002 イカナ山
イカナ山脈。
それはこのグランセント帝国の禁足地と言われている場所だ。別に国が直々に入山を禁止しているわけではない。
では何故、禁足地だと言われているのか…それを今、ブレイブは身を持って感じていた。
「…ここが…“竜の住まう地”イカナか…」
まだ山の麓だというのにも関わらず、竜種の物と思われる方向、通常の山では考えられない程の獣臭さ…そして何よりも、感じる神秘が段違いなのだ。
人が踏み込んで良い場所ではない。入る前からそれがひしひしと伝わってくる。師匠も、入れば死ぬ、入口で引き返して来ても構わないと言っていた。
だがブレイブは、それが師匠なりに発破をかけてくれたのだと考えたら。
ここで死ぬ気がするからと言って引き返すようではまだまだだぞと…死に物狂いでこの山を生きて帰り、覚悟を見せてみろと…そういうメッセージだと、ブレイブは受け取った。
「師匠…俺はやりますよ…!!」
ブレイブは、今一度気合を入れて、イカナ山に足を踏み入れた。
グランセント帝国のとある剣術道場にて独り言を呟く一人の老人が居た。
「…なんか、あの馬鹿が山に入った様な気がするが…気の所為よな、入るなよって何度も言ったしな…」
「師匠、どうかなされましたか?」
「…いや、なんでもない」
老人の思いも虚しく、馬鹿は山に入ったのであった。
ブレイブ・グラディウスは農家の子に生まれた。特別な家系でも無く、辺境の農村で作物を育てる、そんな村に生まれた。
しかし何故か彼は剣士になることに憧れた。近くにダンジョンが在るわけでもなく、常駐の騎士が居る程国の端でもない。
剣を見る機会も握る機会もなく、英雄譚を聞くような機会も無いはずであった。
しかしブレイブは剣士になることを望んだのだ。齢を十五数える頃、彼は家を飛び出した。しっかりと書き置きを残して。
それを読んだ家族は皆、特に心配はしなかった。まあ元々ちょっと変な子ではあったし、そんな事もあるかと、飽きたら返ってくるだろうと。この家族も大概変であった。
そして家を飛び出し五年の月日が経った今、そのブレイブ君がどこで何をしているかと言うと…
「うわあぁぁぉぉおおお!!!」
竜の住処とされる山で必死に逃げ回っていたのだった。
「はぁはぁ…行ったか…?」
既にイカナ山に入ってから一週間は経過している。
だが、剣の腕前は全くと言っていい程進歩していなかった。それもその筈である、この一週間一度も剣を振っていないからだ。
まず山に入って一時間程でゴブリンの群れに出会った。
ゴブリンは小型の人形モンスターであり、その特徴は緑の肌と尖った耳である。
肌の色に因って凶暴性が変わり、濃い緑の者ほど凶暴で、薄い緑に近いほど人間に対して友好的である。
基本的には雑魚の代表格の魔物であり、ブレイブにとって何の問題も無く倒せる程度のものであった。
いつものように腰の剣を構えて戦闘態勢に入ったその時に、出会ってしまったのだ。この世界で上位の存在とされている竜種に。
それもダンジョンなどで見かけられる竜種とは、見るからに質の違う鱗や爪を備えた個体である。その竜は五体は居たゴブリンの半数を、一口で食すと、残りのゴブリンもあっという間に一飲みにしてしまった。
余りにも突然、余りにも暴力的なその光景にブレイブが動けないで居ると、不意にその竜と目が合ってしまった。
そこからは死に物狂いで竜から逃げる生活の始まりだった。幸い最初に遭遇した竜は、満腹だったのかそこまで追いかけて来ることは無かった。
やっとの思いで逃げ切れたと思ったのも束の間、今度は別の竜に見つかり、また逃げる。
これを繰り返している内に、気が付けば一週間もの時間が経過してしまったのだった。
この一週間でブレイブは、どの様な体制でも眠れるようになり、少しの音で目を覚ます軍人の様な体に成ってしまっていた。
綺麗に整えられていた赤色の長髪も、ボサボサになり、顔も二十歳とは思えぬ程に老け込んでいた。
ただ一つ、木登りだけは以上に早くなっていた。悲しい成長である。
「…はぁ、水も食料も底を尽きてしまったか…」
常に竜に追いかけられていた為、食料を満足に補給することが出来ていなかった。このままでは後数日…いやもしかしたら明日にでも竜の餌になっているかも知れない。
「帰り道も分からん…」
唯でさえ人の手の入らぬ山である。その上必死に脅威から逃げていた所為で、自分がどの様にしてここまで登ってきたのかも分からない。
「もし、ここで死ぬのだとすれば…最後に一太刀くらい浴びせてやりたいな…」
自身ですら殆ど忘れかけて居たが、本来ここには剣の修業の為に来ていたのだ。絶対に敵わないと思って逃げ惑って居たが、死ぬのだとすれば最後に戦って散るのも悪く無いだろう。
その様に考えていた時、やってみろと言わんばかりに、自分の腰程の体躯の、小柄な竜が目の前に飛び出してきた。
「ゴァ!?」
そいつも、他の生命体がここに居るのは予想外だったのだろう。体の小ささからしてもまだ幼体なのかも知れない。
だが、何もやらずに死ぬのは御免だった。
「俺の力、どこまで出来るか試させてもらう…」
体力も無い、水分も足りていない、言わば死に近い存在。
だからなのか、やけに五感が研ぎ澄まされていた。
「ガァァッ!」
幼竜が飛びかかって来る。しかし、その一挙手一投足を完全に捉えていた。
「はぁっ!!」
飛びかかってきた幼竜を二歩、ズレながら避ける。すれ違いの瞬間に完全に無防備となったその背中に、思いっきり剣を上から叩きつける。
肉を切る感触と、骨を折る嫌な手応えを感じる。
「ガァ…ァ…」
その一撃で幼竜は絶命した様だった。だが、達成感に浸る気にはさらさらなれなかった。
何故ならば、その親だと思われる先程の幼竜の、二倍ほどの大きさの二匹の成竜が、こちらを怒りの眼差しで睨んで居たからだ。
「ガアアアアアァア!!」
二匹の成竜が咆哮する。が、もう一歩も動けない。
元々体は限界だったのだ。先程の一撃で、言葉の通り全力を出し切ってしまったのだ。
ここまで来て、やった事と言えば、幼竜を一匹斬っただけ。
やはり師匠の言う通り基礎を固めて地道に訓練をするべきだった…でも後悔はない、自分で決めて自分で行った事だ、後悔は無い。
「さあ、来い!」
足は一歩も動かない、それでも最後の意地で剣だけは構える。それが剣士の意地であった。
ブレイブが覚悟を決めたその時であった。
「あれぇ?こんな所に人が居るなんて初めてだねぇ…」
この戦場にまるで似つかわしくない、のんびりした声が聞こえて来た。