8話「僕が医官になった理由」
報復 リシアン
リシアン、元気にしているかい?少しでもおかしなところがあったらすぐにお兄ちゃんに言うんだよ。そろそろ辺境大森林の麓に薬店を開いて1年になるのかな?1人で店を切り盛りするのは、大変なこともあるんじゃないかな。リシアンが頑張り屋さんなのは知っているけれど、決して1人で無理をしてはいけないよ。そうだ、夜はまだ寒いから暖かく
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私室の机には書きかけの手紙だけがポツンと載っている。忙しい日々に追われているうちに、季節は春へと移り過ぎていった。リシアンに返事を書く前に季節が変わってしまった。
リシアン、君は今日も元気にしているのかな。返事を出せていない僕が悪いんだけど、君が今どうしているのか……お兄ちゃんは心配です。
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僕にはここではない世界で生きた記憶がある。物心がついた頃には前に生きた世界と違うことが多く、随分と違和感があった。
それもそのうちに慣れて、成長するにつれて落ち着いていった。当たり前のように精霊がいて、科学は発達していないこの世界に僕は慣れていった。
前世で何をしていたのかは覚えている。僕は医師として働いていた。妻も子も、孫までいて最期は穏やかに眠りについた……そんな理想的な人生だったと思う。さすがに彼らの名前までは覚えていないけれど、うっすらと浮かぶその笑顔はやさしくて穏やかな気持ちになる。
ただ一つ、心残りがある。ずっと抜けない棘のように、心の奥深いところに残っている記憶。
穏やかに眠っているようにしか見えない痩せた青年、僕の弟。棺の中で手を組み、その瞳はもう開くことはない。
弟は過労から肺炎を発症して1人で逝ってしまった。最後に電話をした時、僕は彼に何て声を掛けたのかを覚えていない。喘息特有の乾いた咳をする弟に「病院は行ってるの?」と確認はしたと思う。「大丈夫だって!フツーに仕事も行ってるし……うん、問題ないよ」と明るく言う弟の声よりも、あの咳の音が忘れられない。
弟は小さな頃から喘息があって、僕はそんな弟を見て「医者になりたい」と思ったんだ。それなのに僕は……あの電話の時に弟にもっと強く受診しなさいと言えばよかった。弟の家は知っていたから様子を見に行けばよかった。これが僕の前世での最大の後悔だ。
だから、僕が12歳の時に父上が庶子であるその子を連れて来た時にはびっくりした。見た目は前世とは違うんだけれど、彼は僕の弟だった。
「リシアン」というその子が来た日。僕は今度こそ、弟には元気で長生きをしてもらって……守らなくてはと思ったんだ。
まだ6歳だというのにリシアンは臆することなく父上の事をじっと見つめていた。……父上は不器用な方だから、きっと何と声を掛ければいいのか分からないのだろう。母上がリシアンを引き取ることにはずっと反対をしていて、今朝もまた揉めて自室へと引きこもってしまっている事も気に掛かっているのだろうな。
「君がリシアンくん?今日から僕が君の兄上だよ。レオナリスというんだ。よろしくね」
野生の生き物みたいに、警戒しながら相手の様子を窺うリシアンにそっと声を掛ける。笑いかけるとリシアンからほんの少しだけ、肩の力が抜けたのが分かった。
「リシアンくん?やっぱり緊張するよねぇ。とりあえず、座って?僕とお茶とお菓子を食べようね?」
まだ緊張は解けないリシアンにゆっくりと近付き、手を握る。あの冷たくて固い大きな手ではなく、僕よりずっと小さく温かな手。今度こそ、お兄ちゃんが君を守ってあげるからね。
「はい……ありがとう、ございます」
どうしていいのか分からない、という風に目が泳いでいるリシアンがかわいくで僕はにっこりと微笑む。
「固くならなくていいよ?僕らはずっと前から兄弟なんだからね。レオ兄って呼んでほしいなぁ」
そう声を掛けると、やっとリシアンはぎこちなくも笑ってくれたんだ。そしてお菓子を夢中で頬張っていた。よしよし、たんと食べて大きくなるんだよ。
父上と母上の態度がはっきりしないせいで、使用人たちもリシアンのことをどう接すればいいか分からないようだった。だから僕はリシアンの部屋の掃除を徹底すること、快適な室温をキープする事を命じた。田舎で空気のきれいな子爵領だけど、弟の健康管理は最優先事項だ。
使用人たちの協力もあり、リシアンは元気にすくすくと育ってくれた。7歳のリシアンが冷えたチーズサンドを持って、一生懸命に精霊に何かお願い事をしていた時はちょっとびっくりしたけど。
「精霊さん、これにレンチンの魔法して!」
リシアンにそうお願いされた精霊たちも困った様子で何とか魔法をかけてあげようとはしている。
「ちがうの!焦がしちゃだめー。焼くんじゃないの、あっためるの!」
と必死に言うリシアンを見て、ちょっとお兄ちゃんは血の気が引いたよ……。え?リシアン、君も前世の記憶あるの?
「……リシアン、レンチンの魔法ってどういうことかな?」
恐る恐る聞いてみると
「知らない!何かあっためる箱があるでしょー。で、入れたらチン!って言うやつ……見たことないけど」
あ、電子レンジとか単語は覚えてないんだ。というか、だいぶうっすらとした記憶なのかな?
……お兄ちゃん、君が前世は過労と肺炎で早逝した事とかを覚えていたらどうしようかと思ったよ。
電子レンジ……リシアンは風と火の精霊様にお願いしたのか。
「リシアン、火の精霊様は水の精霊様に代わってもらおう?」
そして風と水の精霊様にそっと『水分子をマイクロ波で振動させて加熱してくれませんか?』と願う。魔法が発動されると、とろりとチーズが溶けたホカホカのチーズサンドができた。
「できたー!レオ兄、すごいねー。何で火の精霊さんじゃだめだったのー?」
「ん?秘密だよ」
リシアンに余計な事は思い出してほしくないから、微笑んでごまかした直後。
「あ、ポチもありがとー」
なんて言って徐ろに精霊様を鷲掴みにするから……慌てて
「精霊様にそんな扱いと呼び方をしてはいけないよ、ペットではないのだからね?」
と必死に言い聞かせた。
リシアンはすぐに
「そっかぁ。じゃあ精霊さんありがと、バイバーイ」
と手放していて……本当に素直でよかったよ。
せっかくレオ兄と呼んでくれていたリシアンは、次第に兄上と呼んでくるようになり敬語で話し掛けてくるようになった。
「俺が今まで会った人の中で最も敬意を払える人物が兄上なので」なんてうれしいことを言ってくれるけれど、お兄ちゃんはちょっとさみしいです。
15歳になる頃には「俺、成人したら冒険者か薬師になります!」とか言い出すから……君の発言に毎回、お兄ちゃんはドキドキが止まらないよ。てっきりリシアンはこのまま子爵家で、王都で医官をしている僕の代わりに子爵領を守ってくれるんじゃないかなと思っていたんだけれど。
君がそれを望むなら僕は応援するよ。学生の頃に使っていた薬学・薬草辞典、薬になる生物の素材について、魔獣素材の取り扱い方など必要そうな教材をリシアンに渡した。信頼できる学生時代の教授……今は辺境で薬学医官として研究をしているバルドレム先生に「リシアンが訪ねて来たら弟子にしてほしい」と手紙をしたためた。バルドレム先生は快く了承してくださった。
もうじき成人する君に僕がしてあげるのはこれくらいだけれど。君が元気で笑って過ごせるなら、なんて事ない。
少しだけ、さみしくはあるけれど。
そうしてリシアンは成人してすぐ、愛馬のゴルディくんと辺境へと旅立って行った。いつの間にか僕よりも背が高くなり、前世よりずっと逞しく見えるその背中に僕はやっと少し安心した。
それからもリシアンからは度々、手紙も届き兄弟の交流は続いている。定期的に熊を狩ってとか、バルドレム先生と魔獣を狩ったとか「ちょっとうちの弟、元気すぎやしないかな?」と思うけれど元気なのはいいことだ。
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……すっかり季節が変わってしまったから、僕は新しい便箋を取り出して手紙を書き始める。
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報復 リシアン
リシアン、元気にしているかい?少しでもおかしなところがあったらすぐにお兄ちゃんに言うんだよ。