第1話 ソナタは黒鍵で奏でられる(前編)
“霧の港湾都市”。
この街の夜は、海から這い上がる鉛色の霧に濡れている。ガス灯の頼りない光さえも鈍く滲ませるその湿った空気は、路地裏の汚物も、罪の形跡も、すべての輪郭を曖昧にぼやかしていた。
午前0時。
街の中心にある大聖堂の鐘が、低い唸りを上げ始める。
ゴーン、ゴーン……。
その重低音は善良な市民にとっての眠りの合図だが、霧の奥に潜む者たちにとっては“狩りの時間”を告げるファンファーレだ。
港に近い、うらぶれた石畳の坂道。その中腹に、潮風で塗装の剥げかけた古びた店がある。
看板の塗装は禿げ落ち、『L... Ti...』という欠けた文字だけが読み取れる。
地元の人間は、半ば揶揄を込めてその店をこう呼んでいる。
――“失われた時間”と。
鐘の音が余韻を残す、わずか1分の間。
レインコートの襟を立てたひとりの男が、濡れた靴でステップを踏み、その重たい木の扉に手をかけた。
カラン、コロン。
真鍮のドアベルが、どこか訪問者を嘲笑うような、可愛らしくも冷ややかな音を立てる。
店内は異様なほどの静寂と、無数の“時を刻む音”に支配されていた。
壁一面を埋め尽くすのは、大小様々なアンティーク時計。
チク、タク、カチ、カチ……。
数えきれない歯車の鼓動が重なり合い、ずれたり揃ったりしながら冷たいシンフォニーを奏でている。その規則正しい音の壁は、初めて訪れた者の平衡感覚をわずかに狂わせるほどだ。
カウンターの奥、薄暗いランプの光の中に人影があった。
整えられた黒髪に、古風だが仕立ての良いベスト。
彼は左目にルーペを嵌め、ピンセットの先で米粒よりも小さなネジを摘んでいた。
店の主、ヴィクターだ。
彼は顔を上げることもなく、手元の小宇宙だけに愛情を注ぐように囁いた。
「……いらっしゃい。ちょうど、0時を知らせる鐘が鳴り止むところだ」
客の男は、怯えたように店内の空気を吸い込み、震える手でコートのポケットを握りしめた。
この街の掃き溜めのような場所で、なけなしの財産を叩いて手に入れた“都市伝説”。
それが単なるお伽話でないことを祈りながら、男は決死の覚悟で声を絞り出した。
「時間を……殺したいんだ」
その瞬間、ヴィクターの手が止まった。
金属的な音を立ててピンセットを置く。ゆっくりと左目のルーペを外すと、冷徹だが知性的な灰色の瞳が、濡れた子犬のように震える客を静かに射抜いた。
「よろしい」
ヴィクターは作業台から優雅に立ち上がり、ショーケース越しに身を乗り出す。その動きには、肉食獣のようなしなやかさがあった。
「君が止めてほしいのは、誰の針かね?」
客は帽子を取り、憎しみを吐き出すように言った。
かつては美しかったが、今は潰れてしゃがれてしまった声で。
「サルヴァトーレだ。……あの国立劇場の英雄、“神の喉”を持つと言われるテノール歌手」
「ほう」
ヴィクターは表情一つ変えずに相槌を打つ。
「あいつは……あいつは悪魔だ。自分が主役の座を独占するために、ライバルだった僕のワインに毒を盛った……。僕の声帯はただれ、歌手としての僕は死んだ。なのに奴は、今も喝采を浴びている。正義なんてどこにもない」
「それで? 君は警察へは行かなかったのかね」
「行ったさ! だが、証拠不十分だと言われた。……あとで知ったよ、サルヴァトーレが署長に高価な宝石を贈っていたことを。警察なんて、“公認の盗賊団”と変わらない」
客の言葉を聞き、ヴィクターは小さく鼻を鳴らした。
それは同情からではない。「毒を盛る」という手口のあまりの野蛮さと、警察の汚職というありふれた“杜撰な風景”に対する、美的感覚の欠如への侮蔑だった。
「ひどく不快で、調律の狂った話だ」
ヴィクターは呟き、カウンターの奥へ戻ると、重厚なタイプライターの前に座った。
オイルとインクの混じった匂いが漂う。彼は慣れた手つきでアンティークの機械に真っ白な紙をセットし、細く長い指をキーの上に置いた。
「正義、か。……私はそんな曖昧な概念には興味がない。だが、君の依頼には興味がある。美しい声を汚し、汚い金で安全を買うような輩は、社会というキャンバスにおける“公害”だ」
パチン、パチン、と彼はキーを叩き始める。
その音はリズミカルで、まるでピアノを弾いているようだった。
ヴィクターは打鍵しながら、独り言のように言葉を紡ぐ。
「いいだろう。神の喉か。……ならばその自慢の“声”が、奴自身を押し潰す重量へと変わる瞬間を見せてあげよう」
客は唖然として、タイプライターを叩く背中を見つめていた。
数分後、静寂の中にチーンという音が鳴り、紙が巻き上げられる。
ヴィクターは書き上がったばかりの“脚本”を手に取り、インクの乾きを目で確認してから、カウンターに滑らせた。
そこには、ト書きや台詞、秒単位のタイミングまで記された、一枚の精密な設計図が描かれていた。
「これを読み、そして頭に刻みなさい。この紙は店の外へは持ち出せない。読み終わったら、そこのストーブに焼べたまえ」
男は震える手でそれを拾い上げ、目を走らせる。
最初は怪訝そうな顔をしていたが、読み進めるにつれ、男の顔から恐怖が消え、暗い愉悦の色が浮かんでくる。
「……すごい。こんな……こんな方法があるなんて」
「すべての悲劇は、緻密に計算された喜劇でもある。実行するのは今夜の公演。曲目は『トスカ』の第3幕。クライマックスの“ハイC”だ」
ヴィクターは再びルーペを目に嵌め、自分の世界に戻る準備をした。
彼はもう、客のことなど見てはいなかった。彼の視線の先にあるのは、これから起こるであろう“完璧な犯罪”という名の芸術作品だけだ。
「代金は成功してからでいい。ただし、金はいらないよ。……サルヴァトーレがいつも胸に飾っている、ダイヤのピン。彼が破滅したあとで、瓦礫の中からそれを拾ってここへ持ってきたまえ。それで、取引は完了だ」




