C106 文学の尻尾
今夏のコミックマーケット、第106回に行ってきて、ますますエロをかわなくなっていた。
最初期の頃はエロと評論が8:2で、20年前くらいだと7:3であったが、今回は1:9である。
年齢的に枯れてきたからと云えるとは思うが、単純にpixivやXで新人を見つけ、新規開拓の上で現在イケてる画師を見極め、新たな流行りの潮流を見つけるのが面倒になってきていると書けば、やはり枯れたということにもなろう。
実際にはカタログのカットで好みがあればチェックするのだが、実際ブースで表紙を眺め・パラ読みして買わないことが多い。
昔から購入しているbolze.とVOLTESと宝魂に、新規のサークルのものを買うがそれも一読して直ぐに売るのでからももたるとくらいしか最近のものは購入していない。
(それにたねのなかみや浅貝もっちぬといったコミケで売らない同人作家が増えたのも一因であろう)
では、なんで未だ行き続けているかと云えば、評論が面白いからだと云えるが、これも最近評論系同人が、そう!エロでなく、漫画ですらなく、しかも小説でもない、評論系が商業書籍化したり、それどころか専門の即売会ができたり、注目したこともあろうが、それからはとりこぼれた文学の香りがするのであり、というか、この香りを嗅ぐために行っていたのか、というくらい今回は偶然にも文学の尻尾を踏むような評論系同人誌によく会えた。
最初に行っておくが、なれば文学フリマじゃあダメなのかと問われるであろうし、それはおいおい否定するのだろうが、アレは15年くらい前まではよく行っていたのであるが、あれはどうがんばっても文学でなく、サブカルで、そのワケが本稿の根幹となると思われる。
同人に評論であるから自然と同人活動から始まった日本近代文学に似る。
実際、私はそういうものを思わせる同人誌を毎回買ったり、見つけたりしている。
盛林堂書房「探偵作家・大阪圭吉展」の図録は書影に原稿や手紙の画像だけで構成されている本格的なもので、ネオユートピアのvol.66では藤子不二雄の幼馴染にインタビューをしていて、最早いちげんさんお断りだ。
そういう既存の文学研究に沿った同人誌がある一方で今年20周年を迎えたCRITICAのvol.20ではジュブナイル・ミステリを特集している。
そう、今から20年前のゼロ年代は柄谷行人や浅田彰の批評が壊滅した頃で、東浩紀とそのエピゴーネンがのさばり、気づいたら批評は無料のつぶやきと課金制の法人化し、滅んだ。
でもなぜかミステリ評論だけは面白く、うちに今でも全冊ある。
この他にも絶えず左寄りな漫画の手帳に、手堅い特撮系の評論本もあるが、本稿で描きたいのは、そういったもととは又別の名付けえぬものたちなのだ。
まず一日目に配置された今回いちばんの目当ての一つ、youtubeのセリフと演出から読み解くガンダム解説による「一年戦争アンソロジー 一年戦争研究紀要」だ。
この人のyoubetu番組を毎回楽しみにしているし、同じくガンダム解説動画のメカ部やミライ系ファクトリーにも原稿を書かせているので更に購買意欲をそそった。
動画でも哲学や文学を引用してガンダムシリーズの各話を解説する手際はさすがなのだが、自らが担当する文字版のファーストガンダム各話解説のタイトルが「初代『ガンダム』は文学である」である。
これはいささか気恥ずかしい。
確かにそういう要素はあるし、間違ってはいないのだが、そもそもの例の「アニメ新世紀宣言」や当時の読者投稿欄を眺めても、その〈文学〉であって今までのアニメとは違うと声高に叫ばれていたものだ。
でもやはり細論はまともで、面白いものに仕上がっている。
文学フリマの文学が〈文学A〉ならばこのガンダム解説の文学は〈文学B〉と呼ぼう。
次に夜話.zipによる「〈エロマンガの読み方〉がわかる本9 『ストーリーが』『面白い』『エロマンガ』」だが、ここにテクスト(死語)を提供した作家たちが、クジラックス、幾花にいろ、知るかバカうどん、東山翔と私も愛読する作家ばかりで、太ったおばさんと緑のルーペは未読だったので読むことを決めた。
ともかく作品論ばかりでなくクジラックス「歌い手のバラッド」を作者の主題的成長で読む作家論に仕立てたり、東山翔やうどんちゃんはコンテクストから読み解いたり、実に文学評論している。
たかが・されどエロマンガを読み解く時のために必然的に文芸評論の方法論が提出された奇跡にうなったのだ。
このエロマンガ論が〈文学C〉とする。
そしてまたもyoutube発進だが私は芸人・春のヒコーキが繰り出すバキ道チャンネルを愛好するのだが、この二人の動画は下ネタが多く、おたくネタやしょーもない話も多いが、たまにぐんぴぃが鋭い批評めいた発言をする。
いや、芸人だから当然なのだが、北野武映画や宮崎アニメに対しても切り口が斬新なのだ。
しかも会話の最中に梁石日やガルシア=マルケスの名が出るので、この人はビートたけしや太田光に連なるインテリ芸人であり、しかも青学卒だから、これでは受けない・受け入れられないのだが、それを童貞・キモキャラで逃げ切っているのである。
今回の同人誌「バキ道チャンネル副読本 2020-2022」「同 2023-2024」でも大江健三郎とビートたけしと立川談志の言葉が同列に並べられている。
大江健三郎なんて、オレですら理解できていないのに。
しかも太田光が藤村だの太宰だのピカソだのヴォネガットだのインテリとして好みが大味に比べ、ぐんぴぃのセンスはかなりいいのだが、相殺して鼻持ちならないベクトルには絶対に行かない。
このぐんぴぃのセンスが〈文学D〉だ。
最近、中原昌也の最新刊の一つ前を読んだのだが、重病で入院し、生死の境を彷徨い、障害を残ったが生存していたんだな。
その本に坪内祐三と西村賢太が回想されるのだが、まさにザ・文学の評論家と小説家であり、その早逝は文学に殉じたとも思われ、なんやかんやで文学の人の中原昌也は半身だけ持っていかれたと思ったものだ。
ここに90年代デビューの、東浩紀、掟ポルシェ、中原昌也を置く。
三人はほぼ同い年の70年代生まれ(私もそう)で、文系学生のカリスマだった人だ。
で、東浩紀と中原昌也は浅田彰と付き合いがあり、掟ポルシェと中原昌也は根本敬とそれがあった。
東浩紀はおたくでおたく擁護者だが、中原昌也と掟ポルシェはおたくをエラく嫌う。
東浩紀と中原昌也は小説を書くが、中原昌也と掟ポルシェは音楽でデビューした。
そこで、この三人は、
おたく・東浩紀 芸術・中原昌也 サブカル・掟ポルシェ
と以上のように分類できると思う。
そもそも文学について語っていたので、文学を十字グラフの頂点に置き、対立概念の大衆文学を対置させる。
すると、
文学
Aの文学フリマ
Cのエロマンガ
おたく・東浩紀 芸術・中原昌也 サブカル・掟ポルシェ
Dのバキ道
Bのガンダム解説
大衆文学
と、このように分布できると思われる。
この大衆文学がくせ者だが、なぜならば、映画に関してその別はないと云われるからだ。
実際、中原昌也は大衆娯楽の007やソフトポルノを好んでいる。
だからこの真ん中に位置できるのではあるが。
と、同時に中原昌也はさっきの本によると山田洋二を嫌い、どうも宮崎駿は許していて、掟ポルシェは富野由悠季のガンダムがダメなんだよ。
思うに、ガンダムは凄く優れた大衆娯楽作品で、ニュータイプや人間模様も娯楽作品のテクニックやテイストでしか無いと思えるのだ。
勿論娯楽作品が気づけば芸術になることもある。
それが宮崎駿・高畑勲であり、富野由悠季のジブリ・コンプレックスの正体である。
というか、この二人に比べると監督・演出家としてテクも富野は劣る。
何故なら判り辛いからで、その判り辛さを見事に分析・評論したからセリフと演出から読み解くガンダム解説は偉大なのだ。
ビートたけしは気質は芸術家だが大衆娯楽を作ろうとしている。
おそらくぐんぴぃの立ち位置がまったくそれで、たまに知性が出る。
ここいらが松本人志に対しアンヴィバレンツな感情のワケにもなろう。
そして私は芸術作品よりわずかに大衆娯楽作品の方が好きなのだ。
だからミステリを山のように読んだり、寅さんと必殺を愛してきたのだ。
だからAの文学フリマからはイケメンでヤリチンのぐんぴぃのようなものを感じてしまう。
そしていちばんの理想はクジラックス「歌い手のバラッド」のようなそのジャンルでしか語りえない真理を語るもので、それを作家論で挑む態度にヤられた(C)。
おそらくサブカルとおたくの差異は、サブカルが、例えば、掟ポルシェがモー娘。や全女をリスペクトしても自分らが女装して歌ったり・プロレスを始めることはないが、ただ好きなものを好きであるという衝動、それで面白くおかしくエッセイを書く(根本敬のように)に対し、ヘタだろうが・ミーハーだろうが、おたくは二次創作化して実際に書くし、コスプレするのだ。
それがサブカル勢としてはファンの分際をわきまえるから、許せない。
中原昌也はリスペクトしているものとは全然別のモノを書いているのはそういうことだ。
この恥ずかしげもなく、ということが分水嶺となった。
東浩紀がエロゲーを基にして「ファントム・クォンタム」を書いた時にいちばん面白いものが書けたように。
で、総評として、こららが文学のカテゴリーであり、ここからはみ出したら、もうそれは文学ではない。
文学・芸術のひとが大衆娯楽作品を志向するという態度だけでそれはオレにとって文学なのだ(逆はあり得ないけど)。
そしてこの枠から出ると何があるか?
それは右翼/左翼、保守/自由、鎖国/開国、といった政治や思想が待ち構えているのだ。