第8話 対価
難儀しながら姫宮の髪を乾かし終えた俺は、風呂に入って寝る支度を整える。
昨日と同じで姫宮に部屋を使ってもらい、俺はソファーで寝るつもりだった。
身体を痛くするかもしれないけど仕方ない。
いくら俺の家だとしても信用面の問題がある。
あれこれ適当なことを言っているが、姫宮を怯えさせる意図はないのだ。
……なんて、考えていたけど。
「幽深くんも、一緒の部屋で寝て大丈夫だから」
姫宮は頬を赤らめながらも、確かに言ったのだから驚いた。
「……聞き間違いか? 姫宮が俺と一緒に寝たいって」
「捏造しないで。私は一緒の部屋で寝てもいいって言っただけ。家主をソファーで寝かせるのは……ちょっと、忍びないのよ」
「ベッドで寝られるなら身体を痛めずに済むから助かるけどさぁ……大丈夫なのか? 同じ部屋に男がいて。家を出てきた原因も――」
「幽深くんはクラスメイトで、バイト先の先輩。しかも、私は厚意で泊めてもらっている立場。家を出てきた原因がどうあれ、家主を部屋から追い出すなんて恩知らずもいい所でしょう? 昨日は……まあ、信用しきれていなかったのもあるけれど」
「今は信用してくれてるのか?」
「……それなりに、よ。あくまでそれなりに、だから」
「素直になればいいものを、愛いやつめ」
「…………なんなのよ、そのノリ」
「俺も急に一緒に寝ようって言われて動転してんだよ言わせんな恥ずかしい」
こちとら彼女いない歴=年齢の非モテ男子高校生だぞ?
それがいきなり女子と同じ部屋で寝ようと誘われれば緊張するのは当然。
俺は純粋無垢なんだよ、どこぞのヤリチン共と違ってな。
しかしまあ、そういうことなら俺が断る必要はないか。
「そんじゃ、お言葉に甘えて自分のベッドで寝かせてもらいますかね」
「そうして。でも、寝顔を見るのはダメだから」
「わがままなお嬢様だこと。なら、俺より先に起きないとな。部屋を出るときにどうやっても見えるだろうし」
「……そうね。迷惑はかけられないもの」
まだ迷惑だのなんだのと言っていられる余裕があるらしい。
真面目なのが裏目に出てるな。
俺がのらりくらりと適当にはぐらかしていても、本人が納得しないとどこかで爆発してしまいそうだ。
代替案を考えておかないと。
でも、姫宮に求められる対価って一体?
エロイのはなしだぞ、あくまで健全な範疇で頼む。
男の端くれとして期待しないこともないけど……やっぱ初体験はちゃんと好きな人同士でのイチャラブエッチが至高だと思うんですよ。
童貞の高望み?
かもしれんが、これが俺の童貞としての矜持だ。
……なんて独り芝居を誰かに知られたらクッソ恥ずかしいよな、なんだよ童貞としての矜持って。
それっぽいルビつけりゃいいって話じゃねえんだぞ?
「私、そろそろ寝るわ」
「俺も寝るか。照明はどうする? つけたままじゃないと寝られないとか」
「真っ暗でいいわよ。暗闇に乗じて変なことさえしなければ、なんでもね」
「寝相が悪すぎてベッドから転げ落ちて添い寝してたらすまん」
「その時は蹴り起こすから覚悟して」
流石にそこまでの寝相の悪さを発揮したのは子どもの頃だけだ。
……姫宮の生足で蹴られるのも中々悪くなさそうだなと思ったのはここだけの話。
変態思考は置いといて、照明を消してベッドに潜り込む。
姫宮も床に敷いた布団に入ったのだろう。
衣擦れの音がしばらく聞こえて、静かになる。
「おやすみ、姫宮」
「……おやすみなさい、幽深くん」
暗い部屋でおやすみの言葉だけを交わして、瞼を閉じる。
明日も学校あるし、早く寝ないと。
起きたら飯作って、姫宮送り出して、その後で俺も出て――
……。
…………。
………………。
すまん、全く寝つける気がしない。
昨日は別の部屋で寝ていたから姫宮の存在を意識することも薄かった。
けど、今日は同じ部屋で寝ていて、寝息やら衣擦れやらの音が聞こえてくる。
一年ちょっと一人暮らしをした家で感じる、家族じゃない人の気配。
その違和感を簡単に呑み込めるほど俺のメンタルは図太くない。
別に女の子がいるから緊張してるとかじゃねーし?
姫宮みたいな美少女が家にいても平常心を保てるくらい余裕だし?
……だったら寝れてるはずなんだよなぁ。
ここで気になるのは姫宮の様子だ。
眠れそうなのか、俺と同じか。
気になる……けど、起き上がって覗き込むわけにもいかない。
そんな素振りを見られたら襲うつもりだったと思われそうだ。
姫宮を無暗に刺激する意図はないからな。
しっかし頭だけが冴えてるってのも厄介だ。
羊でも数えたら寝られるのか?
「……幽深くん、起きてる?」
なんて考えていたところ、不意に囁くような姫宮の声が俺を呼んだ。
どうやらまだ寝付けていなかったらしい。
「起きてるぞ。おねしょでもしたか?」
「するわけないでしょ。……私、やっぱり納得できないの」
「何が?」
「対価もなしにこんな待遇を受けていることが」
互いに寝たまま、顔を見せずに姫宮が呟く。
やっぱり気にしていたのか。
「友達ってのは対価とか関係なく助けるものだろ?」
「私と幽深くんがいつどこで友達になったのよ」
「そこまで言わなくてもええですやん……なんてのはともかく、それだと姫宮は友達でもなんでもない、ただの知り合いの男の家で寝泊まりしている無遠慮な女ってことになるぞ」
「意趣返しにしては随分具体的だけど……事実よね。私は幽深くんを、まだ友達として扱えない。そういうのがわからないの。でも、だったら猶更対価がいると思う。タダで恩恵を与えられる関係が健全なわけない」
姫宮の中だと俺はあくまでバイト先の同僚かつクラスメイト。
実際、親密とは口が裂けても言い難かった。
学校では話さないし、バイト中も仕事に必要な会話だけ。
まともに話したのも昨日の夜が初めてじゃないだろうか。
だから姫宮が俺を友達と思えないってのも理解できる。
俺も半分冗談のつもりだったし。
ただまあ、この状況の理由付けをするのに都合が良さそうだと思っただけ。
希薄な知り合い程度の関係より、友達と名前がついていた方が色々諦めやすい。
しかし、姫宮はそれを断わった。
賢い姫宮には俺の意図が多少は伝わっていると思う。
その上で俺に甘えることを拒んだのは、真面目過ぎると言わざるを得ないが。
「対価は貰ってるだろ。家に美少女がいる」
「……揶揄わないで。空気清浄機みたいな扱いも不服。私は置物程度の価値しかないってこと?」
「卑屈すぎやしないか? 美少女ってのは眺めてるだけで精神安定作用が」
俺なりのユーモアを交えた言い訳の途中、ばさりと音がする。
音につられて寝返りを打てば、姫宮が掛け布団を押しのけて立ち上がっていた。
トイレにでも行くのだろうか。
そんな風に考えていた俺の油断を突くように、姫宮はTシャツの裾に手をかける。
そして、一息にそれを脱いでしまった。
「は?」
思わず漏れた声が、暗い部屋にこだまする。
暗がりに浮かぶ姫宮のシルエット。
Tシャツを脱いだことで上半身の輪郭が明確になり、胸の膨らみと細いくびれのラインが余すことなく見て取れた。
「いや、おい、ちょっと待て。何やってんだ姫宮服を着ろ脱がなきゃ寝れないってやつかそうなのかだとしても露出癖は俺としても困るから時と場合を――」
「……ちょっと、黙って」
か細くも、綺麗に通る声。
俺の言葉は遮られ、姫宮がこちらへ歩き寄る。
暗いせいで姫宮の表情は窺えないが、碌でもない顔をしているのは間違いない。
姫宮は遂に俺のベッドへ辿り着く。
不穏な気配を感じて遠ざけようとしたが、それより先に姫宮がベッドへ上がる。
二人分の重みがかかって、スプリングが悲しげに軋む。
掛け布団が取り払われ、仰向けになっていた俺を逃がさぬよう姫宮が左右に手をついて四つん這いのような体勢へ。
手を伸ばせば届く間近に迫った、上半身は下着だけの姫宮。
ここまで近ければ暗くても表情が窺える。
恥ずかしさを押し殺し、覚悟を決めた青い眼差し。
一種の真剣さを帯びたそれが俺を映す。
「夜這いなら間に合ってるぞ?」
「そうかしら。二日連続、幽深くんが美少女だって褒めたたえる私が家に泊まっているのよ? ……男の子って、しないと溜まるんでしょ?」
姫宮の視線が下へ。
意識的に向けられたそれに、俺はどうしたものかと悩み果てる。
「とんでもないことを口走っている自覚はあるか??」
「保健体育の授業ではそういうものだって習ったし……違うの?」
違うとも否定しがたいのが困った。
姫宮へ異性としての関心を寄せていなくとも、彼女が俺の美的価値観からしても非常に可愛らしい容姿をしているのは認めている。
そして、厄介なことに男の性欲ってやつは節操がない。
恋愛的には無関心な相手にすら欲求が湧くわけで……姫宮にそういう気持ちを完全に感じなかったかと聞かれれば、否と答えてしまう。
が、それとこれとは話が別。
「保健体育すら真面目に受けてるのはちょっと面白いが、一旦服を着ろ。大変眼福だが、それは将来隣に寄り添ってくれる素敵な彼氏くんに取っておけよ。間違っても俺みたいなド平凡男子に見せつけるものじゃないぞ」
姫宮がこれ以上のことをしでかさないよう、薄っすらとだけ目を開けながら諭すように口にする。
姫宮の下着姿を頭に焼き付けようとしていたわけではない。
非常事態に備えての対応策だからな。
それはそれとしてありがたく見ておくけど。
「……言葉と行動が嚙み合ってないわよ。見たいなら素直に見ればいいじゃない」
「男心はそんなに単純じゃないんです~!」
「ふざけないで。私は本気なんだから。幽深くんは何もいらないって言うけど、私の気が収まらない。タダより高いものはないって言うし……それなら、ちゃんと対価は支払っておくべき。けど、お金がない私は代わりのもので補うしかない」
首元におかれていた姫宮の右手がベッドシーツを伝い、俺の頬へ添えられる。
さらに顔が近付き、吐息すらかかるほど。
姫宮の唇に意識が吸い寄せられ――
「――私の身体、宿代くらいにはなる?」
囁かれた言葉は、俺も予想していたものと相違なかった。