半端な姿勢がお似合いだよ」
工場の床は、白い雪原のようになっていた。
その中央で、膝まで白い泡に固められ、氷像のようになった大男が、寒さと恐怖でガチガチと歯を鳴らしている。
「た、たす……助けてくれぇ……」
「その声量はもう少し抑えた方がいい。観客は私だけではないようだぞ」
ヴィクターの呟きに呼応するように。
工場の入り口の錆びた扉が、何者かの蹴破るような勢いでバン!と開かれた。
【闇の中の足音】
「動かないで! ミスト・ヘイヴン市警よ!」
入り口に立っていたのは、一人の女性刑事だった。
ずぶ濡れの黒いコート。手には銃ではなく、長く鋭利な白杖が握られている。
セレナ・ヴァレンタイン。
彼女はサングラスの奥で見えない瞳を巡らせ、鼻孔を膨らませた。
「……何この匂い。薬品? それに、極端な気温の低下……」
彼女は即座に状況を分析した。
ガソリンの残り香はある。だが、燃えている気配はない。代わりに聞こえるのは、凍えた男のうめき声と、何かが硬化していく微細なピキピキという音。
「うぅ……うぅぅ……」
セレナは躊躇いなく、声の主へと近づいていく。
足元の白い凝固剤の端を踏んだ時、彼女の靴底が微かに粘つく音を立てた。
「貴方が“赤犬”ね。……状況は分からないけれど、神様の裁きが下ったようね」
「刑、刑事さん……たすけて……足が、凍っちまう……」
「動かない方がいいわ。その泡、無理に動くと皮膚ごと剥がれるタイプの溶剤よ」
彼女は男の手首に手錠をかけようとして、ふと手を止めた。
そして、顔を上げる。
彼女の感覚レーダーが、強烈な警報を鳴らしていたのだ。
――もう一人、いる。
天井近く。雨音と工場のきしみ音に紛れて、しかし確実に存在する“静寂”の気配。
普通の人間なら心拍や衣擦れの音を出す場面で、不自然なほど完全に気配を殺して“誰か”が、彼女を見下ろしている。
「……そこにいるのは、誰?」
セレナは低い声で問いかけ、ゆっくりと天井の方角へ顔を向けた。
彼女には見えない。だが、感じている。
かつてオペラ座で感じた、あの精密機械のような冷徹な存在感を。
「出てきなさい。……それとも、私が其処まで行きましょうか?」
梁の上のヴィクターは、息を止めていた。
心拍数を落とし、筋肉の弛緩をコントロールし、己を無機物へと近づける。
(……厄介だ。まさかこの悪天候の中、現場へ一人で乗り込んでくるとは)
計算外の事態。
本来なら、大男を氷漬けにした後、誰にも見られずに屋根伝いに撤退するはずだった。
だが、セレナが出口を塞ぐ門番のようにいる。
彼女の聴力は驚異的だ。
ここから身じろぎ一つすれば、その衣擦れの音で位置を特定され、あの鋭い白杖が飛んでくるかもしれない。あるいは銃撃か。
(逃走ルートは……北側の天窓のみ)
距離にして約10メートル。
雨音のノイズがあるとはいえ、鋼鉄の梁の上を音もなく移動するのは至難の業だ。
しかも、相手は“視界の悪さ”というハンデを持たない。闇夜であっても彼女にとっては昼間と同じだ。
ヴィクターは、ポケットの中を探った。
指先が触れたのは、先ほどの工作で余った小さな金属片――ワッシャーが一枚。
彼はそれを指で摘み、静かに計算をする。
風向き、雨の反響音、そして彼女の注意の方向。
ヴィクターは無言のまま、そのワッシャーを彼女とは正反対の方向――工場の奥にある崩れかけた階段の方へと、手首のスナップだけで投擲した。
ヒュン。
金属片が空気を切り裂き、階段の手すりにヒットする。
カーン……。
闇の中で乾いた音が響いた。
「! 其処ね!」
セレナが反射的に体を捻り、音のした方角へ駆け出そうとする。
その瞬間こそが、ヴィクターに与えられた唯一の空白だった。
彼は影のように動き。
猫のようなしなやかさで梁を渡り、開け放たれていた天窓へと身を踊らせる。
音もなく屋根の上に着地する――はずが。
ズザッ。
濡れた屋根の瓦礫に、わずかに靴が擦れる音がした。
雨音にかき消される程度の微かな摩擦音。
だが、セレナは立ち止まり、猛然と振り返った。
「陽動……!」
彼女はすぐさま天窓の方角を仰ぎ見る。
しかし、そこには既に誰もいない。
ただ、天窓の枠から吹き込む冷たい風と、微かに残る“機械油と古い紙の匂い”だけが、彼女の鼻腔をくすぐった。
「……また、あの匂い」
セレナは唇を噛んだ。
逃がした。
だが、確信は深まった。
オペラ座のシャンデリア。この廃工場のスプリンクラー。
手法は違えど、その根底にある美学――“因果応報”のシステム化――は同じ人間のものだ。
「ヴィクター……」
彼女は無意識に、祖父の時計を預けたあの職人の名前を口にしていた。
昼間の店内で感じた彼の正確無比なリズムと、今この闇の中に潜んでいた冷たい気配が、彼女の中で完全に重なり始める。
「いいえ。……まだ“容疑者”とは呼べないわ。でも……」
足元のレッド・ドッグが、「うう、さむい……」と情けなく呻き声を上げる。
セレナは手錠を取り出しながら、天井の闇をもう一度だけ睨みつけた。
「私が必ず暴いてみせる。あなたの仮面の下にある、本当の素顔を」
【雨上がりの帰還】
路地裏の古時計店『失われた時間』。
深夜、ヴィクターはずぶ濡れになって店に戻ってきた。
普段は完璧に整えられている髪が額に張り付き、水滴が頬を伝い落ちている。
彼は荒い息をつくこともなく、ただ無言で濡れたコートを脱ぎ、ハンガーにかけた。
階段の陰から、雑用係の少年レオが顔を出す。
「お帰り、ヴィクター。……ひどい顔だね。水もしたたるってより、水死体一歩手前だ」
「……あながち間違いではない。危うく魔女に魂まで見透かされるところだった」
ヴィクターはタオルで髪を拭きながら、店の奥へと歩く。
彼の表情には、仕事の成功を祝うような色はなく、むしろ計算外の難問に直面した数学者のような苦悩が浮かんでいた。
「魔女?」
「ああ。……白杖を持った、勘の鋭すぎる魔女だ」
ヴィクターは、カウンターに置かれていた、預かりものの古時計――セレナの祖父の形見――に視線を落とした。
その秒針は止まったままだ。
だが、まるで持ち主の代わりに見張り番をしているかのように、静かにヴィクターを見つめ返している気がした。
「火種は消した。オルゴールの老婦人の恨みも晴らした。……だが」
彼はその懐中時計をそっと手に取り、呟いた。
「これの修理は、私が思っているよりも難解で……危険な作業になりそうだ」
外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。
だが、ヴィクターの心の中に垂れ込めた“セレナ”という名の雨雲は、簡単には晴れそうになかった。
彼はため息を一つ吐き出し、作業台の灯りをつけた。
眠るには、まだ少し神経が高ぶりすぎていたからだ。
「さて……まずはこの錆びついた過去を、どう分解してくれようか」




